2 心を動かしたのは、何色? ②
「だから、三原が見ている世界を、思うがままにキャンバスに塗っていけばいい」
「でも……」
それでも私が渋っていると、先生は私の頭に大きな手のひらを乗せた。その手が優しくて温かくて、目頭に熱いものがこみ上げる。でも、泣きだすのは何だか恥ずかしくてそれが流れ落ちるのを必死に我慢しながら先生の事を見上げた。伊沼先生はくしゃりと柔らかく笑っていた。その笑顔は、手の温度のように優しかった。
「それが三原の作品なら、誰にも文句言わないから。もし何か言ってる失礼な奴いたら、俺がぶん殴ってやるよ」
「……それ、先生、首になりません?」
伊沼先生の言葉が嬉しくて仕方がないのに、素直になれない私は小さな声でそう言い返すと、先生は「あ」と少しまずそうに喉から声を振り絞った。
「それもそうだな……。やっぱり、ちょっと注意しておくだけにとどめとくわ」
私は噴き出してしまう。先生はそんな私を見て、目を細めて先ほどとはまた違う、楽しそうな笑みを浮かべた。今日は、笑っている先生の顔をたくさん見てしまった気がする。ファンの子が知ったら、うらやましがるだろうな。
「それで、先生は今、何描いてるんですか?」
先ほどから視界の端っこに映っていた先生の絵を見た。放っておかれて、少し寂しそうにしている。私は引き寄せられるようにその絵を覗き込む。色々な濃さのグレーの丸がキャンバスの中で整然と並んでいる。
「タイトル『空模様』」
絵を見ている私の背後で伊沼先生は少し胸を張った。
「空の色って、日によって変わるだろ。気に入った色があったらそれを覚えておいて、できるだけ絵の具で再現してみようっていう試みの絵」
「私には、ただ濃さの違う灰色にしか見えないですけどね」
「まあ、これを見て、いいと思うか好きじゃないと思うかどうかは人ぞれぞれってことだな。それが芸術ってもんだ」
唐突に芸術について語りだす先生が、どこか『先生』っぽくないように見える。私は筆を持つ彼の姿が少し不思議で、思わず口を開いていた。
「でも、どうして先生が絵描いてるんですか? 次の授業で使うとか?」
「今度俺の個展をやるから。それに向けての作品作りだよ」
「え? 個展?」
聞き返すが、私の耳が間違っていたわけではないようだ。先生は深く頷く。
「伊沼先生、個展なんてするんですか?!」
「何でそこまで驚くんだよ……悪いか? 俺だって美大出てるし、それなりにファンだっているんだからな」
「信じられない!」
「それは俺に対して失礼だぞ、お前。……そうだ、生徒玄関に飾ってある絵あるだろ?」
私は頭の中を掘り起こして必死に思い出す。確かに先生が言っている通り、玄関には絵が飾ってある。見たことのない古い建物を、まるでカメラで写したように細かいところまで正確に描かれた絵だ。私はその絵を思い出しながら頷くと、伊沼先生は満足そうに笑う。
「あれ、俺が描いた絵」
「えっ?」
驚きのあまり変な声をあげる私を見て、伊沼先生は自慢げに微笑んだ。
「高校の校長先生が俺のファンで、よく絵を買ってくれるんだよ。その一枚を、ああやって飾ってくれるんだ。ほら、俺が言ってることが嘘じゃないってわかっただろ?」
「へぇ~。ね、先生」
パッと頭の中に『とあること』が思い浮かぶ。その笑みに返すように口角をあげ、私は口を開く。
「その個展、私も行ってもいいですか?」
「は?」
「気になっちゃって、先生が他にどんな絵を描いてるのか」
先生は私にこう言っていた。今思っていること、感じていること、その全てが絵という形になって現れる。先生と話をしている内に、私も彼がどんなことを思いながら絵を描いているのか、それが少し気になり始めていた。
「いつやるんですか? その個展って」
そう尋ねると、先生は立ち上がって美術準備室へ消えていく。私はまた一人取り残され、先生をじっと待つ。先生は小さな紙を片手に、すぐに戻ってきた。
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