双理
古弥 典洋
一、たけくらべ
「たけくらべ」著:樋口一葉
14歳の少女「美登利」が主人公で、姉に有名な遊女をもつ。東京の吉原で繰り広げられる物語。ヒーローはそれぞれ15歳の「信如」と13の「正太郎」。信如は父が僧侶で、正太郎は父が金貸しである。
三人は周囲大人への抵抗や町で喧嘩を起こしたり、問題児だった。ある時をきっかけに信如が美登利から身を引く。彼女もそれに応じて素っ気ない態度をとっていたが、信如の下駄の緒がすれ違う美登利の前で千切れてしまう。その緒を代わりに結んであげる彼女は焦れていた。大人になって、信如は僧侶として生き、美登利は此のまま遊女として生きる事を決意する。
カップに入れたコーヒーを仰って、喉へ。温くなった其れは胃に入る瞬間、頭の靄をはっきりさせた。次に二回のノックが入る。
「やあ、今晩は如何?」
「具合は良い。其方は?」
ガチャリ。木が少し軋む音が客人の存在を思わせる。男は此方へ出て机を覗き込んでくる。
「貴女と同じだね。」
「今丁度、たけくらべを読み終わった処だ。どうだ?意見を交換しないか。」
女は明るい声でたけくらべを見せて振る。
「良いな、そう為るとしよう。」
隣の椅子に腰掛けて見る。たけくらべを置いて男と対面する。
「如何だった?貴女はどの場面が気に入った?」
「沿だな。私の全体的な感想では切ない想いだ。此れで終いなのかと考えると、少し焦れる。物語も良いのだろうし、印象的だ。だが、出来るものなら、もう読みたくはない。
場面としては、信如と疎遠と成る場面か。あの、なんとも言えない関係性は私の中に来るものがあったぞ。」
胸に手を当てて楽しそうに語る女。飲もうとカップを見てみるとコーヒーはもう無い。自分で飲んだ物の残量も把握出来ない程に夢中に成っていたらしい。彼女にしては珍しい事だった。
「えっと...?出来るものなら何だと言ったの?」
「.....その、うぅ。でも確かに切ないもん!」
顔に昇る血の色を隠そうと躍起に成る彼女を横目に吹き出す男。夜中の盛上り具合は、確かに私たちを狂わせた。
「ふふ。はぁ、あぁもう、今日の貴女は妙に女らしい。
関係が悪く成ってから、下駄の緒を美登利が結んだ場面。吾が良い。」
「そ、沿うか。一理ある。殆どの人間は鳥肌が立つ程素晴しいと感じる場面だろう。言葉による会話が一切ない、行動だけの素直な会話。素直なのに言の葉に乗られないことが何故か悲しい。沿いう事だろう。」
「概ね。というより、まるで貴女は自分が人間でも無いかの様に物を言うね。」
「さぁ?人間で無いのだとして、では私は何だ?」
「今日は、人間という以前に一つの雌の動物というらしいね!」
「どうだ、今夜は....楽しむか?」
妖艶に微笑んで唇を舐める女。乳首のぎりぎりまで衣服を肌蹴て見せる。
「気が向いたらば相手を為るね。」
明ら様に不機嫌な顔に成ってそっぽを向く女。
「そんなんだからずっと独身なのよ。ふん。」
「あぁそうか。貴女が素直にちゃんとお強請出来たならば、僕は今までに無い程の最高の悦びを教えてあげられるのになぁ.....」
男は耳元で囁いて、耳たぶを甘噛みする。
「ふぁ.....くぅぅぅっ。屈するものか....」
閑話休題。
「此の作品、出版された当初は十代の若者に人気が有ったそうな。だからなのか、一見僕等には難しい文章で綴られていても、一つ一つ紐解いてみると存外簡単だよ。」
「ふむ、先人の若輩は感受性が豊かで有ったのだな。今の彼等を見てみろ、どこも大東亞、大東亞と変に忙しそうだ。
戦争と言えばなのだが、樋口の生きていた時代では抑ゝ女性が世に出て活躍するというのは迚もではないが考える事が出来なかった。だから彼女も波乱の人生だったそうだな。」
「今や女性にも可能性は僅かに増えた。良い世の中.....とまではいかないけどね。」
「この戦争、勝とうと負けようと、大日本帝国は大きく変わるぞ。勝つ事で発展するという訳でも無いだろうな。」
「よ、よく知ってるね....」
「む、何だ?私個人の見解なのだから気にしなくても良いのだぞ。」
頭にはまた一つ疑問符が付く。彼は口に出かかった次の言葉を、新しく入れ直した熱い緑茶でぐっと飲み込む。
「まぁ、僕は切ないのは苦手だね。ちゃんと言葉にして表してほしいよ。口に出来ない関係なんて腐れて終わるだけだと思うよ。」
「本当にそうかな?寧ろ口にしなくちゃ保てない関係こそ、すぐに消えてしまうと思うがな。」
「はー、成程、そういう考え方もあると。でも、今回の此の作品の場合では口にすれば成就したかもしれないね。結局二人は別々の人生を歩んだじゃないか。」
人差し指を立てて説得するように語り男。女は首を振って此を振り払う。
「厭、沿うとも限らんぞ。元々、互いに遊女と僧侶を身内に持っていたじゃないか。遊女は恋愛や駆け落ち等見つかれば首が飛ぶし、僧侶の父も例え許したか如何......」
今度は立てた人差し指を顎に当てがった。
「へぇ、そうかそうか。てことはその官能的な関係を三人で楽しんでた訳だね。悪い言方を為れば。同時代の森も舞姫と言う官能的な物を出してしまったしね。変態さん達かな?」
女は呆れた様に御茶を啜、男を一瞥為る。
「手前も大概だと思うがな。」
「これっ、女の子が手前なんて汚い言葉を使うんじゃない。
昔の人は皆んな沿ういう関係のものが多かったじゃないか。みんなみんな変態さね。」
確認される限りでは日本の最古の文書からも浮気や不倫の類と似通った物が確認されており、今世紀や前世紀で収められる程には短くない物だ。寧ろ娯楽の多くなかった時代ではその様な心が躍る出来事に、酷く憧れの様な物が有り得たというのは不可思議では無かった。
「肉体だけなら、誰かとも吝ではないがな。」
「.......此処までづかづかと男の家に居候して一体何を言っているんだ君は?」
女の為る主張をひらりと躱しつつ、穴を抜ける。寧ろ男と住んで居て別の男と付き合ってたのかと一言も感じさせなかった彼は褒め称えられる覓で。
「抜けたぞ此奴。又私のお誘いは無しと為るか。」
「というか君は誘い過ぎだよ。何れだけ発情してるの。兎さんなの?然も僕はちゃんとお強請出来るならしてあげると言ったじゃないか。」
直後、外から笛が高々と、何度も鳴る。その笛は、静かき曙に劈く様に響く。その後、不機嫌な馬の鳴き声も辺りから聴こえる様に成る。
「ほら、もう日の出だ。起し屋が僕達を呼んで窓を叩いてるよ。」
結局、彼女の方からお強請をして人生で今まで知らなかった最高の悦びを知ったのは、此処から沿う遠くない未来の話で有る。
樋口は売れない作家で、だが自身の好きな作家に弟子入りしてまで彼女は道を貫き通した。結果、彼女は幾つかの名作を仕立て上げ、其の疾風怒涛の勢いは正しく滝鯉の如くで有った。然しながら、腫瘍で若くしてこの世を去った。彼女が売れるようになってから、死ぬまでの期間は一部の人間から「奇跡の十四ヶ月」と呼ばれ敬われた。斯く其れらが増長し、日本銀行券の五千円券紙幣として彼女の肖像が世に出回るのは、更に先、二千四年の出来事で有る。
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