革命の夜は二度来ない

白藤結

序章

 勢いよく風が吹きつけてきた。

 アデライドは反射的に目を閉じ、おそるおそるまぶたを上げる。


 透き通るような青空にはいくつかの白雲が浮かんでいた。広大な青い海は陽光を反射させ、きらきらと銀色に輝いている。船内でも聞こえていた波の音はより明瞭となり、不思議な鳥の鳴き声がどこからか聞こえてくる。


 そして――少し先に見える巨大な島影。


「あれが――っ!」


 思わず前に出た。手すりにつかまると身を乗り出し、じっとその島を見つめる。


 ジリベール島。またの名をブランクール共和国。


 アデライドの故郷であり故郷でない国。一度でもいいから訪れてみたかった、父と母、名も知らぬ祖先たちが暮らした土地。

 徐々に色を濃くしていくそれを、アデライドは食い入るように見つめていた。




「わあっ! すごい、すごい!」


 船から降りるとアデライドはきょろきょろと見回した。さすが世界でも五本の指に入ると言われているブランクール共和国である。港には多くの船が停泊しており、さまざまな国の人が周囲を行き来していた。おそらく観光客なのだろう、みなが満面の笑みを浮かべており、わいわいと楽しそうにはしゃいでいる。


 その浮ついた雰囲気に当てられ、徐々に気分が高揚してくる。その衝動に背中を押されるがまま、アデライドは駆け出そうとして――


「わっ」


 がしりと、背後から手首を掴まれた。

 すぐさま体を反転させられたかと思うと両肩に手を置かれ、駆け出さないよう拘束される。


「まったく……目を離したらすぐにこれだ。油断も隙もない」


 金髪碧眼の青年――アデライドの従兄いとこであるフィリップは、呟くようにそう言うと、盛大なため息をついた。実に長いため息で、どうやらかなり疲れている様子。

 ムッとアデライドは顔をしかめた。


「なによ、。まるでわたしがなにか悪いことをしたみたいじゃない」

「みたいじゃなくて、今まさにしでかそうとしてたんだろ、? もうちょっと危機感を持ってよね。この国は危険なんだから」

「そんなことないわよ。いい国じゃない」

「来たこともないくせに」

「うー」


 まったくの正論であるため反論できずにいると、フィリップがまたもやため息をついた。呆れ果てているようだが、いつものことであるためさして気にならない。それよりも彼の言う通りであるとなにもせずに認めるのがしゃくで、反論できないのが悔しかった。

 ムスッとむくれていると、フィリップが「アデラ」と厳しい声で言う。


「国を出る前に僕が言ったことは覚えているよね?」


 アデライドはにっこりと笑みを浮かべた。


「もちろんよ、お兄さま。知らない人にはついて行かない、本名も名乗らない、あと勝手に行動しない。この三つよね?」

「……うん、確かに大まかにはその三つだけど、それ以外にも小物袋レティキュールを常に持ち歩いて、お金はなくさないようこまめに確認して、あと――」


 滔々とうとうと注意事項を述べていくフィリップに、アデライドはげんなりした。この従兄はいつもそうだ、ものすごく細かいところまで注意してくる。それを聞くのが嫌でそうっとこの場から離れようとしたかったが、両肩に手を置かれているせいでまったく抜け出せない。


(うーん、どうしようかしら……)


 どうにかしてフィリップから逃れようかと考えていると、ちょうどそのとき国から連れてきた護衛が「フィリップ様!」と呼んだ。フィリップの注意が逸れたその隙に、アデライドは彼の拘束を振り切って駆け出す。


「こら、アデラ!」

「大丈夫よ、お兄さま。少ししたら戻ってくるから!」


 一度彼の方を振り返ってそう叫ぶと、アデライドはくるりと身をひるがえして全速力で走る。


「せめて最初の三つは守るんだぞ――!」


 フィリップのその叫び声を背後に、アデライドはどんどん船から離れていった。


 それなりの距離を取ったところでアデライドは立ち止まり、呼吸を整える。そうしてゆったりとあたりを見回した。

 どうやら港は抜けたらしく、周囲は民家や商店になっていた。大通りは人でごった返しており、呼び込みの声があちらこちらで飛び交っている。建物は育ったシルスター王国とは違って統一されておらず、暖かな色合いのものばかりで可愛らしい。


(本当に違う国なのね……)


 改めてそのことを実感しながらきょろきょろとあたりを見回した、まさにそのとき。


「ひゃっ」


 誰かにぶつかられたのだろう、ドンッと衝撃が襲いかかってきてアデライドはその場に尻もちをついた。

 今日着ているのは最近流行りの市民風ドレス。ボリュームもなくストンとした形であるため、衝撃が緩和できず、かなり痛い。


「いったー……」


 腰をさすっていると、「す、すみません!」と動揺した声が聞こえた。アデライドは顔を上げる。


 そこにいたのは赤茶色の髪に青い瞳を持つ少年だった。年の頃はアデライドと同じくらいだろう、まだどこか幼さの残る顔立ちをしており、声もフィリップに比べると高い。身にまとっている衣服はシンプルであるが結構上質なもので、彼が一般市民ではないことを示していた。


 彼は混乱しているのかあたふたとしており、慌ててアデライドも謝罪する。


「こちらこそごめんなさい。ちゃんと前を見てなかったわ」

「い、いや、俺も走ってたから……」


 彼は気まずそうに視線を逸らすが、それと同時になにかを探しているようだった。もしや走っていた理由は誰かを追いかけていたとか?


(たとえば親戚の子どもとか。……ありえそうだわ)


 となるとやることはひとつである。

 アデライドはにこりと笑みを浮かべて口を開いた。


「引き止めてしまってごめんなさい。特に怪我もしてなさそうだし、もう行ってもらって大丈夫よ」


 すると少年は一瞬目を輝かせたのだが、すぐに首を横に振る。


「いえ、せめて本当に怪我がないのか確認させてください」

「あら、大丈夫だって言っているのに」

「紳士として当然のことです」


 そう言われてどうしようか迷う。ぶつかってしまったのにはこちらの不注意もあるのだから、正直あまり迷惑をかけたくない。そのために早く行ってほしいのだが、彼の瞳からは怪我を確認するまで離れない、という強い意志が見て取れた。


 それならば、あまり時間をかけないためにも大人しく従った方がいいだろう。そう判断して、アデライドは大丈夫であることを示そうとその場で立ち上がろうとした。

 しかし両足に体重をかけた途端、右足首にズキリと鋭い痛みが走る。


「いっ――!」


 慌てて先ほどまでと同じように尻もちをつけば、少年もアデライドが怪我をしていると察してしまったらしい。申し訳なさそうに顔をゆがめ、尋ねてくる。


「どこを怪我しましたか?」

「……右足よ」


 ためらいがちに答えれば、彼はその場にしゃがみこみ、「足首を確認してもよろしいでしょうか?」と尋ねてくる。アデライドは小さくうなずき、ドレスのすそを少しだけ持ち上げる。

 少年はじっとアデライドの足首を見つめた。


「……折れてはないようですから捻挫ねんざでしょうね。安静にしたほうがいいでしょう」

「まあ、これが捻挫なのね!」


 少年の言葉にアデライドは思わず笑みを浮かべる。捻挫は今まで経験したことなくて物語の中のものだったから、こうして体験できたことが素直に嬉しい。

 すると少年はドン引くような目を向けてきた。


「……捻挫で喜ぶ人初めて見た」

「あら奇遇ね、私もよ」


 そう言えば少年は呆れたようにため息をつく。なんとなくその雰囲気がフィリップに似ていて、思わずふふっと笑ってしまう。

 すると少年はぴしりと固まった。まるで石にでもなってしまったかのように微動だにしなくて、「どうしたの?」と尋ねる。


 途端少年は息を吹き返したかと思うと、「な、なんでもない!」と言ってそっぽを向いた。動揺しているのか口調が先ほどまでとは違って崩れているし、頬もほんのりと赤らんでいる。

 そこがフィリップとはぜんぜん違って、年頃の少年らしかった。


 もう一度笑みをこぼすと、「アデラ!」と声がした。ビクリと肩を跳ねさせてそちらを見れば、フィリップが護衛とともにこちらに駆け寄ってきているところで。


「あ、お兄さま……」


 怪我なんて知られたら絶対にしかられる。慌てて視線をさまよわせたものの、いい解決策はまったく思い浮かばない。

 どうしよう、と慌てている間にフィリップはすぐそばまでやって来てこちらを見下ろす。


「アデラ、どうして座り込んでいるのかな?」


 顔は笑っているのに、目はまったく笑っていない。ものすごく怒っていることが伝わってくるような表情だ。

「え、えへへ……」と笑ってごまかすと、フィリップはより視線を鋭くしてきて。


 これはやばい。かなりやばい。あとで絶対説教が待ってる。心の中でひいっと震えていると、「申し訳ありません!」と隣から声がした。

 そちらに視線をやれば、先ほどまでしゃがみ込んでいたはずの少年がいつの間にか立ち上がり、フィリップに対して頭を下げていて。


「私がぶつかってしまって、怪我をさせてしまい……」

「ああいや、大丈夫だよ。君だけのせいじゃないだろうし」

「ですが、」

「大丈夫だから」


 なおも言いつのろうとする少年に対し笑顔でそう告げると、フィリップはアデライドの前にしゃがみ込んだ。

 そうしてピリピリとした雰囲気のまま尋ねてくる。


「怪我の具合は?」

「……捻挫ですって」


 万が一余計なことを言って逆鱗に触れたらたまったものではない。そう思って必要最低限答えると、フィリップはいつもより一段と低い声で「そう」と言う。温度のない声。

 叱られてしまうのだろうかとビクビクしていると、彼はちらりとアデライドの足を見て立ち上がった。それと同時に護衛に目配せをしたかと思うと、護衛がすぐそばにまでやって来る。


「うちのアデラが迷惑をかけたね。ありがとう。それじゃ」


 フィリップはくるりときびすを返して歩き出した。すぐさま護衛がアデライドの目の前にしゃがみこみ、背中を向けてくる。これはおそらく乗れということだろう。確かに捻挫した足で歩くのはあまりよくない。


 アデライドは足首に負荷をかけないようにしてのそのそと護衛の背に移ると、すぐさま護衛が立ち上がって歩き始めた。先に行ったフィリップを追うに違いない。

 慌てて背後を振り返った。


「ねえ!」


 少年は先ほどまでよりもどこか鬱々とした視線を向けてくる。

 アデライドは意識して笑みを浮かべた。


「ありがとう!」


 返事の代わりに少年は大きく手を振ってきた。

 それを見て視線を前に移すと、アデライドは護衛に背負われてその場を去っていった。

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