この日この時この場所で
顔を上げると時計と目が合った。無印良品で買ったそれは、飽きのこないシンプルなデザインに、目覚ましの役割と、温度計と湿度計までもがついた、「もう僕があれば他に何もいらないでしょ?」とでも言いたげな、愛すべき私の持ち物だ。電波時計でもあるから時計合わせの必要もないし、いついかなる時だって、正確な時間を表示し続ける。
その愛すべき我が時計が、22時22分を告げていた。そして今日は、2月2日ではなかったか。さらに言えば、令和2年ではなかったか。どれほどの確率で、今この時を認識することができるのだろうか。考えても答えのわからないことが頭をよぎり消えていった。
私には時計を見たときに嬉しくなる瞬間というものが存在する。何気なく目に入った時刻が私の誕生日と一致していた時と、今のようにゾロ目になっている時だ。時刻を読むことのできる多くの人が、きっと同じ考えを持っていることだろう。
だが今回は嬉しくない。あまりにも数字が揃いすぎている、というのは関係ない。令和2年2月2日22時22分は、2月2日が誕生日で、猫が大好きだった、遠い昔の元彼のことを思い出させたからだ。
数年前のあの日あの時あの場所で、私と彼は出会った。彼は私に一目惚れをしたらしい。それからある人の協力もあって、順調に交際が始まり、しばらくして同棲を始めた。年の差2つの、友達のような恋愛だった。
起業することを夢見ていた彼は、二十六歳で起業した。私は、彼がほぼ無給となる期間がどんなに続いても、私の稼ぎで支えてみせると、心の奥の奥底で密かに誓った。結局、そんな誓いなんていらなかった。苦しい時は確かにあったが、今思えば一瞬で過ぎ去り、固定の売上をあげられるようになった彼の会社は、次々と新しいサービスを立ち上げ、成功していった。
彼の名前をグーグルの検索窓に入れれば、彼の写真がダイレクトでヒットし、取材を受けたページがたくさん並べられる。ダイナースからブラックカードの営業も受けたし、日本の社長100選にも選ばれた。
ここまで話を聞いた人はみんな思うだろう。「ああ、捨てられたんだな」って。稼ぎ出した男はこれまでに出会ったことのないような美貌の持ち主と出会い、その日のうちに恋に落ち、罪悪感の欠片もなく、「お前は俺に釣り合わない」とかなんだとか勘違いした言葉を吐いて、これまで隣で笑い合っていた女を捨てるものなのだと。
断じて違う。彼は私に別れを告げなかった。私が彼に別れを告げたのだ。
そんなことがあるもんかって? 残念。この世の中、なんだって起こり得るのさ。ましてや一個人同士の恋愛だ。その形は星の数ほど存在する。
成功した彼の生活は、確かに派手なものになった。年に数回、海外へ旅行し、毎月のように日本国内への旅行もした。旅行のない週末はゴルフに明け暮れた。私は彼の遊び全てに付き合った。だがどれも、私と二人ではなかった。他の社長仲間の家族と一緒だった。いわゆる、グループ付き合いだ。
そうしてセレブ仲間で派手に遊ぶようになったものの、私との暮らしは、慎ましやかな1DKで、あいも変わらず営まれていた。ベッドの隣に置かれたソファー。食事が乗り切らない小さなテーブル。服が入り切らないクローゼット。風呂トイレは別だったが、早く引っ越したかった。
広い家に住みたかった。いや、そこまで広くなくてもいい。せめて食卓と寝る部屋がきっちり分かれていれば……。
二人だけの思い出も作りたかった。年に一回だけでもいい。いつもの仲間からの誘いを断って、二人だけで旅行ができれば……。
そんな私に彼は言った。「そんな金はない」と。
何不自由ない生活に私が別れを告げたのは、それからすぐの事だった。
もったいない。周りのみんなはそう言った。一体何が不満なの? ってね。でも、私の心は決まっていた。女ってのは、見切りをつけるのが早い。本当にそう思う。
彼は確かに、私にお金を使ってくれていた。ゴルフ代も旅費も、私が払うことは一切なかった。だけど、私の望むことにお金を使ってはくれなかった。
彼はきっと、私にお金を使っている気でいただろう。「どれだけいい生活をさせてやってると思ってるんだ」と、心の底で思っていたことだろう。
だけどもさ、いくらお金があってもね、望むことに使えなければ、ないものと同じ。そういうことってあるんだよ。
彼は私の望みに理解を示さなかったし、私も彼が何を望んでいるのか分からなかった。結局、私達は一緒にいながら、別々の方角に歩みを進めていたのだと思う。別れを告げたのは私だが、二人には、別々の未来しかなかったんだ。
「紅茶でも飲もうか」
優しげな声に振り向くと、愛しい顔と目が合った。大きなソファーに寝転んで、広げた本から目だけ出してこちらを見ている。あれから数年探し歩いて、やっと見つけた旦那様。暖かな家庭を作りたい気持ち、いつか大好きな犬を飼いたい気持ちをわかってくれる旦那様。家の中をすぐに本だらけにしてしまう所が玉に瑕だけど、お互いに補い合って生きていける、そう思わせてくれるパートナー。
これ一台で何でもわかる、愛すべき無印良品の時計を見やると、令和2年2月2日22時23分を指していた。一分間の脳内タイムトリップを終えた私は、今を踏みしめるように立ち上がる。
「そういえばケーキあるんだ、忘れてた。一緒に食べよう」
旦那の好きなレモンパイを見せると、彼はソファーから飛び上がるようにやってきて、私に優しくキスをした。
ゾロ目企画参加作品 しゅりぐるま @syuriguruma
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