ばあちゃんと俺
いとうみこと
ばあちゃんと俺
「あれ?」
角を曲がると見えるはずの定食屋の灯りが消えている。暖簾も出ていない。訝しく思いながら近づくと、入り口に「臨時休業」の札が下がっていた。厨房には電気がついていることがガラス戸越しにわかったので、俺は勢い良く引き戸を開けた。
ガラガラと賑やかな音に、カウンターの向こうにいた佳奈が顔を上げ、俺を見るなり笑顔になった。
あれ、佳奈の笑顔ってこんなだっけ?
久しぶりに見るそれは、以前より優しく穏やかで、俺の少しくたびれた心に温かく染み渡っていくように思えた。
「おかえり。お腹空いてる?」
おかえりか……
少し照れ臭い気分でカウンター席に座ると、目の前に冷えた瓶ビールとグラスが差し出される。おしぼりは手渡しだ。
「サンキュ。飯はいいや。店終わったんなら佳奈も飲む?」
「そうだね。先に飲んでて、つまみ用意する」
そう言うと、奥へ行って冷蔵庫からタッパーを出し、何やらレンジで温め始めた。
佳奈はいとこ兼幼なじみだ。小さい頃から姉弟のように育ち、何でも話せる唯一の異性とも言える。今はこの店の看板娘で、見た目はまずまずだが、少しばかりガサツなところが玉に瑕だ。
俺はスーツのボタンを外してビールをグラスに半分ほど注ぎ、一気にあおった。キリッと冷えた液体が、喉から食道を通って胃まで到達するのを確かめた後、テレビのコマーシャルみたいにプハァと息を吐いてみる。
「何それ、ばかみたい」
トレーを持った佳奈が、苦笑いしながら隣の席に座った。
「そういう気分なんだよ」
今度はふたつのグラスになみなみとビールを注ぎながら、俺は答えた。何かにひと区切りつけるには、最初の1杯の後のプハァは最適だ。
「お疲れぇ」
軽くグラスをぶつけて、俺はその1杯も飲み干した。自分が思っている以上に喉が乾いていたらしい。
「今度はプハァってやんないの?」
「やりません」
コップの横には焼いた枝豆、手羽先の甘辛煮、鯵の南蛮漬けと、俺の大好物ばかりが並ぶ。早速南蛮漬けから箸をつけると、懐かしい味が口いっぱいに広がった。この店以上に美味い南蛮漬けを俺は食べたことがない。
「相変わらず美味いな。ところで、何で店閉まってんの?おじさんとおばさんは?」
「病院。夕方店を開ける前に、父さんがビールのケースで腰をやっちゃったのよ。空瓶だって気づかないで思い切り持ち上げて、その拍子に。マヌケだよねえ。で、臨時休業」
枝豆を次から次へと口に放り込みながら、佳奈が答えた。
「大丈夫なのか?」
「前にやった時に自己流で長引かせちゃったから、今度はちゃんと医者に行くんだって。タクシーに乗るとこまで歩けたし、多分大丈夫」
「そっか。お礼を言いたかったんだけどな」
「代わりに伝えとくよ。それよりスーツ汚ないね。あれ、右の袖が擦れちゃってるじゃない」
不意に右腕を鷲掴みにされて、俺の心臓が跳ねた。二の腕の裏側まで覗こうとする佳奈の顔がすぐ近くまで迫り、俺は慌てて腕を振りほどく。
「おまえ、汚れた手で掴むなよ!」
佳奈はヒヒッと笑うと、おしぼりに指先を擦りつけた。今更遅いっての!
「どうせ汚れてるし。ともかく、その程度で済んでほんと良かったわ」
佳奈は、泡のヒゲをたくわえたまま眉根を寄せて、心底同情しているといった顔を俺に向けてきた。確かに、とんだ災難に見舞われたものだ。まさか自分がオレオレ詐欺に巻き込まれるなんて。
俺の両親は、俺が4歳の時に離婚している。母親は俺を連れて実家に戻り、俺を育てるため、残業を厭わずフルタイムで働いてくれた。佳奈もまた、食堂が忙しい夕方から夜にかけて祖父母の家に預けられることが多かった。だから俺たちは祖父母に育てられたようなものだ。
母親が再婚を決めた時、俺は16になっていた。学校を変わるのも嫌だったし、母親の幸せの邪魔をしたくなかったから、俺は祖父母の元に残ることに決めた。かっこいいことを言えば、祖父母を残していくことが気掛かりでもあった。
しかし、その4年後に祖父は亡くなり、更にその2年後には、就職のために俺が家を離れて、祖母はひとりになった。
始めこそまめに顔を出していた俺だったが、最近では長期休暇のうちの数日を過ごす程度だ。俺がいなくても、実の息子がすぐそばに住んでいるという安心感があるし、単純に帰るのが面倒になっていた。佳奈の両親が一緒に暮らしてくれたらと願っているが、祖母は頑なに拒んでいるらしい。
「ところで、休日でもないのに何でおばあちゃんちに帰って来たの?」
新しいビールの栓を抜きながら佳奈が尋ねた。薄暗い店内でも、頬が少し赤らんでいるのがわかる。
「出張で近くに来ることになったから、暫く帰ってなかったし、ついでと思って今日有給取ったんだ」
「うわ、凄い!そんな偶然あるんだね。ねえねえ、昼間のこと詳しく聞かせてよ」
佳奈は身を乗り出して、俺の膝に手を置いた。近い、近過ぎる。
「わかったから、これ以上汚すな!」
再び佳奈の手を払い除けると、佳奈はアイドルみたいに首を傾げてペロッと舌を出した。アラサーにはちょっと無理があるぞ、佳奈。そう思ったが恐ろしいので口には出さず、昼間の出来事を佳奈に語って聞かせた。
俺が祖母の家に着いたのは午後2時頃だった。呼び鈴を鳴らさずに玄関のノブに手をかけたのは、普段から施錠するようにという注意をちゃんと守っているか確認するためだ。
予想通りというか、残念なことにというか、ドアノブは何の抵抗もなく回って俺は舌打ちをした。何回言ったらわかるんだ、今日こそきちんと言い聞かせねばと思いつつドアを開けると、玄関に見知らぬ若いスーツ姿の男が立っていて、振り返りざまに明らかにギョッとした顔を俺に向けた。
古い家の狭い玄関は、男がふたり立つには窮屈だ。「どうも」と頭を下げた後、中に入ろうか躊躇していると、奥から祖母が封筒を持って出てきた。祖母は俺の顔を見るなり、手にした封筒を取り落として叫んだ。
「陽平!あんた何でここに!」
落とした弾みで、封筒の中から帯の付いた札束が転がり出た。一瞬の沈黙の後、若い男はそのうちのひとつをバッと掴み、呆気にとられている俺を突き飛ばして表に飛び出した。俺は下駄箱に左肩をしこたま打ち付けて一瞬怯んだが、その痛みが俺の闘争心に火をつけた。
男を追って表に出ると、さっきの俊敏さはどこへやら、意外にも男はもたもたと走っていた。後から聞いた話では、革靴を履いたことがなくて走り辛かったらしい。こっちは営業で鍛え上げられた足腰もさることながら、革靴は俺の皮膚みたいなものだ。これ幸いと俺は男に飛びかかり、道路に組み敷いて大声で叫んだ。
「誰か、ケーサツ、ケーサツを呼んでくれ!」
騒ぎを聞きつけた向かいの床屋の親父が、店を飛び出して俺に加勢してくれた。おばさんが警察に電話をする間に、近所中の人が集まり、俺達の周りに人垣ができた。若い男は暫く悪態をつきながら暴れていたが、そのうち観念したのか、すみませんと言いながら泣き出した。見ればまだ十代とも思える若さだ。何でこんなことにと思いつつ祖母を見ると、祖母はただ、玄関先に佇んで呆然としているばかりだった。
「それからパトカーが来て、男は連れて行かれて、俺たちは事情を聞かれて、その時おじさんとおばさんが駆けつけてくれてばあちゃんのそばにいてくれるっていうから、俺はその足で病院に行って、擦り傷の消毒と打撲の湿布を貼ってもらったんだ」
「おばあちゃんの様子はどう?」
俺は何杯飲んでも飲み足りない気がして、もう1本栓を抜いた。これで大瓶3本目だ。
「すっかりしょぼくれて、口を開けば『ごめんね、ごめんね』って仏壇の前でめそめそしてるよ。大体、俺がどこかのヤバい女を孕ませて金がいるなんて話信じる方がどうかしてるって。これだけ世の中に詐欺のニュースが溢れてるんだぜ?そんなの誰だってすぐに気付くさ。そもそも俺の声がわからない時点でおかしいだろ?何年一緒に暮らしたんだよ。電話口でシクシク泣いているのが陽平だと思っただって、ありえないっつーの!」
俺がグラスに残ったビールをあおると、佳奈がすかさず注ぎ足してくれた。
「まあまあ、そう言いなさんなって。これだけニュースが流れるってことは、騙されるのも無理はないってことでしょうよ。それに、おばあちゃんは陽平が心配だからこそ騙されたんだし、感謝こそすれ罵るもんじゃないわよ」
「単にボケただけじゃねーの?」
反論するかと思ったが、佳奈が何も言わなかったので、逆に俺は少しバツが悪くなった。でも、本当のところ、俺たちが幼い頃の快活でしゃきっとした祖母と今の頼りない祖母はまるで別人のようで、あまり関わりたくないとさえ思ってしまうのだ。
暫く黙っていた佳奈が口を開いた。
「ね、百万ちょうだい」
「は?何だよ突然。やだよ」
「いいじゃん、ちょうだいよ」
「そんな大金、佳奈なんかにくれてやる義理はねーよ」
「何でよ?あたし随分陽平の世話したわよ。例えば、幼稚園の頃、家でおもらしした時は、泣いてる陽平のパンツおろして、シャワー浴びさせて、着替えさせてたよ」
「ちょ、ちょっと待てよ!そんな20年以上前の話今更……」
「高校であたしの同級生に恋した時は仲を取り持ってあげたよね?」
「あれは結局成立しなかったじゃねーか。大体、そんなことくらいで百万も出せるかって」
「じゃ、誰のためなら百万ポンと出せるのよ?」
「そりゃ、恋人とか嫁さんとか、本当に大切な人に決まって……!!」
言葉に詰まった俺の顔を佳奈はニヤニヤしながら見つめた。
「あんた、そんなにバカじゃないみたいね」
俺は酒のせいでなく顔が赤くなるのを感じてうつむいた。全身から力が抜けていく。
「おばあちゃんはボケてなんかないわよ。ただね、陽平の話ばっかりするの。私だって同じ孫なのに、ヤキモチ焼けるくらいあんたのことばっか。離れてからは特にね」
佳奈は真っ直ぐに俺の目を見た。
「おばあちゃんがあたしたちと暮らさない理由わかる?」
俺は首を横に振った。
「あの家が、陽平の家だからよ。あそこがなくなったら、あんたの帰るとこ無くなっちゃうでしょ?」
俺の目の前に、祖父母の家で過ごした幼い日々が次々と現れては消えた。そこにはいつも祖母の優しい笑顔があったことを俺はすっかり忘れていたようだ。
佳奈は席を立つと、タッパーに皿の上の料理を次々と放り込み、カウンターの向こうに用意してあったおにぎりの包みと一緒に俺に押し付けてよこした。
「帰ってあげなよ。おばあちゃん、心細く思ってるよ、きっと」
俺は手渡された包みのずっしりとした重さを感じていた。いったい誰がこんなに食うんだよ?
「佳奈」
「ん?」
「俺、今までばあちゃんの気持ちなんて考えたことなかったかも」
「みんなそんなもんよ。わかればよろしい」
佳奈は、俺の頭を左手でポンポンと叩いた。
「だから、汚い手で触るなっつーの!」
「照れるなよ。てかさ、明日そのボロボロのスーツで仕事行くの?」
「あっ、えっ、あーっ、どうしよう、俺!」
「ばっかだねえ」
佳奈の笑顔が弾ける、つられて俺も笑った。
心に溜まった澱も、一緒に弾けて消えた気がした。
ばあちゃんと俺 いとうみこと @Ito-Mikoto
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