#1 障壁 Ⅳ

 今でも迷うけれど、あれが正しかった。


 静かに落ちる雪の中、真っ黒な体のドラゴンが飛翔する。羽毛で風を切って身を翻すと、長くたなびく尾を銃弾に叩きつけた。弾に込められた魔法と尾羽がもつれ合い、千切れた羽は後方へ流れていく。ドラゴンはそれで難を逃れた。

 人影は地上からドラゴンを見つめていた。彼は銃の遊底を握る。素早く弾を装填すると、右目を瞑って引き金を引いた。見当違いな方に向けられた銃口だが、強く白に光る文様がいくつも現れて軌道が強引に曲がり――着弾。ドラゴンの翼の根本で煌めき、空間がにわかに歪む。

 根元から片翼を失ったドラゴンは、金の混じった血を置き去りにして墜落していった。魔法を使っているのか緩やかに下降する。鋭い牙を覗かせて、ドラゴンは苦痛に満ちた吐息を漏らした。若い男性の声だ。その様子に、薬莢を排出する彼の手が止まる。

 ドラゴンは隙を見逃さない。虚空から魔素の光と大量の水が溢れさせ、自分もろとも彼を覆った。広大な空間を埋め尽くす波の威力に、人の肺は簡単に潰れる。ごぽ、と空気を吐き出した彼は脱力しかけるが――その状況においても再度狙撃を試みた。ドラゴンによる魔法の行使を中断させようというのだ。

 しかし込められた魔術がうまく炸裂しない。諦めた彼は必死に声を絞り出し、サクサの言葉で呪文を唱えた。姿が閃光と共に消える。彼は奔流からかろうじて逃げおおせた。小銃を投げ出し、真っ白な野原に横たわって咳込む。次いで後方で、黒いドラゴンが大きな雪煙を上げて木々の間に消えた。それなりに距離があるのに、枝が折れる火花の様な音が鳴り響く。


 ――私が彼らのもとへ辿り着いた時には、二人とも満身創痍だった。

「どうして」

 頭の中ではずっと疑問が廻っていた。問いかけたところで意味はない。

 夫のフィーリクスと、私の大切な弟であるアルマス。たくさん喧嘩もしていたけれど、二人は本当に仲が良かった。酔っぱらって下品な話を楽しそうにしていたり、フィーリクスが面白がってアルマスにチョコレートの餌付けをしていたり。見ている私も幸せだった。戦争が終わって街も豊かになってきて、やっとフィーリクスは故郷サクサからこのカレヴァへ帰ってきた。ドラゴンは危険だけれど、アルマスなら一緒に暮らしていけるかもしれない。そう思えた瞬間だってあった。

 なのに、今二人は互いに傷つけあっている。

 アルマスは魔力の暴走を止められなくなってしまった。フィーリクスはアルマスに唯一対抗できる者として、どうしたって街を守らなくてはいけない。

「フィーリクス、しっかりして!」

 ずぶ濡れで震える彼のもとへ駆け寄ると、ほんのりと鉄の香りが漂う。軍服まがいのコートは脇腹のところで切り裂かれていた。傷は浅いけれど、真っ赤な血が雪に滲む。彼が怪我をして――それが弟のせいだなんて、気が狂いそうだ。

「キエロ、問題ない。触媒のためにわざと切る必要がなくなった」

 痛みと寒さに歪む笑みで、フィーリクスは冗談を言う。気の利いた答えなど返せないまま沈黙が流れた。彼は私の肩を支えに、ゆっくりと立ち上がる。

「俺はアルマスを封印するよ。また暴走する危険を考えたら、そうしない方がむごい」

 フィーリクスは車で来た道を戻るよう指示し、私を無理やり車内に押し込む。文句は言えなかった。彼に代わって私が負える責務なんて今や一つもないのだ。フィーリクスやアルマスに同情することだって、烏滸がましくてできない。

 私はなんて愚かなのだろう。後戻りのできない局面に至ってやっと気づくなんて。

 大切な人に私の不始末を背負わせた。アルマスのことも、街を襲った悪者にしてしまった。私は全て知っていたのに、どこかでフィーリクスに、アルマスに――ありもしない幻想に甘えてしまったのだ。その代償を二人に払わせている。

 雪に覆われた木々を背に、フィーリクスは真っすぐ私を見つめた。

「すべては親友――アルマスのために」

 彼が踵を返すと、森は結界の中に沈んでいく。隔てられ遠ざかっていく二人から目を逸らして、私は瓦礫だらけの街に戻った。


 これは、ずるずると夢に流されてしまった私の罪だ。アルマスの幸せも、フィーリスクの幸せも、私の幸せも――すべて私の迷いが壊してしまった。

 だから正しい。アルマスを封印するのは、たった一つの解決策だった。

 私が招いてしまった最悪の状況の中では、残念ながらあれが正しかったのだ。

  


 ***


 独り。

 それがひどく寂しいことだと実感するのは、もしかすると生まれてはじめてかもしれない。


 九月二十七日、土曜日。ひんやりと爽やかな、雲一つない秋晴れ。いよいよ明日で展示が終わるからか、心なしか先週よりも更にごった返している。

 教会青年会のホールで行われた見本市では、子どもから大人までみんな目を輝かせていた。フィーリクスが建設中の水力発電所、飲料メーカー、ラバー工場に衣料品工場――羊毛の靴下が可愛らしい。他にも展示はたくさんある。全部がこの街、この国の発展を支える産業で、私たちは大戦を乗り越えたのだと改めて実感させられた。ブーツから靴下の指先を覗かせていたあの頃とは、比べ物にならないほど豊かになっている。

 けれどそんな風に楽しく観賞をしていられたのは、ちょっと前までの話だ。

「リリャ! どこにいるの!」

 呼びかけても道行く人が振り返るだけで、肝心の娘からの返事はない。

「もう、誰に似たんだか。本当におてんばな子なんだから!」

 大方、夫のフィーリクスに似たのだろう。何かに夢中になるとすぐどこかへ行ってしまう。

「こんな日に限ってフィーリクスはいないし……」

 彼がいれば魔法ですぐリリャのもとへ駆けつけてくれるし、勝手に帰ってくる。けれど生憎、今日の彼は仕事に出ている。私だけで何とかするしかない。

 さっさと先へ進みたいのに、人の波は絶えず押し寄せる。なんとか掻い潜って歩いていたけれど、いくらか進んだところで誰かの肩にぶつかってしまった。

「ああ、ごめんなさい!」

「キエロさんか。どうしたんだ、急いで」

 気にするなと首を振るのは、弟とよくつるんでいる郵便配達員の子だ。彼は襟を直してはにかむ。

「娘のリリャが迷子なの。まだ七歳だし、今日は人が多いから心配で……」

 すると郵便配達員の彼は、ああ、と眉を上げた。

「ならアルマスに頼めば――」

 そこまで言って押し黙る。

 本当に無意識のことだったのだろう。仕方がない、この街でアルマスを忌避しているのは私だけだ。

「いや、ごめん。キエロさんはアルマスと会いたくないんだよな」

「こちらこそごめんなさい、気を遣わせてしまって」

 彼はしばらく俯いて、何かを決心したみたいに顔を上げる。それは誰もが口にする言葉だった。

「なあ。この際聞くけれど、なんでアルマスを悪魔なんて呼んで追い出したんだ?」

 がやがやと周囲の声が大きく聞こえる。深呼吸をしても、肺に空気が入ってこなかった。

 ――実のところ、アルマスを街から遠ざけるのが良いことなのか自信がない。アルマスの様な強いドラゴンは、魔力暴走を起こして暴れだす可能性がある。けれどそれがいつなのか、極論をいえば、本当に暴走するのかも分からない。

 可能性は高いけれど、アルマスなら平気じゃないか。そう思いたくなる自分がいて怖くなる。幾許もない希望に縋るのは、良心が傷まなくて気持ちがいい。私だって、たった一人の血の繋がった家族を悲しませたくはない。

 でも、それがフィーリクスや娘のリリャに災いをもたらす可能性があるのなら、私は主張しなくてはならない。

「暴走するかもしれないドラゴンを身近に置いておくなんて、危険すぎるもの。なるたけ遠くに行ってもらった方がいいわ」

 私はアルマスがこの街を嫌いになるための悪役でありたい。アルマスが恵まれない境遇を私の所為にできるように。未練なく街を去ることができるように。優しい子だから、生半可な理由では自分自身に非を求めてしまう。そうさせないために、私はアルマスを悪魔なんて呼んで騒いでいるのだ。

「そう……だよな。ドラゴンが堕ち――」

 郵便配達員の彼が表情を曇らせて呟くと、そこへ被せる様に声が響いた。

「あの……姉さん?」

「アルマス、何故ここに」

「ちょっとごめん」

 珍しく郵便配達員の彼を脇にやって、アルマスは私の正面に立った。長めに揃えられた銀髪をぐしゃぐしゃといじりながら、アルマスは息を吐き出す。

「――その、リリャが迷子だって聞こえちゃったから。こんなことを言えた義理じゃないけれど、姉さんを手伝えたらと思って。あの子の行きたがるところなら予想はついているし」

 私の言ったひどい言葉はアルマスに全部聞こえていたはずだ。それに今までも、悪魔と騒いでは私たちに近づかせないようにしていた。だというのに、アルマスは本気で手を差し伸べようとしてくれるのだ。

 これはいけない。

「私一人で充分よ」

「でも……手伝いたいんだ。リリャちゃんにも姉さんにも、あまり寂しい思いはしてほしくないから」

「寂しい? 分かったような言い方をしないで。アルマスに――」

 言い切ってやっと、自分が致命的な過ちを犯していることに気づく。

 アルマスが――私の弟が孤独を感じていないはずがない。いつも隣にいて支えてくれる、人好きで優しい家族だった。ドラゴンになってからもそれは変わらなかった。

 私はお腹の中にいたリリャのこともフィーリクスのことも大切で、傷つけられたくなかった。それでアルマスを遠ざけることにしたのだ。悪魔と呼ばれても、弟じゃないと言われても、アルマスは私の願いに背くことはしなかった。何故、とひとしきり泣いた後、「仕方がない」と笑って家を出ていった。

 結局、私の我儘な願いのせいで追い出されたのだ。しかも私という、アルマスが大切にしていた唯一の家族に。アルマスが孤独を感じていないだなんて、我ながら酷い。悪魔と罵るよりもずっと無自覚で、たちが悪い暴言だ。

 それでもアルマスは優しかった。私を、会場からいくらか外れた広場へと誘う。

「いいんだよ。姉さんは何も間違っていない。家族を守りたいんでしょ?」

「……けれど、アルマスだって家族よ」

 つい零れた本音に、アルマスは戸惑うように返事をする。

「うん、昔はね」

 何かを言いかけては、後に続く想いを飲み込む。アルマスはしばらく目を伏せていたが、やがてゆっくりと視線を上げた。

「姉さん。僕を家族と言ってくれて本当に嬉しい。でもいいんだ。受け容れようとしてくれなくていい。姉さんは正しいんだよ。僕はドラゴンで、いつか必ず暴走する。それも、きっと近いうちにその日は来る。父さんと母さんを奪ったあの惨劇を忘れちゃいけない」

 私の葛藤をはねつけるように、アルマスは両の手のひらで壁を作る。

「でも今は大丈夫。感じるんだ。まだ猶予はある。だからどうか協力させて」

 ここでアルマスを頼るのは良くないことだ。一度甘えてしまえば、この意志はほつれていく。

 ――私は首肯してしまった。

「姉さん、少し離れていて」

 一瞬空を仰ぐと、アルマスの体が光の糸にほどける。幾重にも重なる煌めきは彼のもう一つの姿を紡ぎ出した。眼前で躍動する鱗は透明にも似た白銀で、陽光が撫でるたびに水面のように輝く。真っ白な翼がゆったりと空気を叩いた。展示場のテント四つ分はある両翼をたたんで、頭を低くもたげる。

 美しい。どこまでも美しいドラゴンだ。

「乗って」

 私がまごついていると、アルマスは尾羽で私の背に触れる。人の姿の時にしてくれたように、私を勇気づける温もりがあった。

 もう少し、アルマスと言葉を交わしてみてもいいのかもしれない。

 ヒールを脱ぎ、鱗に覆われた華奢な前足を踏み台にして飛び乗る。私が頭の付け根にまたがると、アルマスは助走もそこそこに、軽く離陸した。

 空から俯瞰する会場は楽しげにざわめく。街を救った銀色のドラゴンを目にすると、人々は歓声を上げた。当たり前の日常、微笑ましい景色だ。それだけに疎外感が心に突き刺さる。アルマスは私の心情を知ってか知らずか、何も言わずリリャを探した。白樺の間をゆっくり縫っていくと、入り江に架かる橋に降りる。

 急に吹いた冷たい秋風に、橋から波を見つめていたリリャが背後を振り返る。続いて目を大きく見開いた。フィーリクスに似た金髪のおさげを躍らせて、大急ぎで駆けてくる。

「アルマス! おかあさん!」

 私に抱き着いてくるのかと思ったけれど、リリャの向かう先はアルマスだ。分からなくもない、子どもたちの読む絵本ではドラゴンが英雄だし、この街では特にそうだ。リリャは興奮してよじ登っていく。アルマスは大きな体を魔素の光にほどくと、リリャを抱き留めて地面に降ろした。

「――リリャ、離れて。会っちゃいけないって言ったはずよ」

「おかあさん、なんでそんなことをいうの?」

 リリャは途端に不機嫌になる。アルマスから引き剥がすと、案の定リリャは泣き喚いた。

「駄目なものは駄目なの」

 どんなに辛かろうと、二人を仲良く遊ばせるなんてしてはいけない。アルマスはいつかいなくなる。リリャを苦しませないためには、思い出をつくらないのが一番いいのだ。

「なんでよ! おかあさんのいじわる! またアルマスは悪魔だっていうんでしょ?」

「そうよ。アルマスみたいに強いドラゴンは、暴れて街を壊しちゃうの。リリャのお友達もけがをしちゃうかもしれない。立派な悪魔よ。街にいない方がいいの!」

「ちがう! ドラゴンはヒーローだって、学校で習ったもん!」

「リリャ、僕は大丈夫だから落ち着いて――」

 アルマスが宥めようとするけれど、リリャは断固として聞かない。アルマスの方へ行こうともがく。

「おとうさんも、おかあさんがいないところでならアルマスと遊んでいいっていってたもん!」

「フィーリクスが言ったの?」

「そうだよ! だからおかあさんのいうことはきかない!」

 苛立ちと落胆が湧いてくるが、ここでリリャを怒ることはできない。悪いのは、フィーリクスと上手く意思疎通ができなかった私だ。

「アルマス、リリャの言っていることは本当?」

「うん。たまにフィーリクスがリリャを連れて遊びに来るんだ。姉さんにバレない様にな、って。ごめん、それが嬉しくてつい……」

「わかった。教えてくれてありがとう。リリャを見つけてくれたのも助かったわ」

 いくらアルマスが瞳を潤ませていたって、リリャの前で慰めることはできない。早いところ立ち去ろう。

「いや!」

 強引に引っ張るとリリャは今までにないくらいに抵抗する。私の手をすり抜けて、アルマスの足に縋り付いた。

「アルマスはわるいドラゴンじゃないもん。おかあさんのことも、わたしのことも助けてくれたんだよ」

 そんなことは私だって分かっている。アルマスがいなければ、爆撃に巻き込まれたときの怪我で死んでいたかもしれない。フィーリクスとリリャのそばで幸せだと感じられる日々は、アルマスがくれたものだ。感謝しない日は一日だってない。

「でも――」

 アルマスには人を傷つけて後悔してほしくないから。

 私が口走りそうになったその時、アルマスの瞳から涙が零れ落ちる。

「リリャ、ありがとう。僕はとても嬉しいよ。でもお母さんの言うことは本当だ。僕はリリャに怪我をさせてしまうかもしれない。そんなの嫌だよ」

「うそだ!」

「嘘じゃないよ。だからもう一緒に遊ぶのはやめよう。リリャはいい子だから約束してくれるよね?」

 私は無力だ。その台詞は私が言い聞かせておくべきものだった。本人に言わせていいものではない。

 リリャは一層激しく泣きじゃくる。アルマスは抱き上げて私に引き渡すと、一歩、一歩と離れていった。

「姉さん。先延ばしにし続けてごめん。本当は、もっと早くにこの街から出ていくべきだったんだ」

 アルマスは手のひらで涙を拭う。

「準備ができたらいなくなるから、それまでは許してほしい。本当にごめんなさい」

 アルマスは逃げるように踵を返し、ドラゴンの姿になって飛び去った。風が残した水上の轍だけがいつまでも寄せて返す。

「――リリャ、帰りましょう。フィーリクスもじきに帰ってくるわ」

 頷いたリリャと手を繋いで、ふたり帰路につく。

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