2 心を動かしたのは、何色?

2 心を動かしたのは、何色? ①

 伊沼先生の勢いに負けてしまった私は、それから毎日、放課後に美術室に行って課題の絵を描くようになってしまった。その課題が終わるまで寄り道するのもお預けで、舞たちとは次の新作フラペチーノこそ一緒に飲みに行こうと約束せざるを得なくなってしまった。


 しかし、筆を持つ私の手は動かなくなってしまい、遅々として作業は進まない。時々私の様子を見に来てくれた舞と莉子ちゃんにも「もしかしたら、次の新作には間に合わないかもねぇ」なんて笑われるくらいに。


 確かに今は手は止まっているけれど、下書きだけは一週間くらいで描くことができた。キャンバスに黒い鉛筆で果物の形を描いていくだけだから、色が見えない私にもそれくらいならできる。でも、問題はそれからだった。


 高校に進学するときに学校で否応なく購入させられて、今まで一度も使うことがなかった絵の具。私はついにその箱を開ける。本来ならば鮮やかな色が並んでいるはずなのに、私は白から黒へ下っていく色の階段にしか見えなかい。それぞれのチューブに色の名前が書いてあるおかげで、私はようやっとその中に『赤』や『緑』が入っているという事が分かる。


 私の目の前にある果物も、そう。あれはリンゴだけど、果たして本当はどんな色なのだろう? 十歳になるまでよく見てきた赤いリンゴなのかもしれない。もしかしたら、青リンゴかもしれない。たとえ赤いリンゴだとしても、どんな赤色なのだろうか。暗い色が混じった赤なのか、それとも、太陽のように明るく、目の覚めるくらい鮮やかな赤色なのか。今の私の目で見えている情報だけでは、そんな事は全く分からない。私は小さくため息をつく。周りの絵とは全く違う変な色を塗ってしまったら、次はどんなことを言われるか。それを少し想像するだけで怖く、私はキャンバスの前で動けずにいた。


 それなのに、伊沼先生ときたら! こんなに悩める私のことをほったらかして、先生はずっと何かの絵を描いていた。キャンバスにこれでもかというぐらいに顔を近づけて、目を細めてぎゅっと凝らしながら一心不乱に。まるで、ここに私がいつことも忘れているくらいに。伊沼先生は『先生』なんだから、ちょっとくらい私にアドバイスとか指示とかしてくれてもいいのに。悔しくなった私は水にぬれただけの真っ白な筆をおいて、バレないようにそっと伊沼先生の背後に忍び寄る。


「……わっ!!」


 そして、先生の耳元で大きな声を出した。


「うわっ! ……な、なんだよ! 急に人の耳元で大きな声を出すな!」


 怒りながら振り返る伊沼先生は、驚きのあまり背中を震わせている。私がその様子に思わず吹き出すと、先生はなんだか少し恥ずかしそうに唇を尖らせた。


「ほら、余計な事してないでお前はとっとと課題の絵を描け。そんなんじゃいつまで経っても終わらねーぞ」


 今度は、私が唇を尖らせる番だ。


「スランプなんです! どうやって絵を描いたらいいのかまったく分からないんです!」

「分からないって……下書きまで描けたんだろ? あとは見たとおりに色塗っていけば終わるだろ」

「その色が見えていないから、どうしたらいいのかわかんないって言ってるのに!」


 憤然としながら大きく息をはくと、先生は持っていた筆とパレットを置いて、私の方を向いた。


「お前が見たままの世界を、そのまま描けばいいんだぞ」

「でも、そんなことをしたら……」


 私が言いよどむ姿を見て、先生は何か思い当たる節があったみたいだ。


「もしかして、他の連中に何か言われるのが嫌なのか? お前の絵の事で」


 小学生の時の出来事を思い出しながら小さく頷くと、先生は長く息を漏らした。


「俺は別に変だって思わないけどな、三原がどんな絵を描いていたとしても。だってお前にしか見えてないものを絵にしたら、俺にも体験できるようになる。この俺でも、三原の視界を共有できるようになるんだから」


「先生ってば、テキトーな事ばっかり言ってません?」


「失礼だな、テキトーなもんか。お前にしか見えない世界がある、その世界を見たいし、他の奴にも見せたいと思うから、俺は三原に絵を描かせてるんだ。もっと胸張っていいと思うぞ、お前の世界は、唯一無二なんだから」


 その言葉は、すとんと私の胸の中に落ちてきた。体中にじんわりと染みわたり、耳が熱くなっていくのが触れなくても分かった。中々返事しない私に業を煮やしたのか、先生は『何だよ』とムスッと口を曲げた。


「……いや。何だか、先生っぽいこと言うなと思いまして」


 私はその熱を感じていることを伊沼先生にバレないように、顔をそむける。


「なんだそれ。ま、俺だって教員だからな」


 伊沼先生はいたずらっぽく笑みを浮かべた。私もそれを見て、少しだけ笑顔になった。


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