明治

@tunetika

第1話

第一回

    壱

 古い話である。僕はそれが明治十三年の出来事だということを記憶している。どうして年をはっきり憶えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向かいにあった、上条と云う下宿屋に、この話しのふたりの主人公と壁一つ隔てた隣同士に住んでいたからである。僕のへやを挟むようにふたりの部屋はあったのである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人だった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外は大学の付属病院に通う患者なんぞであった。大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そういう客は第一金回りが好く、小気が利いていて、お上さんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。時々はその箱火鉢の向こう側にしゃがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛りをして、わざわざ肴を拵えさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我が儘をするようでいて、実は帳場に得の付くようにする。先ずざっとこういう性の男が尊敬を受け、それに乗じて威福をほしいままにすると云うのが常である。然るに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男たちは頗る趣を殊にしていた。一人はいい意味で、そしてもう一人の男は悪い意味でであるが。

いい方の男は岡田という学生で、僕よりも一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなければならない。それは美男だと云うことである。それも役者のような青白い美男ではない。その容貌は少壮の青年思想家を連想させた。

 しかし容貌だけで下宿屋で幅を利かせることは出来ない、その性行はどうかと云うと、彼ほど均衡を保った書生生活をしている男は少なかろうと思っていた。いつもきちんとした日課を果たしていて、上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠ってただされるのである。周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を誉め始めたのは、この信頼にもとづいている。それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与って力あるのは、ことわるまでもない。

「岡田さんを御覧なさい」と云う詞が、屡々お上さんの口から出る。

「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。かくの如くにして岡田はいつとなく上条の良い方の標準的下宿人になったのである。

そして僕の部屋の左に住んでいたのが岡田であったが、これは良い方の代表で右隣にはやはり医家大学の学生で三角という男が住んでいた。岡田が下宿代の払いの良いことで西の横綱なら、三角は下宿代の払いの悪いことで東の横綱をなしていた。したがって三角はいつも上条のお上さんの目をさけるように行動していた。いつだったか、僕が上条の玄関の前にやって来るとあたりを伺っている男がいる、最初はこそどろが下宿の中に忍び込んで何か盗もうと伺っているのかと思ったが、それが三角だということはすぐにわかった。彼はしばらく下宿代を払うのを滞らせていてお上さんの目を恐れていたのである。僕が上条のお上さんは外出中だと告げると喜んで家の中に入って行った。三角は医学を専攻していたが、学校で出会ったことはあまりなかった。たまに学校の図書館で彼に会ったことがあったが、彼はロシアに関係したものと食品に関したものを読んでいた。僕などがそばを通っても全く気付かずに医学の勉強とは関係のないそんな本の紙面に見入っていたのである。その容貌はおにぎりを逆にしたようで文字通り、三角という感じでやせていた。この三角に意外な嗜好があることを知ったのは岡田と散歩したときのことだった。

岡田は日々の散歩を一日の予定に繰り込んでいたが、その道筋は大抵決まっていた。下宿を出て鉄門の前を左に曲がるか、西に曲がるかという二者選択から始まった。だいたいが古本屋のある道筋を選んだのであるが。岡田には散歩の途中で古本屋を覗くという趣味があった。岡田が古本屋を覗くのは、今の詞で云えば、文学趣味があるからであった。しかしまだ新しい小説や脚本は出ていぬし、叙情詩では子規の俳句や、鉄幹の歌の生まれる先であったから、誰でも唐紙に摺った花月新誌や白紙に摺った桂林一枝のような雑誌を読んで、かいなん、夢香なんぞの香れん体の詩をもっとも気の利いたものだと思う位の事であった。僕も花月新誌の愛読者であったから、記憶している。西洋小説の翻訳というものは、あの雑誌が始めて出したのである。なんでも西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される話しで、それを談話体に訳した人は神田孝平さんであったと思う。それが僕が西洋小説をというものを読んだ始めであったようだ。そう云う時代だから、岡田の文学趣味も漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを、面白がって読む位に過ぎなかったのである。

その日々の散歩で岡田は古本屋の軒先を冷やかすのを常としていた。不忍を右手に見るように無縁坂をくだって行くと神田明神前の鈎なりに縁台を出して、古本を晒している店があった。そこで岡田と僕の両人は唐本の金瓶梅を同時に見つけて、それが縁となって、人付き合いの悪い僕が岡田とつき合うようになったのである。それから岡田と僕はたびたび一緒に散歩をするようになった。二人の散歩の目的は古本屋通いばかりではなかった。その頃、名高かった料理屋として広小路に松源や末広庵、梅岩などという店があったが、学生の懐具合ではそんな店の中に入ることは大それた望みだったから、もっぱら蕎麦屋ののれんをくぐるというのが楽しみであった。僕たちの良く行く蕎麦屋はやはり広小路にある蓮玉という蕎麦屋で、蓮玉と太田屋が名前が高かった。蓮玉は瓦解の前からやっている店でそのかえしは絶妙な味があり、主人が彰義隊の大砲の音が鳴り響いたときには、蕎麦をこねる木鉢を抱いて江戸川の向こうに逃げたそうである。岡田と僕のふたりが打ち水のしてある蓮玉の店の中に入ると、蕎麦をすすっていた客のひとりが顔を隠すように向こうを向いた。岡田も僕も同時に気づいたが、それは僕の右の部屋に下宿している三角だった。いつも下宿代を滞らせていて下条のお上さんに催促されて逃げ回っている三角が入るような店ではなかった。あきらかに迷惑そうな三角のそばに行って

「きみはよくこに来るのかい」

と云うと三角は何か悪いことをして飼い主の叱責をおそれている子犬のような目をして

「故郷からたまたま送金があってね」

三角は残りの蕎麦をかき込むように口の中に入れるとそそくさと蓮玉を出て行った。あとでお多福のような顔をしている蓮玉の仲居に聞くと、三角はよくこの店に来るそうだ。

その頃から無縁坂の南側は岩崎の屋敷であったが、まだ今のような巍巍たる土塀では囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、羊歯や杉菜が覗いていた。あの石垣の上のあたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに刈られることがなかった。坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好いのが、板塀をめぐらした、小さなしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住まいであった。店は荒物屋に煙草屋位しかなかった。中に往来の人の目につくのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって仕事をしていた。時候が良くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもぺちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺麗に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石を盛り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打ち水のしてある家があった。寒いときは障子がしめてある。暑い時は竹簾が卸してある。そして仕立物師の家の賑やかな為に、この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。

 三角の意外な蕎麦屋通いの嗜好に驚いていた頃、岡田はいつもの日課の散歩で、夜中には幽霊が出るという噂のある解剖室の横をとおり抜けて、無縁坂を降りて行くと、例の仕立物屋の横の寂しい家に湯帰りの女が入るのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、人通りの絶えた坂道を岡田が通りかかると、家の中に入ろうとしていた女が、ふいに岡田の下駄の音を聞いた女が振り返って岡田と顔を合わせたのである。

紺絣の単衣物に、黒繻子と茶献上との腹合わせの帯を締めて、ほそい左の手に手拭いやら石鹸箱やら糠袋やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠に入れたものをだるげに持って、右の手を格子にかけたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。色気があると言っても商売女のようでもなく、かと言って、ふつうの町娘という感じでもなかった。ただ鼻の高い、細長い稍寂しい顔が、どことなくひらたいような感じが刹那の印象として残った。しかし、無縁坂を降りてしまう頃にはその女の事は綺麗に忘れていた。

しかし岡田が散歩で二日ばかりたってから、例の格子戸の家の前に来たとき、例の湯帰りの女のことが、突然、記憶の底から浮かび上がって来たので、その家の方を見ると、趣味の良い格子戸の隙間から良い色の万年青の鉢が見えている。鉢の上には卵の殻が伏せてある。それを見ていると歩調がいくぶんゆるやかになった。

そして家の真ん前に来たときに、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色の闇に閉ざされていた背景から、白い顔が浮き出した、しかもその顔が岡田を見て微笑んでいるのであった。

それから岡田が例の散歩をするたびに、この女の家の前を通るたびに女の顔を見ないことはほとんどない。しまいには岡田の夢の中にも闖入して、勝手に劇中の人物の役割を演ずるようになっていた。

岡田が女の家の前を通るたびにあの女と顔を合わせるのは何故だろうかと考えてみた。始めてあの女が微笑みを返してくる前はいつもあの女の家の肘掛け窓の障子はしめたままのようだった。そうして見ると、あの女は近頃外に気を付けて、窓をあけて自分の通るのを待っていることになったらしいと、岡田はとうとう結論をくだした。

通るたびに顔を合わして、その間間にはこんなことを思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」に親しくなって、二週間も立った頃であったか、ある夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽を脱いで礼をした。そのときほの白い女の顔がさっと赤く染まって、寂しい微笑みの顔が華やかな笑顔になった。それからは岡田は極まって窓の女に礼をして通る。

岡田は窓の女と口も交わさない、会釈だけするようになってからも、女の身の上を探って見ようともしなかった。住んでいる家の様子やら、女の身なりで囲い者だろうとは察した。しかし、別段それを不快にも思わない。それ以上の詮索をしようとも思わない、よく夢の中に出て来る住人という立場に留まっていた。表札を見たら、名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時には女に遠慮する。そうでないときは近所の人や、往来の人の目を憚る。とうとう庇の陰になっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。岡田は下宿の自分の机の上に好きな虞初新誌を広げて読んでいた。中でも武術の豪傑のことが書かれた大鉄椎伝は全文を暗唱することが出来た。岡田が競漕をし始めてから、打ち込んで、仲間から推されて選手になるほどの進歩をしたのも、この岡田の武芸好きの一面が進展したからである。

 同じ虞初新誌の中に、岡田の好きな文章がある。それは小青伝である。詩才に優れた美女小青の伝記で、天下の美女であるがゆえに薄命である、冷たい死という月光をあびながら美しい脂粉の装いを凝らすとでも云うような、美しさを性命にしているあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであろう。女というものは岡田のためには、只美しいもの、愛すべきものであって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならないように思われたのも、それらの詩を読んで得られた影響かも知れなかった。岡田は虞初新誌を閉じると机の横にあった上条のお上が値踏みをしてくれと置いていった書物を取り上げた。いつとなく下宿の同居人の三角が蓮玉だとか、太田屋とか、砂場とか蕎麦屋を食べ歩いているという噂が上条のお上さんの耳にも入って三角は下宿の廊下のところでつかまったそうである。「三角さん、本所深川の方まで足を伸ばして蕎麦を食べまくっているそうじゃないですか、それだったら、たまっている下宿代を払ってくださいよ」と上条のお上さんは三角の耳をつかむような勢いで文句を言うと、窮した三角は下宿代は今は払えないが、この本を売ればそこそこの値段になると言って二冊の本を置いて行き、急な用を思い出したともっともらしいいいわけを並べて、そそくさと下宿を出て行ったそうである。その本を売ればいくらぐらいになるかと下宿のお上さんが岡田にはわからないと言うのにもかかわらず、その二冊の本を置いていったのだ。岡田は三角が数年前に官費でロシアに旅行したということを聞いたことがある。それがのちに大津事件で大審院長児島惟謙が手を染めたニコライ二世の前の治世のときだったと思う。皇太子時代のシベリア鉄道の開通式に日本に来て、巡査の津田三蔵に襲われた、あのニコライ二世の前の代のときである。そのロシアの旅行で三角が何を見て何を感じたのかはわからない。いつだったか、岡田がロシアの民謡の一節を口ずさんでいたら、三角は露骨に嫌な顔をした。岡田は自分の座り机の前にどかりと腰をおろすと自分の部屋の鴨居にさしてある暁斎や是真の画の描かれた団扇を眺めながら、三角が何故蕎麦屋通いをしているのかと考えてみた。それについて思い出したことがある。何の関連がないといえば、言えるし、あると言えばあるかも知れない。同じ医学生で猪飼という学生がいた。いつも身なりに少しも構わないと云う風をして、素足に足駄を穿いて、左の肩を二三寸高くして歩いていた。たまに二言、三言、話すぐらいの関係だったが、ある日青石横町の角で出くわした。これからおもしろいところに行くからついて来ないかと云った。どこへ連れて行くのかと思っていたら、猪飼は伊予紋へと押し掛けて行った。値のはることで有名な料理屋である。岡田が躊躇していると猪飼は無理に彼を座敷に引きずり上げると、豪傑気取りで金天狗をすぱすぱと吸って、そのうちに芸者が出てきた。猪飼はここでいい顔になっているらしい。猪飼の親は貴族院議員をやっていて、月に使い切れないぐらいの仕送りをして貰っているという話を聞いたことがある。それに比べれば三角の蕎麦屋通いなど罪のない方だ。その三角がお上に下宿代の代わりにさしだした本を手に取ってみる。緑色の表紙にphyiocratieと書かれている。これが重農主義のフランスの哲学者、ケネーの論だということはわかる。もしかしたら日本の食料事情を改善するために土地が悪い条件でも栽培が可能で短期間で成長する蕎麦の栽培を日本全国に広げようと思っているのかも知れないと岡田は思った。しかし、この本が古本屋で売ったらいくらになるのか、岡田にはわからなかった。そもそも経済論は岡田の専門の外にある。僕が岡田の部屋を覗くと岡田はそれを見てさかんに首をひねっているところだった。「三角くんの下宿代のかたにお上さんが受け取ったんだけど値踏みをしてくれと云われてね」僕はそんなことより、吹き抜き亭に円朝を聞きに行かないかと誘った。ついこのあいだまでは桃川如燕が自分の佃煮屋の宣伝も入れながら寄席に出ていたばかりだった。僕と岡田のふたりが寄席に行くと猪飼の話になった。猪飼のなじみの芸者の顔は僕も覚えていて、寄席の中入りのとき、二階席から、それらしいのを見付けて、二人でその連れの男が猪飼ではないかと思い、声をかけようとしたとき、向こうがふり返ったので、その顔がはっきりと見え、人違いだということがわかった。その顔は猪飼には似ても似つかない顔だった。猪飼の芸者通いの話から、歩きながら僕は岡田と三角の蕎麦屋通いの話になった。寄席を出た頃にはすっかり暗くなっていて、不忍の池のはしを歩いていると弁天の朱泥の祠が模糊として池の中央に立っている。そしてその祠の方を見ているふたり連れがあった。これが男女のふたり連れなら、そう気にもとまらないのだろうが、一人は西洋人で金色の髪の毛が夕方のために茶色に見える。もう一人は日本人だった。そのふたりとも僕も岡田も知っている人物だった。一人は三角だった。そしてもう一人はライプチヒ大学のWさんだった。二人は池の中央のあたりを光学機器のようなものを手にして見ている。「三角くん、こんなところで何をしているのだ」僕が云うと三角はしっと口に指を当てて静かにするように促した。Wさんも同意した。Wさんは岡田の洋行の話に一枚かんでいた。岡田はまだいつと決まっていないが洋行する可能性がある。掻い摘んで話すとこういう事になる。東洋の風土病を研究しに来たドイツのWさんが、往復旅費四千マルクと、月給二百マルクを給して岡田を雇おうと云う。ドイツ語を話す学生の中で、漢文を楽に読むものという注文を受けてBAELZ教授が岡田を紹介したのである。岡田は築地にWさんを尋ねて、試験を受けた。素問と難経とを二三行ずつ、傷寒論と病原候論とを五六行ずつ訳させられたのである。難経は生憎「三焦」の一節が出て、何と訳して好いかとまごついたが、これはCHIOと音訳して済ませた。とにかくなんとか信用を得ることが出来た。そのWさんが光学器械を三角と一緒にのぞき込んでいる。「岡田くん、あれをご覧なさい」光学器械と見えたのは外見はただの望遠鏡のようだったが三角の話によると手で持っても像がぶれずに見えるそうだ。僕の方は三角の持っている望遠鏡を与えられた。目標物は固定されていて岡田も僕もたぶん同じものを見ているのだろう。僕の見ているさきには雁が池の中で浮かんでいる。その雁が接眼部の視野いっぱいに映っている。「ほらおかしいだろう」

「どこが」「羽の付け根のところだよ」よく見ると納得がいった。羽の付け根のところに歯車が見える。「おかしい」岡田がつぶやいたと同時だった。その雁は空中にとび上がった。

「不思議だ」三角が云った。

Wさんがこれから下宿に帰ってもまかないが出ないだろうという話になって蕎麦をおごると提議した。三人はすぐに同意して、一しょに蓮玉庵に行くことにした。その頃下谷から本郷にかけて一番名高かったのはこの店である。蕎麦は昔はもり蕎麦しかなかったようだ。それがどんぶりに暖めた蕎麦と熱い汁を入れた、ぶっかけと呼ばれるものが出るようになり、そこにいろいろな具を入れるようになって、天ぷら、花巻、鴨南蛮、さらにおかめの顔に似させたおかめ蕎麦なども出てきた。とものの本には書いてある。蕎麦屋の椅子に座ると三角は満面の笑みを浮かべた。三角は鴨南蛮を注文した。僕には何かの目的があって三角が蕎麦屋めぐりをしているとはどうしても思えなかった。ただたんに蕎麦が食いたいから蕎麦屋通いをしていると思ったのである。岡田も同様なことを考えていたに違いない。

「三角くん、きみは下宿代も払わずに蕎麦屋通いをしているそうじゃないか」

「それで岡田くんは君の持っている本を値踏みをしてくれと上条のお上さんから云われて預かっているんだぜ。ケネーの農本主義と君がどういうふうに結びつくんだい」

Wさんはもりの蒸籠と一緒に持って来た薬味箱に美術的価値を見いだしているのか、その朱塗りの容器をさかんにいじくっている。Wさんは品書きに書いてある、霰蕎麦というのに興味をさかんに示したが、岡田がそれは大根の似たのが入っていると云うと、注文するのをあきらめた。もちろん、霰蕎麦はばか貝の貝柱が入っているのであるが、Wさんは昔ふろふき大根のにおいが鼻について食べられなかった苦い体験があったのである。岡田自身それを食べたことがなかったから勘違いをしたのかも知れない。

「下宿代も払わず、蕎麦屋通いをしている僕にきみたちが不審の念を起こすのももっともである。でもこれは僕が蕎麦が好きだから行っている行動というわけではないわけだ。三角はもっともらしい顔をしてつぶやいた。去年の冬だったか、東京に大雪が降ったのを覚えているか」僕もそう云われれば東京にひどく大雪が降って丸一日外に出られないことがあったのを覚えている。

「あの日、たまたま蕎麦を食い残して、外に出しておいたんだよ。そうしたら一晩のうちにその蕎麦の上に雪がふり積もって、どうなったと思う、きみ、蕎麦はぱりぱりに乾燥していたんだ。その蕎麦を再び、部屋の中に入れてお湯をかけたら、また食べられるようになったんだ。味は大部落ちたがね」それがケネーの農本主義とどう関わっているのだろうか、それに三角のロシア旅行の話もある。「それがどうしたと云うんだ。そんな現象は昔から知られているよ。雪国では野菜や柿を軒先につるしておくだろう。そうすると乾燥野菜や干し柿が出来るんだよ。僕たちは君のロシア旅行との関連を知りたいのだ」

岡田は二冊の本を上条のお上さんから預かっているのが気がかりで三角が乾燥した蕎麦にお湯をかけて食べていようがどうか、どうでも良いという調子で聞いた。「僕が官費でロシアまで旅行が出来るなんて信じられるかい。僕の故郷に河原猫造という政府の役人がいてね。君たち、このことは誰にも云わないでくれたまえよ。君にロシア旅行の費用をあげるからロシア宮廷の日本語教師として半年間、ニコライ二世のところに行ってくれないかと言われたんだ。もちろん、ニコライ二世に片言の日本語を教えるというのは表向きの理由で、ニコライ二世をスパイしてくれという話なんだ。たとえ、スパイだとしても僕が洋行出来るなんて、こんな機会を失したら、二度とないかも知れないからね」

PROFESSOR.,Wは蕎麦寿司を食べたがったが話に夢中になっていた岡田はこれも無視した。

「ニコライ二世をスパイしてくれと云われるなんて、結論としてはニコライ二世が日本にとって有害な人物だと云うことなのかい」

「そのとおりだよ。ニコライ二世はシベリヤに近い町の名称を変えた。ウラジオ・ストック、日本語では東方遠征だ。ニコライ二世はシベリヤ鉄道の建設計画を喜喜として語っていたよ。あれは日本侵略の前兆に過ぎないと。僕としては適当に話しを合わせておいたが、彼は日本を完全に支配したあとには日本支配地域の取り締まり役にしてやると云っていた。ニコライ二世は必ず日本に戦争を仕掛けてくるに違いない。僕はこの事実を冷徹に受け止めなければならないと思った。日本には僕が守らなければならない人もいるからね」

そういった三角の瞳にはきらりと光るのがあったのを僕は見逃さなかった。

(小見出し)藪蕎麦

「僕は日本に帰ってから、河原猫造さんにこの事実を報告した。そして自分自身、お国のために何か出来ないかと考えた。貧乏医学生である僕ではあるが。そして来るべき、ロシアとの戦争のときに、同胞が何を必要とするだろうかと考えた。マイナス十度にもなるシベリヤの地で戦う同胞のことだ。その地で二八蕎麦を食べられたらと僕は思った。何よりも食料が大切だからね。腹が減っては戦も出来ないといわけだ。酷寒の地でつゆをかけた蕎麦切りが湯気をあげて、日本兵があぶらげをはしでつまみあげている姿を想像してくれよ。その非常用蕎麦の開発のために、僕は神田連雀町の藪蕎麦から始めて、麻布十番の永坂更級まで蕎麦の研究に歩き回っているのだ」

僕も岡田も驚いた。三角は腹が減っているから蕎麦屋を巡っているのではないのだ。その高邁な理想を実現するために、下宿代を滞らせながらも蕎麦屋通いをしていたのだ。三角が日本に守る人がいると云ったとき、その瞳がきらりと光ったのは気になったが、それで三角は携帯用、二八蕎麦の開発は成功したのだろうか、そのことは岡田も気になっていたらしい。

「三角くん、それでその蕎麦の開発に成功したのかい」

すると三角は無言で黙ってしまった。

   四

無縁坂の窓の外の女の素性は、実は岡田と三角を主人公にしなくてはならぬこの話の事件が過去に属してから聞いたのであるが、都合上ここでざっと話すことにする。

まだ大学医学部が下谷にある時のことであった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌めた窓の明いている、藤堂長屋の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申し分だが、野獣のような生活をしていた。勿論今はあんな窓を見ようと思ったって、僅かに丸の内の宿に残っている位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼っておく檻の格子なんぞは、あれよりははるかにきしゃに出来ている。

寄宿舎には小遣いがいた。それを学生は外使いに使うことが出来た。白木綿の兵児帯に、小倉袴を穿いた学生の買い物は、大抵極まっている。所謂「羊羹」と「金平糖」である。羊羹と云うのは焼き芋、金平糖と云うのははじけ豆であったと云うことも、文明史上の参考に書き残して置く価値があるかも知れない。小遣いは使い賃として二銭貰うことになっていた。

この小遣いの一人に末造と云うのがいた。外のは髭の栗の殻のように伸びた中に、口があんぐりと開いているのに、この男はいつも綺麗に剃った髭の痕の青い中に、唇が堅く結ばれていた。小倉服も外のは汚れているのに、この男のはさっぱりしていて、どうかすると唐桟か何かを着て前掛けをしているのを見ることがあった。

僕にいつ誰が始めて噂をしたか知らぬが、金がない時には末造が立て替えてくれると云うことを僕は聞いた。そしてその副業に精出すうちに、いつの間にか、末造は一人前の高利貸しになっていた。

とにかく末造は学校が下谷から本郷に遷る頃には、もう末造は小遣いではなかったが、池之端に越して来た末造の家へは、無分別な学生が金を借りに出入りが絶えなかった。

末造は高利貸しで成功して、金が出来てからは、醜い、口やかましい女房を飽き足らなく思うようになった。

その時末造がある女を思いだした。それは自分が練り塀町の裏からせまい路地を抜けて大学に通勤する時、折々見たことのある女である。屋台を引いて生活をしている飴売りの小商人の娘で十六七の可愛い娘のことである。名前はたしかお玉と云うと誰かからか聞いたことがある。母親もなく、父親と云っても昔は良い生活をしていたがすっかりと落ちぶれてしまった老人と云ってもいいような男で、その父親とつつましやかに生活していたが、いつも身綺麗にしていた。その娘が年老いた父親を抱えて末造の囲い者となったのには、わけがある。その顛末には三角も関わっているのだ。あめ細工の屋台を引いて生活しているじいさんの家に突然の侵入者が生じた。こわいものと云えばおまわりさんで、一軒一軒家の中を見てまわる巡査がその娘、お玉に目をつけたのだ。じいさんには法律の知識もなしで、長屋の中ではそんなこと相談できる相手もいなかったりで、巡査は小さな長屋のじいさんの家に入り婿という形でもぐりこんでしまった。しかし、長屋のものは巡査が怖いので誰も追い出すことも出来ない、その時三角と云う学生が長屋にたずねて来た。自分の親戚の女がその巡査の妻であるのに、巡査が重婚の罪を犯していると訴えに来たのだ。娘はその三角の姿をちらりとしか見なかった。その巡査を家から追い出してくれたという意味での感謝の念がわく前に、大騒ぎが起こった。そのときの経緯でお玉も父親も巡査が国に女房も子供もあるくせに娘を嫁にしたということを知ったからだった。お玉は井戸へ身を投げると云って飛び出したのを、隣の上さんがようよう止めたと云うことである。そこらへんの顛末は三角もよく知らないようだったが、下宿で僕もその話しを聞いたことがあった。

「世の中にはひどい巡査があるものだよ。結婚しているのに、十六七の娘と結婚するのだからね。その巡査の女房と云うのが僕の親戚でね。僕が法律的な手続きをとってその巡査を家から追い出したんだけど、その家には相談相手になるような人間が一人もいなかったそうだ。戸籍がどうなっているか、どんな届けが出ているか、一切無頓着で巡査まかせにしていたということだよ。僕もその娘を見たんだがおとなしそうな可愛い娘だったよ」

そう云った三角の顔は少し輝いていた。じいさんは世間に恥ずかしくて顔向けも出来ず、引っ越して行った。

そのことを末造も知っていた。その頃松永町の北角と云う雑貨店に、色の白い円顔で顎の短い娘がいて、学生は「顎なし」と云っていた。この娘が末造にこう云った。「本当にたあちゃんは可哀想でございますわねえ。正直な子だもんですから、全くのお婿さんだと思っていたのに、おまわりさんの方では、下宿したような積もりになっていたと云うのですもの」と云った。坊主頭の北角の親父が傍から口を出した。「爺さんも気の毒ですよ。町内のお方にお恥ずかしくて、このままにしてはいられないと云って、西鳥越の方へ越して行きましたよ。それでも子供衆のお得意のあるところではなくては、元の商売が出来ないと云うので、秋葉の原には出ているそうです。屋台も一度売ってしまって、佐久間町の古道具屋の店に出ていたのを、わけを話して取り返したと云うことです。そんな事やら、引っ越しやらで、随分掛かった筈ですから、さぞ困っていますでしょう。おまわりさんが国の女房や子供を干し上げて置いて、大きな顔をして酒を飲んで、上戸でもない爺さんに相手をさせていた間、まあ一寸楽隠居になった夢を見たようですな」と、頭をつるりと撫でて云った。

 

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