Seventh Tower 〜囚われの神々〜

混沌加速装置

第一章 暁

青い炎

 世界には地上だけでなく、大空の遥か上方に広がる上層階と深い地の底へと伸びる下層階が存在し、それらが煉瓦塀のように何層にも積み上がった構造となっていて、自分たちが暮らしているのはそのうちの一階層に過ぎないのだ。


「なぁ、スノー。なにを食ったらそんな考えが出てくるんだ?」


 家畜を囲う木の柵に腰掛けた黒髪の少年が、右隣の芝生の上に座るスノーと呼ばれた白髪の少年に、驚きと感心をたたえた翡翠ひすい色の瞳を向けながら訊ねる。


 二人とも生成りの半袖シャツに、スノーは萌黄もえぎ色のゆったりとしたズボンを履き、黒髪の少年はその髪の色と同じ黒いズボンという出で立ちで、どちらの袖口からも同じような細い手足が突き出ている。


 スノーは紅蓮ぐれんまなこを前方で牧草をむ大型の四肢動物の群へと据えたまま、「食べ物は関係ないよ」と静かに答え、「教えてもらったんだ」と流れるような抑揚で続けた。


「アイツだろ? 旅商人の、えーっと……ゾ、ゾフ、ゾフ」


「ゾノフ」


 黒髪の少年に助け船を出したスノーは、柵に背中をもたせ掛けるとゆっくりと首を反らしていき、視線を正面の彼方かなたに望む切り立った山々の稜線から、頭上に広がる一点の曇りもない紺碧こんぺきの空へと動かしていった。


「そう、ゾノフ。なんか俺、アイツ苦手なんだよなぁ。言ってる意味ほとんどわかんねぇし、服だっていつもボロボロの着てるし」


 友人の言葉を黙って聞いていたスノーは、にわかに「僕は……」と口にして言い淀み、もう一度「僕は」と言って躊躇ためらったように言葉を切り、やがて意を決したように大きく息を吸うと「僕はゾノフみたいになりたいんだ!」と一息に吐き出した。


 思いがけない告白を聴いて黒髪の少年が目を見開き、草木と同じ緑を宿したその瞳でスノーの顔を見下ろした。潤んだ紅色の双眸そうぼうが光を帯びて輝いており、真一文字に閉じられた口の端は微かに持ち上がっている。


 口を開きかけた少年は、友人の赤い瞳からけがしてはいけない神聖さのようなものを感じ取り、何も言うことなくスノーと同じように空を仰ぎ見た。


「行商や仕入れのために旅をするんだ。この祈りの塔の中だけじゃない。他の五塔にある未開拓地へ発掘に行ったり、本当かどうかもわからない怪しげな情報を扱ったり、道中で未知の動植物や未確認生物と遭遇したり。こんなに刺激的な仕事って他にないと思わないかい?」


「んー、どうかな」


「どうかなって……ねぇ、ラナク。僕たち、あと四年もしたら成人の儀があるんだよ? そうしたら、独り立ちに必要な高度な知識と力を司教様から授かって」


「俺まだ十一歳だし」とラナクと呼ばれた翡翠色の瞳の少年がうそぶく。


「年齢は関係ないよ。同じ年に生まれた全員が一緒に受けて、みんな必ず何かしらの仕事に就くんだから」


「知ってるって。ていうか俺、どんな仕事があるのか、まだよく知らないんだよなぁ」


 それを耳にしたスノーは柵の上に座る友人を勢いよく見上げ、「それじゃあ、図書館へ行ってみない?」と笑顔を浮かべて嬉しそうに言った。


「いや、図書館はちょっと」


 語尾を濁す友人にスノーは笑顔を取り下げて、「僕はキミがなにを嫌がっているのかサッパリ理解できないよ」と呆れたように言って溜め息を吐いた。


「うん。あのさ、図書館って本だらけで匂いがカビ臭いだろ? はっきり言って俺はアレが駄目でさ」


「カビくさ……って、あれはかぐわしき知識の芳香だよ!」


 ラナクの無粋な表現が気に障ったのか、珍しくもスノーは少しだけ語気を強めて反論に出た。


「それに、図書館には他の塔で就ける仕事について書かれた本や、魔術っていう失われた技術について書かれた本だって」


「なぁ」とスノーの言葉をさえぎったラナクが、「なんだかさ、今日はいつもより暑くないか?」と言って背後を振り返り、「そんなはずないと思うよ」とスノーも首を回して町の中央に位置する高台に建つ塔を見やった。


 二人の視線の先には、青みを含む白い塔がいびつにねじれながら天を衝くように伸びており、眼下には高台の周りを取り囲む五つの巨大なすり鉢状の窪地に築かれたラトカルトの町が鎮座している。


 町の周囲には動物の侵入を防ぐ浅葱あさぎ色の煉瓦れんがの壁が築かれ、窪地同士の間からは五つの交易路が伸びているだけで、周辺の土地はほとんどが灰色の荒地で占められている。緑の草木はところどころに点在する大小さまざまな高台にのみ見受けられる。


「ニルベルの塔にも異常はなさそうだし」とスノーが言い、「でもそういえば、ラナクはちょっとした変化に敏感なところがあるよね」と笑顔を見せ、「僕にはそういうの、よくわからないから」と恥ずかしそうに続けた。


「まぁ、そんな感じがするってだけでさ。俺もよくはわか」


「ラナーック! スノーウ!」


 少年たちを呼ぶ声に振り返った姿勢のまま目線を下げた二人は、なだらかな斜面の牧草地を左手を振りながら駆け上がってくる、薄い水色のワンピースを着た少女の姿に目を止めた。ラトカルトでただ一人とされる、特徴的な淡い桃色の長い髪が揺れている。二人の少年は返事に応じることなく無言で前へと向き直った。


 少年たちの正面へと回り込んだ少女が、「なんで無視するのよー!」と冗談めかして口を尖らせ、澄み切った空を思わせる瑠璃色の瞳でラナクとスノーを交互に睨みつける。


「やぁ、シャンティ」とスノーが少女へ声を掛けたのに対し、ラナクは「してねぇよ、なぁ?」と悪びれもせずに隣の友人へ同意を求めた。するとスノーは、「うん。声を出さなかったのがキミにとって無視に入るのなら別だけど」と言い、はにかんだ表情を作って眩しそうに少女を見上げた。


「どういうこと?」


 少女は困惑した顔をスノーからラナクへと向ける。


「心の中で言った」


 黒髪の少年の答えにシャンティは軽く溜め息を吐き出し、「ラナクってさ」と言葉を切ると「まぁ、いっか」と肩をすくめ、「二人でなに話してたの?」と笑顔を作った。


「待てよ、俺がなん」


「僕らも四年後は成人の儀だねって」


 スノーがラナクの上げ掛けた不服の声をさえぎって言うと、シャンティが「そうだけど、まだ四年もあるじゃない」と呆れたような声を上げ、「それより聞いて!」と弾むような調子で言った。


「旅商人たちがゲヘンの広場に来てるって!」


 いち早く反応したスノーが「本当⁉︎」と声を上げ、「どこから? 規模は? ゾノフもいるのかい?」と興奮したように捲し立てた。


「わかんない。だから見にいこうよ!」


「もちろん! ラナクも行くだろ?」


 そう言って早くも立ち上がったスノーに訊ねられ、あらぬほうを向いて何事かをぶつぶつと呟いていたラナクは、「え?」と顔を二人に向けて「まぁ……そろそろピノノー眺めてるのにも飽きたしな」と取ってつけたような理由で誤魔化すと、「面白そうだから、行ってみるか!」と言って柵から飛び降りた。




 土が剥き出しとなった急な下り坂を、ニルベルの塔の膝元で口を開けている最大の窪地、ゲヘンを目指して少女と二人の少年が駆けてゆく。


 人々が暮らすそれぞれの窪地には、町の外壁と同様の焼成煉瓦で造られた浅葱色の直方体の家々が円を描くように軒を連ね、広場となっているすり鉢の底へと向かって階段状に並んでいる。


 シャンティを先頭に少年二人が続いて下りていった広場は、持ち帰った品々を地面に広げたり天幕つきの簡易な露店を組み立てたりしている相当数の商人たちと、他の窪地からも集まってきたのであろう多くの人々で溢れ返っていた。


「凄い数だな」とラナクが漏らしたのを、スノーが「こんなの今までにないよ!」と興奮気味に返す。


「これじゃあ、アイツを見つけるのは大変だな」


「僕、ちょっと訊いてくる」


 そう言って人混みの中へと消えたスノーの背中へ、ラナクが「スノー!」と呼び掛けながら、友人を追って人々の流れに身を滑り込ませる。立ちはだかる二人の大人をかわし、前方に見えたスノーの左肩へとラナクが手をかける。


「スノー」


 ラナクの呼びかけに振り返りもせず人垣に紛れたスノーは、「あれ見てよ」と右手を上げると、人々の隙間から覗く前方の地面を指し示した。


 指の先にいる旅商人が広げた濃褐色の布の上には、大小様々な用途不明の品々が無秩序に置かれており、それらのうちの小さな鳥籠の中に小動物とおぼしき影が見える。


「鳥か?」


「よく見て」


 ささやくようなスノーの言葉にラナクが目を細めた。全身を乾いた泥で覆われているような、くすんだ灰色をした人型の生き物が両膝を抱えてうつむいている。その地味な体色とは対照的に、背中からは透き通った薄いはねが垂れ下がっており、どこかの光を反射して一瞬のきらめきを見せた。


「嘘だろ。あれ、翅が生えているのか?」


「あんな生き物、今までに読んだ本には載ってなかった」


 興奮を抑えようとしているのか、スノーの言葉はわずかながら震えを帯びている。ところが、好奇心に抗うことは難しかったらしく、スノーは身体からだで人垣をぐいと押し退けると無理やり前へと出て旅商人に問いかけた。


「すいません、そこの、その鳥籠に入っている生き物はなんですか?」


 黒っぽいフードを目深まぶかに被った旅商人は、幾重にも掛かっている首飾りをぎゃらぎゃらと鳴らして顔を上げ、男性とも女性ともつかないしわがれた声で「シャンガ」とゆっくり呟き、「人を惑わすものさね」と言って引きったような笑い声を上げた。隙間から覗く口内にはほとんど歯が残っていない。


「スノー。なにやってんだよ」


 人垣を掻き分けてスノーの左隣にラナクが顔を出す。


「どこで捕まえたんですか?」


 旅商人は身体に巻いた布の裾から、皺だらけの細くて黒い右腕を突き出し、人差し指を立てて「一問一答」と言うと「おまえさん、名前は?」と訊ねた。スノーが問われるままに「僕はスノウリっていいます」と答える。


「姓名」


「スノウリ・マグダ」


 スノーの答えに合わせてシャンガの瞳が紫色に輝いたように見えた。


「シムリマウシ。いい名前だ」


「え? いえ、スノウリ・マグダですよ。それで、シャンガはどこで捕まえたんですか?」


 フードの奥の瞳がどこを見ているのかはわからないが、少しの間を置いてから旅商人は「時の塔」とぼそりと言い、再び右手を突き出すと今度は親指と人差し指を立てて「その紅蓮の瞳は、誰からの形質だい」と聴き取りづらい声で言った。


「これは……それが、わからないんです」とスノーが右手で自分の後頭部を掻きながら答える。


「親族に紅い瞳の者はいるか?」


「僕の知る人の中にはいません」と答えたスノーに、旅商人が「ネキワムカム」と腹に響くような低い声で言った。


 言葉の意味が理解できなかったスノーは、困惑を笑顔で隠して視線を外し、先ほどから微動だにしないシャンガを眺めた。脇からラナクが「さっきからなにを話してるんだよ?」と不思議そうに訊ね、「ゾノフを探すんじゃないのか?」と続ける。


 構わずスノーが「あの、そいつ、シャンガは売り物なんですか?」と旅商人に訊ねると、隣で見ていたラナクが「まさか、買うつもりかよ」と驚きの声を上げた。


「欲しいのかい?」


 はやる少年の気持ちを見透かすような旅商人の粘つく声に、スノーは「え、いや……」と言葉尻を濁したものの、思い直したように「じゃなくて、はい! 欲しいです!」と勢いよく答え、すぐさま声のトーンを落として「でも、あんまり高価だと」と呟いた。


 旅商人は「なぁに、心配するこたぁないさね」と言い、「あと二つで、おまえさんのものさ」と口角を吊り上げ、唾液が糸を引く歯のない口内を覗かせた。


「あと二つ?」


 鸚鵡おうむ返しをするスノーには反応せず、旅商人は右の手のひらを見せて親指から中指までの三本を立てると、酸素を求めてあえぐように「おまえさんの、一番大切なものを教えておくれ」とかすれた声で言った。


「僕の、一番大切なものは」


「スノー、マズイぞ!」


 逼迫ひっぱくしたラナクの声にスノーが言葉を切る。


「シャンティとはぐれた」


 スノーが隣のラナクへと顔を向けたところへ、旅商人の「それで『僕の一番大切なもの』……とはなにかね?」という粘つく声が、地面を這うようにして二人の少年の耳へと届く。


 再び正面の旅商人へと向き直ったスノーは、「すいません。その、友だちと逸れてしまったので」と言ってもう一度シャンガへと視線を投げ「また後で寄ります」と告げて顔を上げると、ラナクとともに人混みの中へと紛れ込んだ。




「なぁ。あんな高そうなものと引き換えられる知識や技能なんて、おまえ持ってんのかよ?」


 シャンガを扱う旅商人から十分に離れたところで、人々に四方八方から揉みくちゃに押し潰されながら、前を歩くスノーにラナクが訊いた。


「ていうか、まだ成人の儀を迎えてない、俺たちみたいな未熟者の知識や技術程度の価値じゃ、どっちみち手が出」


 軽く首を傾けて背後へ視線を送るスノーが、「あと二つって言ったんだ、あの人」とラナクの言葉を遮る。


「なにが? スノー、あいつになにか知識を教えたのか?」


「知識なんてなにも。ただ」


「スノー! 前ッ! 前を見」


 ラナクが口にしかけた注意もむなしく、スノーは右肩から弾力のある硬い物体に衝突し、反動で二歩後ろへと蹌踉よろめいた。


「てぇな、ガキ」


 頭上から降ってきた低い声にスノーが首を反らしてゆくと、頭からすっぽりと被った灰色の布で顔を覆う、鍛えられた筋肉が剥き出しとなった上半身裸の大男が立ちはだかっていた。余所よそからの流れ者だろう。ラトカルト生まれの体格ではない。


「すいま」


 大男の放った右足の前蹴りが腹部にめり込んだスノーは、すべてを言い終わる前に背後へと吹き飛び、後ろに立っていたラナクを巻き込んで土埃の舞う地面へと横ざまに転がると、何度か激しく咳き込んで嘔吐するなりグッタリして動かなくなった。


 スノーの下から這い出しながら、埃まみれとなったラナクは「ってぇな」と言って立ち上がり、「あんた、ちょっとぶつかったぐらいで、なにするんだよ!」と大男に向かって怒鳴った。


 隙間なく密集していた群衆がラナクたちと大男を中心に退いていき、見る間に彼らを取り巻くような円形の人垣ができあがった。


 自分たちと大男との明らかな体格差を目にした人々は、被害が及ばないと思われる安全な場所から好奇と不安に満ちた眼差しを向けているだけで、誰一人として仲裁に入ったり少年たちに加担しようとしたりする気配がない。


「あぁ? 平和な小国の片田舎に住む、世間知らずのお子様は威勢がいいなぁ、オイ? 人様にぶつかっておいて謝ることもできねぇ、しつけのなってねぇガキが」


「なん……スノーは謝ろうとしただろ! それをおまえが」


「おまえ、だと?」


 大男はラナクへゆっくりと近づいていくと、巨体を屈めて「親なしか?」と言って倒れているスノーの頭を右手で鷲掴みにし、軽々と肩の高さまで持ち上げて「不憫ふびんだなぁ」と筋肉の盛り上がった右腕に力を込め、顔を覆う布の下で「愚かなせいで短命だ」と冷ややかに言い放った。スノーの口からは苦しそうなうめき声が漏れはじめている。


「やめ、やめろッ!」


 その声に舌打ちをしてラナクを睨みつけた大男は、素早く左手を突き出して少年の喉元を掴み、右腕と同じように肩の高さまで持ち上げると、「他国のガキを一人二人殺したところで、大した罪にゃなんねぇだろ」と言い、両手に掴んでいるものを粉砕しようと指先に力を込めた。


 ラナクは首を絞められて意識が朦朧とするなか、顔の前に突如として焚き火でも置かれたような熱と肉の焼ける匂いを感じ、薄目を開けて何が起こっているのかを確認しようと試みた。かろうじて開いた右目の視界が、透き通った湖のような透明感のある青一色に染まる。


 刹那せつな、支えを失ったかのような感覚があり、気づくとラナクは尻を地面にしたたかに打ちつけていた。すぐさま、かたわらから「あッ、ああ、あひゃあッ!」という大男の間の抜けた声が上がる。


 違和感の残る喉元を無意識に手で払おうとしたラナクは、火照ほてった人肌のような感触に目を見開き、その気持ち悪さから逃れようと首を絞めつける物体を無我夢中で掻きむしった。


 鈍い音を立てて地面に落ちた物体へ、自分の喉元を押さえて狂ったように咳き込みながら、ラナクが無意識に目を向ける。黒く焦げた部分から白い煙を上げる、不恰好な芋のような形をした大男のものと思しき前腕が転がっている。


 やにわに、近くから「青い炎だ!」という大声が上がり、それを合図に周囲のそこここから「襲撃だ!」とか「呪物があるぞ!」といったけたたましい叫び声が飛び交いだし、続いて一部の人垣がほころんだのをきっかけに、多くの人々がてんでばらばらに右往左往しはじめた。


 ラナクは咳が治まってくると、悲鳴を上げながら逃げ惑う人々の合間へと視線を走らせ、スノーはどこかと近くにいたはずの大男の姿を探して目を凝らした。


「ラナーック! スノーウ!」


 覚えのある声が聴こえ、出所を探して左右へ首を振ったラナクは、視界の右斜め前方の人混みの合間に見え隠れする、桃色の長い髪を揺らして近づいてくるシャンティの姿を認めた。ラナクは上げた右手を振って合図を送り、「シャン」と呼びかけようとして激しく咳き込んだ。


 地面にうずくまるラナクの姿を見つけたシャンティは、もう一度「ラナク!」と呼びかけて友人のそばへと駆け寄った。


「なにがあったの? さっきの青い光はなに? スノーはどこ?」


 立て続けに質問を浴びせかけたシャンティは、地面に尻餅をついたままのラナクへ「大丈夫?」と手を伸ばし、少年を引っ張って立ち上がらせながら混乱を極める周囲を見回した。


「一体なにが起きてるの?」


 立ち上がったラナクは何かを喋ろうとするたびに込み上げてくる咳に阻まれ、上手く声が出せずに表情だけで苦しさを訴えつつ、シャンティの問いかけにかぶりを振ることでしか答えられずにいた。


「広場から出ないと」と独りちたシャンティが、ラナクの消え入りそうなかすかな声を捉えて「なに?」と耳を傾ける。


「スノー、が」


「スノーがどうかしたの?」


「大男に」


「待って。先にここから出ましょう」


 ラナクの右手首を掴んだシャンティが、「とにかく、どこか高い場所へ」と早口で言い、走り回っている人々にぶつからないよう足を踏み出そうとしたところで、「ひ、人だッ!」というひときわ大きな声が上がった。


 多くの人々が集まる広場で、そのような当たり前のことを指摘する奇妙さに違和感を覚えたのか、ラナクとシャンティが動きを止めて顔を見合わせた。


「一体どうなってんだよ……」


 どこからかおののいたような声が上がったかと思うと、先ほどまで無秩序に陥って騒然となっていた広場は、いつの間にやら走っている者よりも立ち止まっている人間のほうが多くなっており、狂気に満ちた怒号も今やさざめきへと変わって奇妙な静けさが漂いはじめていた。


「なんだよ、あれ」


 ラナクとシャンティが群衆の声の指し示すものを探してそれぞれに首を回す。二人が周囲の人々の視線を追って顎を上げていき、上空にある大小二つの人影を視界に捉えたのと、後ろのほうで「あいつら、なんで宙に浮いているんだ?」という声がしたのはほぼ同時だった。


 シャンティは高台にそびえるニルベルの塔を背景に、直立した姿勢で浮かんでいる両腕の肘から先のない大男に目をやり、続いてその右隣に並んで浮かぶ白髪の少年へと視線を移すなり、「スノー?」と驚きと疑いの混じった声を漏らした。ラナクが咳き込みながらも「あいつだ」と絞り出すように言葉を発する。


「え?」


 シャンティが振り向くのを視界の端で捉えつつ、上空の二人を注視していたラナクは、彼らの背後で大空を真一文字に切り裂くような線状の紫電しでんが三度続けざまにひらめいた直後、ラトカルトの動力資源の供給を担うニルベルの塔から煙が立ち上るのを目撃した。


 間髪を容れず、大気を揺るがす轟音が響き渡り、続けて地面が激しく揺れだしたのに合わせて群衆がざわめきはじめた。


「塔から煙がッ!」


「崩れるぞッ!」


 塔の上部の外壁が崩落してくるのを見ていたラナクは、ふと我に返って視線を落とし、上空を見上げたままのシャンティの右手首を掴んで「逃げよう!」とだけ言うと、まだ立ち尽くしている多くの人々を尻目に、広場の出入り口を目指して一目散に駆け出した。

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