第38話



莉緒の誕生日を無事に祝えた私は夏本番になってきている季節のせいで毎日だれていた。職場と家は涼しいけど出勤中やどこかに出掛ける時は暑くて暑くてたまらない。


この季節は本当に嫌になるがこの時期の特別な仕事が私は一番嫌だった。




「オオカミ先生歯が痛くなっちゃった。痛くて痛くてたまらないよぉ~」


「そうかい、そうかい。それは虫歯かもしれないね。大きく口を開けて見せてごらん?」


「うん!」


「どれどれ……」


私はオオカミの歯医者の台詞を読むと次のページにいくために紙を捲った。今日は保育園の歯科検診の日で私が担当になった。検診自体はそんなに大変ではないが検診が終わると紙芝居を読む事になっている。

私はこれが大嫌いだった。



私は紙芝居だからと言って演技はしない。いつも通りに読み進めていくだけなのだが、ついてきた助手の子によく笑われるし、こういうのは柄に合わなくて恥ずかしいと言うかなんというか……。


今日は伊藤ちゃんがついてきてくれたが隣で読んでいる伊藤ちゃんは笑いを堪えている。


「わぁ、これは大変だ。大きな虫歯ができているよリス君。すぐに治療をしないと」


「……本当先生?痛いから治して?」


「僕に任せなさい。すぐによくなるから大丈夫だよ。大きく口を開けていてね。キュイーン、キュイーン…」


歯を削る音までも言うはめになって私は苦痛だった。私は歯医者なのになぜ紙芝居を読まないといけないんだ。目の前にいる子供達は興味津々に楽しそうに紙芝居を見てくれるけど全く嬉しくない。しかも伊藤ちゃんは笑いながら震えている。



この紙芝居はいつも辱しめを受けているみたいで心労だった。



しかし、紙芝居が終わっても歯磨き指導がある。私はこれも嫌いだった。大きな顎模型と歯ブラシを持って磨き方を適当に指導するのだが子供が苦手な私には苦痛だ。


「これから歯ブラシを皆でやるからよく見て真似してね。まずは上の歯から二十回ずつね。ここからね?皆一緒にやるからね」


私は歯ブラシを持って嬉しそうにしている小児に顎模型を見せつけながら数を数えて磨いていく。小児達は真似をして自分達で磨きだした。


「先生ここ?」


「先生ー!俺磨けた!」


「先生の歯ブラシおっきい!」


そして小児は指導していてもよく話しかけてくる。それにはうんざりするが私は顎模型を見せつけながら答えてやった。


「うん。そこだよ。先生に合わせて二十回磨いて」


「俺本当に磨けたよ先生!」


「うん。でもまだ磨いて」


「先生!私は?」


「うん?あってるよ。先生のやってるのよく見て?」


この歯磨き指導をしていると保育園の先生は本当に凄いと思う。小児を一人治療するだけでも疲労が酷いのに私には絶対できない職種だ。


私は検診の最初から疲労を感じながらも最後までやりきった。

しかしこのせいで医院に帰ってきてから午後の診療がしんどかった。



「景子疲れてるね?」


「……まぁね」


「紙芝居どのキャラ読んだの?」


裕実はにやにやしながらちょっとした暇な時間に話しかけてきた。知っているくせにムカつくやつだ。


「オオカミの歯医者」


「景子がオオカミの歯医者って……ネタにしか思えない。伊藤ちゃんめっちゃ笑ってたよ?今回も面白かったって」


「うん、知ってる。読んでる時隣で笑ってた」


裕実に笑われると腹立つがもうこれは毎年あるので気にしない。気にすると疲れてしまう。それでも裕実はおかしそうに笑っている。


「私も景子が読んでんの見たかったなぁ。どうせ真顔で棒読みしてたんでしょ?これは大変な虫歯だ!とか言うくせに」


「まぁ、……うん。間違ってはない」


「そりゃ伊藤ちゃんじゃなくても笑うわ」


「勝手に笑っていいけど疲れてるからもうやめて」


あと二三人で午後の診療が終わる。もう私は疲労困憊だ。私は裕実を適当に流して治療に移った。全部合っていたし笑われたのは癪だがもうさっさと終わらせて帰りたい。

疲れた私はそれしか考えられなかった。



今日は仕事終わりにゲーセンに行きたかったけどこの疲れ具合では無理なので私は仕事が終わったら即家に帰った。

もう今日はすぐに寝てしまおう。そう思いながら家まで帰ってきてポストを確認するとさらに私の心が疲れてしまった。


ポストにはあいつが入れてったであろう宗教新聞と手紙とCDが入っていた。こんな事までするなんて本当に理解のできないクズだ。私は少しイライラしながらもそれを持って部屋に帰る。


部屋に入ると今日は莉緒がいなかった。そういえば今日は友達と遊びに行くとか言っていた気がする。

平日なのに遊びに行ける体力がある若者は羨ましいほどで、疲れている私にもその体力を分けてほしいものだ。



私はさっとご飯を食べて風呂に入るとさっきポストに入っていた物を捨てた。宗教新聞はくだらない事しか書いていないし手紙も一緒だろう。それにCDはたぶん会合のやつだ。あいつがはまっているくだらない宗教の物なんかいらない。反吐が出る。


私は苛立つ気持ちを抑えながらベッドに入るも中々寝付けなかった。

体はいつもより疲れているはずだし明日も仕事があるから寝たいのにあいつのせいで寝られない。

まだ私に宗教を強要してくるあいつが不愉快に思えて腹立たしい。


あまり考えすぎないようにしたいのにしつこく私に付きまとうから考えずにはいられなかった。


それでも私は目を閉じながらどうにか眠れるのを待ったが心は乱れていた。

あいつが気にくわなくて気持ち悪くて、昔を思い出す。私はいつもあんなやつに劣っていた。今はもう薄れて失くなっているがあいつは本当にコンプレックスだった。



でも、それは私しか知らない。

だからあいつはいつまでも勘違いしているのかもしれない。


だからって話す気はもうないが自分のための人生なのに宗教のために生きる人生はどうなんだろう。


私には幸せには見えないが本当に幸せになれるのだろうか?自分を犠牲にしてまでする事が。



私はそのまま考えながら深夜まで眠れなくて次の日の朝も疲れていた。

そしてそんな日々が続くようになった。

これには家を出てすぐの事を思い出す。

あの頃は今よりも考えて苦しんでいた。答えは出ないし、理解をし合える訳でもないのに考え続けている私は女々しいのだろうか。


「先生?今度の休みデートしませんか?」


日々疲れを感じている私に莉緒はいつもの調子でねだった。莉緒はあれから具合が悪そうにしないが、たまに腕を擦っている。それだけが私は少し気がかりだ。私は莉緒に視線を向ける。


「いいけど。どこ行きたい?」


「次はまた海行きたいです!」


「海?……海だけ?」


「海とバッティングセンターにまた行きたいです!最近打てるようになってきたので先生に披露してあげます」



「……まぁ、いいけど」


私は行きたいところがないからどこでもいいが莉緒も私も気分転換になるだろう。最近は出掛ける気も起きなかったからある意味良かった。私はコーヒーを飲みながらテレビに視線を向ける。今日も疲れた。


「先生?なんか疲れてますか?」


私は疲れたとは言わないしあんまり表情も変わらないのだが莉緒に感じ取られたようだ。


「毎日仕事してれば疲れるよ」


「そうですよね。じゃあ、私が甘えさせてあげます」


元気に言う莉緒は本当に疲れている時はあるのだろうか?私は断った。


「別にいいよ。莉緒もそれなりに疲れてるでしょ」


「私は元気です!先生の隣にいるだけで元気になります!」


「……そう」


莉緒が嬉しそうだと保育園の検診を思い出す。なんか、思い出しただけでも疲れてしまった私は会話を区切ったつもりだったのに莉緒は私の手を強く握ってきた。


「先生ちゃんと甘えないとダメだって私言いましたよ?忘れたんですか?」


ここでそれを言われると返答に困ってしまう。


「……甘えてるよ」


「甘えてません。先生全然甘えてくれないじゃないですか。先生が甘えてくれないと私は寂しくなるんですよ?」


「……今甘えてるよ」


「今は私がくっついてるだけです!先生疲れてるなら私に甘えてください。私が先生を癒してあげますから」


「……」


そう言われても私は今までずっと一人で生きてきたからどうしたらいいのか分からない。またキスをしてと言えばいいのか?しかし、それだとこの間みたいにごねられる。私は黙って悩んでいたら莉緒はテレビを消して私の膝に乗ってきた。


「もう、私が強制的に甘やかしますからね?」


「……そう」


なんか莉緒は仕方ないみたいな感じに言ってきたが私のせいなのか?私は黙って莉緒を見ていたら莉緒は頭を撫でておでこにキスをした。


「今日も先生はよく頑張りましたね」


「私のアポ詰まってるからね」


「良い事ですよ。先生はいつも頑張って偉いです。それに私も愛してくれて……いつもありがとうございます」


「莉緒は彼女なんだから当たり前でしょ」


目の前にいる莉緒は嬉しそうに私に抱きついてきた。


「先生大好きです」


「そう」


「先生は、……先生は前に比べたら私の事どんな風に思いますか?」


体を離して至近距離で少し不安そうに尋ねられた。前と比べたらなんてそんなの聞かなくても今の現状で分かるだろうに。私は莉緒を見つめながら答えた。


「好きだよ。こないだ莉緒が教えてくれたでしょ」


「でも、どんな感じなのか詳しく聞きたいです……」


どんな感じと言われてもうまく説明できない。莉緒はなんかもじもじしているがたぶん聞くまでごねると思うから私は考えながら話した。


「……うまく言えないけど、好きだから笑っててほしいって言うか、……悲しませたくはないとは思ってるけど」


莉緒に対する思いはいろいろあってまとまらない。私は咄嗟に思い付いた事だけ言ったら莉緒は嬉しそうな顔をした。


「嬉しいです。私も先生と同じです」


「そう。……まぁ、付き合ってるんだから同じ気持ちを持ってるのは普通か」


「そうですね。でも、先生が私を想ってくれるだけで私嬉しすぎてにやけます」


「そう」


微笑む莉緒は私の頭を優しく胸に抱いた。


「お礼も込めて私の胸で癒してあげますね」


「別にいいけど……」


「ダメです。私の優しくて大好きな先生を癒してあげないと私の気が収まりません。ちょっとこのままでいましょうね?頭撫でててあげますから」


少し強引な莉緒にいつもの事かと頷いて私は軽く腕を回した。

莉緒の温もりは心地いいし安心する気がする。

だからこれは癪だが付き合ってもいい。

莉緒は大切なものに触るみたいに私を撫でてくれた。

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