あなたのために花を降らせたい
クララ
第1章
第1話 幼馴染がやってきた
朝寝坊をしようと思っていたのに、なぜかいつも通りに目が覚めてしまった。エマは大きく伸びをして、晴れ渡る空をレースのカーテン越しに見た。それからゆっくりと視線をめぐらせば、壁のカレンダーには金色で書き込まれた花のマーク。
「花祭りかあ」
起き上がり、ドレッサーの前に移動して、テオが好きだと言ってくれた髪を丁寧に
気がつけば大きなため息がこぼれていた。ここ数ヶ月間を振り返れば、明るくなっていく空とは反対に、自分の心にはどんどん黒い雲がかかってくるようだと思わずにはいられない。一人で花祭りに行けるとは到底思えなかった。
(今日は家で過ごそう。大好きな日だったのに。大好きな。何よりも大好きな……)
またもやため息をこぼれそうになり、エマはぐっとこらえた。落ち込んでいても仕方がない。今はブラッシングに集中しよう。そう自分に言い聞かせて黙々と髪を
「おはよう、おばさん。エマは? もう起きてる?」
エマは弾かれたように立ち上がった。耳を疑った。落ち込みすぎて、願望が膨れ上がりすぎて、まさか空耳とか? と思わず自問自答する。
いや、聞き間違うはずなどなかった。どんな雑踏の中にいても、絶対に聞き取れる自信がエマにはあった。それほど耳に馴染んだものなのだ。
「エマ~」
その声が呼んでいる。なにがどうなっているのか、夢の続きなのかと、すっかり動転してオロオロし始めたエマの耳に再び声が届く。
「エ、マ〜」
間違いない。声の主は下にいる。
(どうして? 約束なんてしてないのに、それどころか……)
「エ〜、マ~」
さっきよりもじれったそうな声が響いた。もう待ったなしだ。エマが階段上から顔を出せば、やはりそこには玄関ドアの前で二階を見上げるテオの姿があった。
「エマ~、まだ着替えてないの? もう行くよ。早く早く」
「へ?」
(行くってどこへ? なにがどうなってるの? どうしてテオがここにいるの?)
わからないことだらけでエマはもはや軽くパニック状態だ。けれど反射的にコクコクとテオの言葉に頷いた。長年染み付いた癖というのは、本人の気持ちなど置いてきぼりで発動するものなのだ。「待ってて、待っててよ」とテオに念を押し、エマは大急ぎで部屋に戻った。
髪だけでも
手早くそのワンピースに着替え、二階のバスルームに駆け込んで顔を洗い歯を磨いた。そしてドレッサーの前に再び座ったエマは、引き出しからまだ封を切っていないリップクリームの箱を取り出した。
それは、お気に入りの店の春の新作だった。うっすらとしたピンクは主張しすぎず、けれどつやつやとした輝きは何気に華やかさを感じさせる。エマはその色を一目で気に入った。いつものように、すぐにでもテオに見せたいと思った。
けれどその頃、エマは一大決心をしたばかりだった。もしかしたら、もうしばらくテオには会うべきではないかもしれないと、そんな風に自分を追い込んでいたのだ。
綺麗なリップクリームが色褪せて見えた。ひどく悲しくなって、エマはそれを引き出しの奥に押し込んだ。
それから数ヶ月。今エマは鏡に向き直り、それを唇にのせる。柔らかなピンクは想像通り顔色を引き立ててくれる。思わず広がる微笑み。エマは、鏡の中にいる、ここしばらく見たこともないほど上機嫌の自分を見つめた。
「おはよう。テオ。お待たせ。でも私、まだ何も食べてないの……」
「いいからいいから。公園で美味しいもの買ってあげるよ。とにかく今は行こう。急がないと!」
「公園? 花祭りに行くの?」
「当たり前でしょ。こんな日に、他のところに行く人がいる?」
それは小気味よい、いつものテオだった。エマの身勝手とは言え、昨日まではギクシャクしていて、二人はほとんど口も聞いていなかったのだ。ところが目の前の幼馴染は、そんなことをまったく感じさせない口調で喋り続ける。エマは呆然としてテオを見つめた。
何もかもが一緒だった。興奮して眠れなかったエマが朝寝坊し、テオに急かされて慌てて家を飛び出し、なにも食べてないと不満を言って公園で買ってもらう、今までの花祭りの朝と何一つ変わらなかった。
エマは泣きそうだった。本当は、今日だってテオのことを頼りにしてはいけないのに。けれど……。テオが来てくれただけで、何事もなかったかのように話しかけてくれただけで、心の中に押し寄せてきていた黒い雲が一気に流されていくようだったのだ。
(ごめんなさい。私弱すぎるね。だけど今日だけは何もかも忘れて楽しみたい。明日からはまた頑張るから、だから、だから……)
公園に向かうバスの中で、エマは手渡されたパンフレッドに目を通した。その内容は、彼女にとってすぐには信じられないものだった。
「なにこれ! なにこれ……。本当に?」
エマが見上げれば、そこには悪戯が成功したように満足げに笑うテオの顔があった。
「でしょ、すごいでしょ、それ。もちろん行きたくなるよね。やらずにはいられないよねえ」
ブンブンと頭がもげるくらいの勢いで首を振るエマを見て、テオは密かに安堵の息を吐き出す。
パンフレットは学園内に張り出されていたものだ。けれど多分エマは見ていないだろうとテオは思った。
最近のエマは授業が終わればそそくさと帰っていたし、ようやく居残りしたかと思えば、それは学園内コンサートの準備のためで、声をかける隙もないほど忙しそうだった。そんなエマが、ホール脇の掲示板に張り出されていたこのパンフレットを読むとは考えられなかった。
しかしそれはまさにエマ好みの企画だったのだ。読めば絶対エマは飛びつく。幼馴染であるテオにはそれが手に取るようにわかった。
チャンスだとテオは思った。ずっと一緒だった二人の間に知らぬ間に溝ができて、けれどどうしていいのかわからず、絶体絶命だと感じていたテオにとって、その企画は救いの手のように思われた。
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