第3話
第三回
訪問
そうなんだ。その上に玄関から家の中に入ったらすぐに六角形の部屋になっていて、部屋の周囲は本箱になっていてなぞなぞの本がぎっしりと詰め込まれているんだ。萌子ははしごに聞いたんだ。これがあなたが言っていたなぞなぞの本なの。そうなんだ。死んだ親父は朝から晩まで何もしないでこの本を引っ張り出してはこの本を読んでなぞなぞを解いていたんだよ。それも子供の解くようななぞなぞをね。そう言ったはしごの表情には苦々しいものがあったんだよ。随分といっぱい、なぞなぞの本があるのね。この家の中にある部屋中すべてにこんななぞなぞの本があるんだ。次の部屋に入ってみるかい。この扉を開けると廊下に出られると云う仕組みになっているんだ。廊下と云っても大小の六角形を組み合わせたときに出来る多角形の空間に過ぎないけどね。つまり六角形の部屋を結ぶ空間と云う意味しかないのさ。そう言ってはしごは廊下に出た。そこはもちろん単なる多角形の空間だよ。その空間には三つドアがついている。どのドアを開けたらいいか、いつも悩んでしまう。このドアを開けたらどこに行くか、ときどき勘違いをしてしまうことがあるんだ。でもたぶんここだよ。吉見はしごは自分で見当をつけたドアを開けたんだ。すると中には部屋の中央に木製のテーブルが備えられていて、そのテーブルも六角形なのだが、コップやコーヒー茶碗が二人分置かれ、白いホーローびきのコーヒーポットも置いてある。瀬戸物の砂糖壺も置かれていた。そしてテーブルの真ん中には大きな皿が置かれていて、外側を焼いて三角に切ったサンドイッチが皿の上方からラップがかけられて置いてある。ラップの内側に水滴がついている。すっかりホットサンドウィッチはさめてしまっているけど、また焼き直すためにあまり焼きすぎないように注意してあるんだ。他の部屋と同じようにその部屋の周囲にはやはり本棚が置かれて、なぞなぞの本がぎっしりと詰め込まれていたんだ。この食事の用意をしたのはもちろん吉見はしごだったんだな。吉見はしごは今日、萌子と会う予定が立ったときから、この用意をしていたんだ。おいしい御飯を炊くことが出来るんだから、こんなことをするぐらい朝飯前だったんだよ。まあ、すごい。これをはしごさんが作ったの。そうだよ。まるで****みたいよね。萌子はファミリーレストランの名前を出した。そのときこの六角形の食堂の柱にかけてある時計が十二時の鐘を鳴らしたんだ。するとはしごはその時計を仰ぎ見たんだ。
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そのことになにか意味があるのかい。
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意味があるんだよ。はしごは萌子に言ったんだ。食事をする前にお風呂に入らないかい。お風呂ってどこにあるの。こっちだよ。はしごは六角形の部屋の一角にあるドアを指し示した。その食堂の壁の六枚あるうちの三つはドアになっていて他の部屋につながっていたんだ。一つは厨房につながっていて、もう一つはなんでもない他の部屋に繋がっている。そしてもう一つは風呂場に繋がっていたんだ。はしごがそのドアを開けると中には浴槽があった。その浴槽と云うのもすごくへんちくりんなものだった。
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どんな風にへんちくりんなんだい。
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和室の畳敷きの部屋の中に杉の木で作られた浴槽があるんだよ。その中にお湯が張られているんだ。ここが僕の家のお風呂なんだよ。浴槽は二メートル四方の正方形をしていたんだ。浴槽の外側にはさらに三メートル四方の板の間が続き、その外は畳敷きになっていたんだ。浴槽の中はうぐいす色のお湯がゆらゆら揺れて湯気が立っている。ここに入るの。萌子は乾いた声でそう言った。僕も入る。吉見はしごはそう言ったんだ。萌子もこのぐらいの事はあるんではないかと期待をしてはしごの家に来たんだな。
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でも突然、家に招待してお風呂に入れさせるなんておかしいじゃないか。
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それが吉見はしごの家の伝説なんだよ。はしごの死んだ母親が言っていたんだ。自分がこの家に始めてやって来たとき、柱の時計が十二時の鐘を打った。すると浴室のドアが開けられて、風呂の準備がされていた。そしてその風呂に入った。それがこの家の嫁になるための手続きだった。と死んだおばあさんに聞かされた、と。そして同じようにこの風呂に入ったんだ。
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じゃあ、萌子がその風呂に入ると云う意志を示すと云うことははしごと結婚すると云う意志を示したことになるんだ。
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そうだよ。はしごの家の風呂に十二時に入ると云うことはそんな力があるんだ。
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そう。そう云った不思議な力があるんだ。それで萌子の方はいいけどはしごの方はどうなったんだい。ふたりでその風呂に入ったのかい。
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そうだよ。
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萌子の両親は萌子がはしごと結婚することになっていると知っているのかい。
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知らない。
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吉見はしごは自分の家がどんな建築屋に建てられたとわかったのかい。
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明治三十年前後にものごころのついていたのは、雑魚田俊光の母親しかいなかったんだ。雑魚田俊光の母親は夫よりも三十才も若かったんだ。母親が結婚したのは夫が四十八で妻が十八だったからね。そのことについて知っているのは萌子のおばあさんしかいなかったんだ。でも、そのことについて萌子のおばあさんは一言もしゃべったことはない。話すことと云えば、自分の嫁の作る飯がまずいと云うことしかなかったんだからね。それに四階建ての変な家にそれぞれの階に住んでいてふだんはあまり接触することもなかったんだ。吉見はしごはそのおばあさんなら、ふたりがそれぞれに住んでいる変梃な家の秘密を知っているかも知れないと思い、萌子の家に行くことにしたんだ。風呂から上がって一緒に食事をしながらはしごは萌子に聞いたんだ。君の家に行ってもいいかい。いいわよ。でも変な人たちばかりだから驚くかも知れない。そうだ。***のドーナツを買って来て、おばあちゃん、あれが好物なの。おばあちゃんには何か餌を買って来なければ会ってもくれないわ。
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それではしごはドーナツを買って萌子の家に行ったんだね。
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そうだよ。近所の駅にあるドーナツ屋でみやげのドーナツを買って地下鉄の駅に乗り込んだ。乗る線路は当たっていたんだけど萌子から聞いた地下鉄の降りる駅を一つ間違えて、違う駅に降りてしまったんだ。そこで歩いている人に萌子の家の住所を聞くと墓地の裏の切り通しを抜けて行かなければならないと言うんだ。その切り通しと云うのも自動車がびゅんびゅんと走っていて、歩道なんかも細くなっていて右側の歩道を歩いて行くと途中で道が途切れるから左側の歩道を歩いて行かなければならないと言われたんだ。はしごが聞いた道を歩いていくと確かに細い歩道で横を自動車がびゅんびゅんと走っていく。昔ここを舞台にしたカリエスの少年が出てくる小説が書かれた場所だということがはしごの頭には突然にちらりとわいたんだ。でもすぐに消えてしまったけどね。確かに表通りは日本でも有数な繁華街として有名な場所だと云う事実はあるわけだけど、裏の方へ行くとたしかにそんな昔の空気が感じられなくもなかったんだ。そして、その歩道を抜けると坂になっている場所にただスペースを取って遊具が二、三しか置いていない公園があったんだ。その公園の裏の坂のさらに急になっている場所にお墓のような四階建てのコンクリートで作られた建物があったんだ。全体は灰色をしているのに、一階には木製のドアがついていて、そのドアには葡萄のレリーフがついていたんだ。そのドアを静かに開けると中は小さいけれど床一面が釣り堀の池のようになっていてその池の中には魚が泳いでいる。オリーブグリーンの藻の下で魚の泳ぐ姿が見え隠れしている。その池の向こうにはもう一つ部屋があった。萌子から聞いた話によると、そこが食堂らしいんだ。そこで雑魚田家の全員が食事をとるらしい。食堂の横一面には大きなエレベーターらしいものがついていて、それを使って上の方の階に行くらしい。食堂の中はガラス窓がついているのでその中が見えるんだけど、テーブルなんかが置かれている。屋内にある池の真ん中には橋がついているので食堂のある場所、つまり、エレベーターの前まで行けるようになっている。橋と云っても二メートルの長さしかないんだけどね。玄関のドアを開けても中からはなんの返事もないのではしごは下を泳いでいる魚を見ながらその橋を渡って、食堂の中に入った。そこは家庭の食堂と云うよりも大衆食堂のような感じだった。テーブルなんかも鉄パイプを曲げたものにデコラ板が張られていたり、椅子もそんな感じだった。テーブルの上には割り箸さしが置かれて割り箸がぎゅうぎゅうにさされていたんだからね。横にはところどころ塗装のはがれた、クリーム色のエレベーターのドアがある。はしごがスイッチを押すとエレベーターのドアが開いた。はしごはそこに乗り込むと数字の二を押したんだ。萌子がじ分の部屋は二階だと言ったから。はたしてエレベーターのドアが開くと大きな一つの部屋が目の前に現れたんだ。二階全部が仕切りもなく、一つの部屋になっている。八畳くらいの大きさの部屋だろうか。部屋の片隅にはベッドが置かれ、女の子の部屋らしく、テレビや鏡台、衣装箪笥が置かれている。それらが小綺麗な意匠を施されていた。女の子の遊び道具で人形の家と云うものがあるだろう。人形と云ってもハムスターやウサギの人形なんだけどね。家の半分が切ってあってその内部が自由に見えるようになっている家だよ。吉見はしごはそのエレベーターから降りたんだ。もちろん部屋の中には萌子がベッドに腰掛けて待っていたんだ。
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吉見はしごはもちろん、ドーナツを買っていったんだよね。
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もちろんだよ。
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そのドーナツでおばあさんを釣って、その家の秘密を聞きだそうと云う魂胆なんだよね。しかし、ずいぶんと安いもので言うことを聞くおばあさんだな。
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人間の味覚と云うものが年をとるにしたがってある部分だけが残ると云う話しを聞いたことがないかい。だから、ある調味料だけを料理に使えばいいと云うことさ。欲望もある一つの部分だけに集約されてしまうと云うことがあるかも知れないさ。
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そんなものかね。
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(小見出し)母親
そんなものだよ。萌子は腰掛けていたベッドから降りるとはしごの方に駆け寄って来た。そのベッドと云うのもふかふかでフリルの敷布がかけられているのさ。ふたりは顔を合わせると同時にそのベッドの上で深いキッスをかわした。今日はおばあさん、いるのかい。いるわ。聞きたいことを全部教えてくれるだろうか。わからない。変なおばあさんだからおどろかないでね。でもとにかく、おばあさんの部屋に行きましょうよ。御飯を食べたあとはいつも機嫌が悪くなるんだから。おかあさんの作ってくれた御飯がまずいって。食事前におばあさんの部屋へ行かなければ。萌子に促されてはしごは再び、エレベーターに乗り込んだんだ。そして、四階のボタンを押すとエレベーターは静かに上方に上がり始めた。はしごが三階のボタンを押そうとすると萌子が止めたんだ。そこは両親が住んでいる場所よ。停まらないわ。両親が内部から停止無効のスイッチを押してあるから。萌子の言葉どおり、エレベーターは三階を素通りして、四階に停まってドアがあいた。エレベーターのドアが開いてはしごの目に飛び込んで来たのはいろいろな色をした布の山だった。その布に埋もれるようにして九十才近い老婆が縫い物をしていたんだ。その中の壁際に日常の用をたすような茶箪笥が置かれている。その上にすいかの二倍ぐらいの大きさのある地球儀が置かれていたんだ。ふたりがエレベーターから降りるとその老婆はじろりとふたりの方を見たんだ。
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それが雑魚田俊光の母親なんだね。でもなんで色とりどりの布に囲まれて生活しているんだ。
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それが彼女の趣味でもあるし、仕事でもあるんだ。彼女は自分で縫った服を売ってお金も稼いでいたんだ。
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もちろん、はしごは自分で買って来た、ドーナツを老婆に差し出したんだろう。
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そうだよ。おばあちゃん、縫い物の手を少し休めてよ。すると老婆は萌子の方を見てじろりと睨んだんだ。ふつう年寄りにとって自分の孫と云うものは可愛いものだろう。しかし、雑魚田家にとってはそんな常識も通じなかったんだな。これが。出して、出して、萌子がそう言うので、はしごは手に持っていたドーナツをおばあさんに差し出した。するとすんなりとおばあさんはそのドーナツを受け取って、むしゃむしゃと食べ始めたんだ。おばあさん、いっぺんにあんまり食べないほうがいいわよ。おなかを壊すから。萌子、そこに突っ立っていないで、お茶を入れておくれ、そこに魔法瓶と湯飲みがあるだろう。萌子はお茶を入れながらおばあさんに言ったんだ。おばあさん、おばあさんが死んだおじいさんと結婚したとき、いくつだった。十八だよ。そのとき、この家はすでに建っていたの。建っていたよ。すでに建っていたこの家にわたしは入って来たんだからね。この家、誰が建てたの。なんて云う会社が建てたのよ。するとおばあさんは再び、無愛想な顔になったんだ。萌子、あんたのお母ちゃんはなんだよ。まずい飯しか作れないで、年よりの最大の楽しみは食事なんだからね。まずい飯しか、あんたの母ちゃんは作れないんだよ。わかっているかい。だから、わたしゃ、あんたの母ちゃんと俊光が結婚すると言ったとき、うんと反対したんだよ。萌子はいつものことだと云うようにうんざりした表情をしたんだ。お前の母ちゃんがうまい飯を作れるようになったら、教えてやるよ。帰った。帰った。おばあさんはドーナツを抱え込むと萌子とはしごをエレベーターの方に押しやった。仕方ないのでふたりはエレベーターに乗って階下に降りて行ったんだ。
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じゃあ、その家の秘密も吉見はしごの秘密も分からなかったんだ。
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そういうことだよ。
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でも、どうなるの。萌子ははしごと結婚するつもりなのかい。
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そうだよ。だから、萌子ははしごの家で奇妙な風呂に入ったんだし、はしごの方でもそのつもりだったから自分の家の風呂に入れたんだよ。
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じゃあ、あとは結婚式だな。結婚式がなくても同棲と云う手もあるけど。
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でも、吉見はしごの給料はものすごく安いんだ。あんなにおいしい御飯を炊ける技術を持っているのにかかわらずだよ。それははしごが給食センターで使っているステンレス製の釜にその理由があってね。その釜を使わなければはしごはおいしい御飯を炊けないんだよ。そのステンレス製の釜は市販されていないし、****給食センターだけがその釜を使う権利を持っているんだ。だから、その釜を使えない吉見はしごは羽をもぎとられた鳥と同じなのさ。
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じゃあ、今の給料でははしごは萌子と結婚出来ないのかい。
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なにしろ、父親のあとをついだと云っても、小学校のプールが二つも入るような家に住んでいるんだよ。その家の維持費だけでも大変なものだよ。ガス代だって水道代だって電気代だってかかるんだから。
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はしごにはなんの解決策もないわけかい。
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その経済的な解決のために、吉見はしごは横浜の倉庫街を歩いていたんだ。もちろん、目論見があってのことだよ。自分の店がつぶれたり、中国あたりから密航した腕の良い料理人がよくうろついていると云う場所があるんだ。料理人はみんな知っている場所だけどね。闇の料理界と云う場所があってそのスカウトがこの倉庫街をうろついているのさ。腕のいい料理人を求めてね。そこに雇われると、ふつうに勤めているのの何十倍もの給料を貰うことができる。吉見はしごはそれを狙っていたんだな。
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なんだよ。その闇の料理界って。
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いつも、とびきりの料理を食べているのに、そのことを世間に知られると困る人間たちがいるじゃないか。たとえば、***や,***と云う人達のことだけど、いつも自分たちは国民のことを考えてこんな耐乏生活を送っていると云う姿を見せていなければならない人達が。
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いる、いる、そう云った人達が。
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そう云った人達が秘密で入る料理屋があるんだ。そこで吉見はしごはアルバイト的に働こうと思ったのだな。吉見はしごは絶望と哀愁、宿無しの悲しさを漂わせながら、運河の中を泳いでいる水鳥を見ていた。もちろんそれは演技だけどね。すると、色っぽい三十年増が吉見はしごの背後に近寄って来たんだ。お兄さん、日本人ですか。そうだよ。ちょっと見たところお兄さん、料理人みたいだけど、そうじゃない。そうだよ。すると女は意味ありげに自分の耳にぶら下がっているイヤリングを指先でいじった。そして運河の前のガードレールに腰掛けてはしごに話しかけたんだ。なんでこんなところにいるの。二日前まで、福松で働いていたんだけど、福松がつぶれてしまって、今は無職なんだよ。福松と云うのは有名な料理屋だよ。そこの主人が詐欺にあって店を一週間前につぶしてしまったと云うことは最近のニュースだったんだ。福松と云えば有名な料理屋じゃないの。あんた、そこで働いていたの。どう、今は働く場所も無いんでしょ。週に二日も働けばいいお金になる場所があるんだけど、あんた、働いてみる気はない。そう言いながら女はバッグの中からコンパクトを出してルージュを塗り始めた。
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その女がそのスカウトだと云うわけなのかい。
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そう云うことだよ。あんた、福松でなにをやっていたの。御飯炊きだよ。福松に出て来る御飯はうまいことで有名だった。どう、同じ仕事で何倍もの給料を貰えるのよ。うちに来てみない。吉見はしごはそれが目的で演技をしていたんだから、多いに興味を示したんだ。じゃあ、こっちに来てもらえる。女につれられてはしごはワゴン車のある場所に行ったんだ。ここで目隠しをして、運転手はサングラスをして、自分が誰であるか、悟られないようにしているふうだったんだ。吉見はしごがワゴン車の後ろの座席に乗ると車は発車したんだ。そして一時間も走ると目隠しをされながらもはしごは最後は坂道を下っていくような感覚を覚えた。車から降ろされて吉見はしごは細い廊下のようなところにつれて行かれて目隠しをはずされた。廊下の天井のところにははだか電球がとびとびについていてギロチンのようにゆらゆらと揺れている。目の前には倉庫街で声をかけてきた女が立っていた。御飯を炊くのが得意なんでしょう。この奥の方にその準備が出来ているから、実際に御飯を炊いてみて。契約をかわすのはそれからよ。そう言って女は契約書をひらひらと揺らしたんだ。女ははしごの御飯炊きの手並みを見るつもりだったんだ。そして吉見はしごが奥の方に行くと実際に厨房が用意されていたんだ。その上、自分がふだん使っているのと同じステンレス製のおかままで用意されている。控え室の方で女は待っているようだった。そこで吉見はしごはいつもと同じようにして御飯を炊いた。するといつもと同じような満足する出来上がりで御飯が炊けたのさ。そのあいだ女の待っている部屋の方では音楽が聞こえたからFMラジオでも聞いていたのかも知れない。厨房のところには食器も用意されていた。茶碗にその御飯をよそって控え室に座っている女のところに持って行ったんだ。女は社長が座るような大きな椅子に身体を深々と埋めて座っていたんだ。吉見はしごがその茶碗を持ってその女に差し出すと女は座ったままで茶碗を受け取った。そして一口その御飯を口に運ぶと茶碗を横のテーブルに置いて了解した。いいわ。合格よ。しかし、はしごには納得出来ない部分があった。それは自分の炊いた御飯がどこの誰か知らない人間に食べられると云うことではない。いつも自分が使っているステンレスの釜がどうして用意されていたかと云うことなんだ。
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それはもっともな疑問だよ。
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するとその女は答えたんだ。あなたが福松に勤めていないと云うことは知っていたのよ。あなたは****給食センターで働いているんでしょう。そのことは問題ではないわ。最初からわたしたちはあなたの正体を知っていたの。だから、ここにふだんあなたが使っている釜も用意出来たのよ。そう言って、女は不思議めいて笑ったんだ。それから意味ありげな瞳の色を輝かして、あなた、いい身体をしているのね。ここには誰もいないわ。わたし空き家なの。少し遊ばない。女はそう言って両手で吉見はしごの片手をつかんだんだ。まるで海の底に住む魔物が泳いでいる人間を海の底に引っ張り込むように。吉見はしごは女の身体の重さにバランスを失って女の上に覆い被さった。すると、バタンと扉がしまる大きな音がして、ふたりが入り口の方を見ると、中年の男が憤りを顔に現して立ちつくしていたんだ。芹名、なにをしているんだ。すると女は馬鹿にしたような顔をして男の方を一瞥したんだよ。吉見はしごはその男が自分と同じにおいをしていると云うことを直感した。つまり、その男も自分と同じようにこの女に雇われた人間なのだろうと云うことを。しかし、その男がこの女と肌を合わした回数ははるかに多いのではないか、このふたりの、女の方がたんなる生理的欲求だとしても、少なくとも男の女に対する感情には複雑なものがあるのではないかと直感した。しかし、そこに長居は無用だった。吉見はしごはただお金が目当てなだけだから、そのあとにこの女と男の間に何があるのか、興味がなかったので帰ると告げると、気まずい空気がそこに残ったままなのを感じながら、その部屋を出て行きワゴン車を運転していた運転手が彼に目隠しをして車に乗せられ、また車は走り出し、車から降ろされたのは恵比寿の駅の前だったんだ。
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まあ、それで吉見はしごは給料も倍増されて萌子と結婚出来ると云うだんどりになったのかい。
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そうさ、それではしごは婚姻届けの用紙まで用意していたんだ。
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吉見はしごのじいさんの残してくれた遺産と云うのはそれだったんじゃないのかい。なぞなぞを数問解くことによっ、萌子と知り合いになることができたのだしね。そして結婚もすることになったならね。これもひとつの財産だと言えないこともないよ。そうなってからの吉見はしごの様子はどうなったんだい。
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明治四十年代
あの奇妙な家の中のところどころに萌子のもので一杯になったんだよ。はしごの家の寝室はやはり六角形をしていたんだけれど、六角形の部屋の一辺にぴったりくつっけるようにして四角なベッドが置かれていたんだ。だから、頭のところと、足のところの壁は横の壁とは百二十度の角度があったんだけど、その頭のところの水平になっていない壁のところに萌子の写真が額縁に入れられて飾られていたのさ。萌子が入ったお風呂場にも萌子の写真が飾られていたんだ。そこの萌子の写真には湿気で写真がだめにならないように防水用のラミネート加工がされていたけどね。はしごはがらにもなく、旅行などに行くと、木製の人形なんかをよく買って来たのさ、動物の猿とか、犬とか、うさぎなんかの人形なんだけどね。そんな人形がはしごがパソコンを買って来て置いてある部屋に置かれていたんだ。それらの動物たちに萌子なんて云う名前をつけて、呼び掛けたりしていたんだよ。それからはしごの家には衣装だんすの部屋と云うのがあったんだよ。そこもやはり六角形のかたちをした部屋なんだけどそこには衣装だんすがたくさん置かれていたんだ。そこにははしごの服なんてほとんど入っていなかったんだが、はしごはわざわざ女物の洋服屋に行って萌子のネグリジェまで用意していたんだ。
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萌子がはしごの心をすっかりとつかんでしまったと云うことなのか。はしごの方の心の変化はそれでいいとして、萌子の方はどうなったんだい。
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こんなことまで話していいのかな。萌子はあの四階建ての家の二階に住んでいると云ったじゃないか。あの部屋には前にも言ったようにフリルのついた女の子のものにしては大きなベッドがついていてはしごと知り合う前は夜が来れば萌子は安らかな眠りについていたんだよ。それがはしごと知り合ってからはあれを始めたんだよ。
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あれって。
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自慰行為だよ。
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自慰行為。
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英語で言うとオナニーだ。萌子の部屋にはエレベーターが停止しないようにするスイッチがある。夜中の一時を過ぎると萌子の部屋の外に見えている街路灯が消えるんだ。するといままでカーテンを通して萌子の部屋に入ってきた光もなくなり、部屋の中はすっかりと暗くなる。部屋の中に入ってくると云うのは月の光だけだ。するとその光で部屋の中はぼんやりと見えるだけなんだ。萌子はエレベーターの停止禁止のスイッチを入れる。すると両親もおばあさんも萌子の部屋には入って来られなくなるし、萌子がなにをしているのかも伺い知ることが出来なくなる。そこで萌子の儀式が始まるのだよ。萌子は静かに服を脱ぎ始める。まず左腕をとおっている服の袖を抜く、それから頸を服から抜く、そして今度は右腕を服から抜く、そして波打つ萌子の腹部が見える。それからブラジャーをはずし、上半身は何も身につけていない状態になる。そしてベッドにこしかけながらズボンとパンツを脱ぐと萌子の張りのある大腿部はあきらかになる。この状態で萌子は全裸なんだよ。彼女のひょうたんのような身体の線が宵闇にうかび上がる。ベッドに腰掛けていた萌子は後方に静かに倒れるのだ。そして静かに目を閉じてはしごの顔を思い浮かべながら、指先はまずおっぱいに、そして乳首へと向かい、愛撫する。右手はかわるがわる両方の乳首を刺激しながらも、左手は自分の陰部に向かい、小さくでっぱったところを指先でふれたりはなれたり、愛撫を繰り返し、はしご、はしごと熱病病みのように繰り返すんだよ。
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萌子もはしごのことが好きなんだ。それにしても、はしごの家にあるなぞなぞの秘密は結局、解けなかったのかい。父親の穴子が半生をかけて、取り組んでいたなぞなぞの秘密がはしごと萌子を結びつけるきっかけだけだとしたらつまらない気持ちがするよ。
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それで萌子はあることを思い出したんだ。数年前の自分の家の大掃除のときばあさんの部屋を掃除していたら新聞のスクラップの束を棄てるように言われたのに忘れてそのままにしていたことがあったのだ。その忘れたわけと云うのも掃除をしている途中でその新聞のスクラップの記事を読んでいるとき自分の家のことが載っていたので最初の数行を読んでいるうちにほかの仕事があってほっぽっておいた。部屋の隅の倉庫のようなところを見ると確かにそのときの新聞がまだ置いてある。早速、萌子ははしごに電話をかけると飛んで来たんだ。でも何度も萌子の家に来ているのだけどはしごは両親に会ったこともなければ両親の部屋に行ったこともないと云うのは不思議なものだよ。でも、とにかく、はしごは萌子の部屋に行ったんだ。はしご、見て、わたしたちの不思議な家のことが載っている新聞があったのよ。萌子はそのスクラップの新聞をひろげたんだ。題は東京の奇妙な家と云うことになっている。新聞の日付は昭和四十二年になっている。そして新聞にはふたりの奇妙な家が写っていて、それぞれの家族が並んで写真に写っているのだ。はしごは自分の家の前に写っているのがまだ三十才ぐらいの父親の吉見穴子だと云うことがわかった。その隣りに写っている年よりのことだが、はしごは知らないが祖父と祖母だと云うことがわかった。はしご、見て、見て、わたしの家の前に写っているのはお父さんとお母さんよ。おばあちゃんも写っている。そこでふたりはその記事を読んだんだ。
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ふたりの家のことは誰も知らなかったんじゃないのかい。
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昭和四十年頃にはまだそれを知っている人間もいたんだな。
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それでその記事にはなんと書いてあったんだい。
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日本でも珍しい明治時代に建てられた個人向け近代住宅。
この東京の郊外に建てられた住宅は驚いたことに明治の近代化の始まったばかりの明治三十年に建てられた。
建てたのはフィンランド人の建築家で彼が日本にクレオメディス建築商会と云う会社を設立して建てたものだった。ほかには同会社は七軒の同じような奇妙な建物を建てたのだ。
そうか、クレオメディス建築商会と云う会社がわたしたちの家を建てたのね。ここに写っているのはうちの父親だわよ。まだ若い頃だけどきみの父さんに聞いたら、そのクレオメディス建築商会と云う会社のことがわかるんじゃないか。きみの父さんにその会社のことを聞いてみよう。そういうことでふたりは萌子の父親にその会社のことを聞いてみることにしたんだ。萌子の部屋にはインターホンがついていて三階、四階と話すことが出来るようになっていたんだな。それで萌子は三階の自分の父親の部屋のインターホンに話しかけたんだ。父さん、聞きたいことがあるんだけど、今そっちの方へ行くから。するとインターホンのブザーが三回なったんだ。上がって来てもいいよと云う返事だよ。そこでふたりはその新聞のスクラップを持って三階に上がって行ったんだ。
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そこでなにかあったんだ。見も知らない人間の死体が転がっていたとか。
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そんなドラマチックなことじゃないよ。雑魚田俊光と吉見はしごとは初対面じゃなかったんだな。
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どこで出逢ったんだい。秘密の美食会の面接でね。雑魚田俊光はその芹名と云うおんなに惚れていたんだ。そこではしごを見た雑魚田俊光はかんかんになってはしごをその家から追い出したんだ。
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自分は妻がいるのにずいぶんと勝手じゃないか。
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それがこの変な家に住んでいる人間たちの変わったところなんだよ。雑魚田俊光の妻は食事を作るだけのロボットのような存在だったんだ。その期待も大きいから、おばあさんはいつも御飯がまずい御飯がまずいと繰り返していたのさ。はしごの方はほうほうのていでそのお墓のような家を出て来てから公園の遊具に座って萌子の住んでいる二階を見ていると墓地のほうから誰かが歩いてくる。よく見ると萌子のおばあさんだったんだ。おばあさんはいやに着飾っていた。何かの集会に出掛けた帰りのようだった。おばあさん、この家も僕の家も誰が建てたかわかったよ。クレオメディス建築商会と云う会社でしょう。するとおばあさんははしごの家に行こうという。一緒にはしごは萌子のおばあさんと一緒に家に帰ると彼女は家の中に上がると言う。それではしごは彼女を自分の家に入れた。そして萌子のおばあさんは知らないうちに家に帰ったんだ。そしてあとで気付いたことだけどあのなぞなぞの本が一冊確かになくなっている。相変わらす萌子の父親は怒ってばかりでふたりの結婚を許さない様子だし、自分の呪われた家の維持費は大変なものだし、つくづくこの家に住んでいていいことはなかったと思う吉見はしごだったんだ。部屋が変なふうに迷路のように入り組んでいて、家を出るとき入学試験に失敗したことも、火災の原因になりやすいから家を建て替えろと近所の人間にやんやと言われてノイローゼになったことも、いろいろないやなことが思い出されたんだ。
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なんでもかんでも自分の住んでいる家のせいにするのはどうかな。
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とにかく、そう思ったんだよ。それでいつだったか、萌子とはじめてインターネット上で会話を交わしたホームページにアクセスするとインターネット上の噂話しで不思議な家に住んでいるおばあさんが大金を手にした話しが載っていたんだ。そのおばあさんは同じような不思議な家に行って本を一冊持って来たことによってその好運を手に入れたと云うことになっていた。吉見はしごはすぐに気がついたんだ。それが萌子のおばあさんであり、その本と云うのが自分の家にあるなぞなぞの本だと云うことをね。そこでもしかしたらそのなぞなぞの本には金でも隠されているのではないかと思ったがそう云うこともなかった。そのホームページを見ている直後のことだった。電話が鳴った。萌子からの電話だった。はしご、聞いて、聞いて、街では大変な噂になっているの。あなたの家を買いたいと云う人が数え切れないほどいるのよ。きっとその変な噂につられた人間が欲にかられてそう言っているのだと思った。売ってもいい。そこではしごは自分の家を売った金で新しい自分の家を買ったのさ。でも、その家はやはり奇妙な家だったんだ。萌子もはしごもその柱にクレオメディス建築商会と印が押されているのをしらなかったんだな。
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