#1 障壁 Ⅲ
自分が正しい。
本人はそう思いがちだ。傍から見ればおかしなことでも、自分の中では唯一絶対の正解にしてしまえる。私もつい自分の意見に固執してしまうので、常に念頭に置いておかなくてはならない。私の思い込みが誰かに迷惑をかけることだって、そもそも正しくないことだって――いくらでもありえるのだから。
ヨキネンを見ていると、より一層自戒の念が強まる。
「イーリスさん、俺は天才だったようだ。こうすれば庶民派英雄まっしぐらじゃないか。称賛される」
「称賛じゃなくて罵倒でしょ」
「全くもって真だな。俺もそう思った」
ヨキネンの起こした騒動のせいで多少ごたついたが、一日の授業は恙なく終わった。ただ、平穏だったのは授業中だけだ。放課後のヨキネンも朝と同じくらい絶好調で、講堂から出ようとする私をしつこく阻んできた。走って逃げても、彼は無駄に運動能力が高いので軽く私に追いつく。そんな不毛な追いかけっこを十分ほど続けたところで、結局ヨキネンが満足しない限り解放されないということに思い至った。子どもではないのだから、もうそろそろ自分勝手な行動はやめてほしい。
今は講堂の奥の方の席に座って、謎の地図を描くヨキネンとの訳の分からない会話に耐える時間だ。
「それは、ルミサタマ市の地図? 何のために落書きをしているの」
「言ったばかりだろう。俺が庶民派英雄になるための一つの手段だ」
普段使われていないホワイトボード上に、妙な蛇行を繰り返す線で「お困りごとはありませんか」という言葉が書かれる。
「やりたいことはなんとなく察したけれど、明日には消されていると思うよ」
「流石はイーリスさんだ。しかしその程度のことなら織り込み済みだよ。子どもの頃の夢を叶えようというのに、場当たり的な行動はできない」
「はいはい、フィーリクスさんみたいになりたかったんだっけ」
彼はやたらと嬉しそうな笑みを浮かべて、マーカーで私を指す。まさかとは思っていたけれど、本当に英雄になりたかったらしい。勉強ができて洞察力もあるのに、ずいぶんと飛躍した夢を語るものだ。人のことは言えないけれど。
「そう、イーリスさんと『スズランの手記』の話をしていたら思い出してしまった。俺に安定志向は似合わない。英雄を目指すなら今だ」
「場当たり的な行動はしないんじゃなかったの」
「その通りだよ。だから場当たり的ではない行動をしている。詳細はあとで話そう。敵を欺くにはまず味方からだ」
敵だの味方だの、フィクションに浸りきっているとしか思えない。だからヨキネンは嫌厭されがちなのだ。
「仮想敵を作るのはいいけど、停学になるようなことはしないでね」
「いろいろと誤解を解きたいところだが……ありがとう、イーリスさん。誓って迷惑行為は慎もう」
誤解も何も、元々信用がないのだからどうしようもない。悲しげな表情でホワイトボードに向き直った彼は、メールアドレスや謎のURLを書き足していく。そのついでと言った様子で、私に話題を振ってきた。
「そうそう、気になっていたんだ。『スズランの手記』の写本について。差し支えなければ、中身を教えてほしい」
「駄目」
「許可を得たと言っても?」
ヨキネンは、空いた左手を制服の尻ポケットに突っ込む。変に折れ曲がった手紙を取り出すと、後ろ手に突きつけてきた。封筒の中でしわだらけになった便箋には、「ヨキネンが写本の内容を知ることを許可する」と書いてある。ママの綺麗な筆記体だ。間違いない。
ママがこの教会の監督としてそう判断する理由はわからなくもない。意味不明な行動しかしない奴だけれど、判断力は十二分にある。今朝から嫌々相手をして分かった。ヨキネンは立場を偏らせない。どの発言を取っても公正公平なのだ。
もしかすると私よりヨキネンの方が、真実を見つけるのに向いているのかもしれない。いや、もしかしなくてもヨキネンに分がある。
「嫌」
「なんだ、折角昼休みを丸々潰して学園長に許可を頂いたのに。イーリスさんは意地が悪いな」
「嫌なものは嫌」
ヨキネンに許可を出したママに比べたら、私の意地の悪さなんてたかが知れている。
「それで最初の写本って何だ? 俺はそのためにイーリスさんと雑談しているんだ。できれば早く聞かせてほしい」
空気を読む気のない彼にとっては、嫌がったところで何の意味もない。もはや私の感情以外に写本のことを教えない理由はなかった。
「わかったから、マーカーで私を指すのはやめて。鬱陶しい」
手招きをすると、ヨキネンが隣の椅子に素早く腰を下ろす。その席は私の座っているところよりも出入口に近い。ひどい執念深さだ。ヨキネンは何が何でも私に手記のことを語らせたいらしかった。
「……『スズランの手記』の最初の写本は、どうやらフィーリクスさんの手で書かれたみたいなの」
本文に目を通すばかりだった私は、そのことに気づくのに時間がかかった。写本にはしっかりと書いてある。
「あとがきには、フィーリクスさんのメッセージがあった。アルマス・ヴァルコイネンの行いを、妻の想いを知ってほしい、だから書き写したって」
すると、ヨキネンは鼻から大きく息を吐きだして、長考に入る。沈黙の末に出てきたのは、子どもっぽい感想だった。
「なるほど、英雄は曲者だな。自分の英雄的な行いを、自分の手で書き写したのか」
「そういうことになるね」
「俺には恥ずかしくてできないぞ! 小胆な庶民だからな!」
彼は急に席を立って叫ぶ。お腹をはたくと、何故か私のことを鼻で笑ってから着席した。
ヨキネンの言う通り、フィーリクスが恥ずかしく思うこともあったかもしれない。妻と、妻の弟について書かれた手記なのだから、公開を躊躇ったこともあったかもしれない。けれど現に『スズランの手記』は写本になっているのだ。写本の内容をもとにノンフィクション作品として出版され、絵本や映画になって世界に広く浸透している。
「メッセージを伝える手段として必要なら、写本を記すくらいしてもおかしくない。おかしくないくらいの想いがそこにあった」
「そうだな。彼は目的があったから写本を今に遺した。大義名分とは偉大だ」
ヨキネンが片側の口角だけを上げて、にやにやと笑う。ついでに「だからフィーリクスは男の子の憧れなんだ」とサムズアップをしてみせた。
「でも、その目的のせいでアルマスさんが苦しめられているのはいただけない」
「だからこその『目的』なんじゃないか? 目的を達成すべきかどうかなんて、利点と難点の足し引きで判断できる。まあ俺の知ったことじゃないが」
持ちっぱなしだったマーカーをくるくると玩んで、ヨキネンは芝居がかった台詞を吐く。
「今のところ、イーリス記者がつける見出しはこうだ。英雄が伝えたかった『アルマス・ヴァルコイネンの行い』とは。彼の妻はどんな想いで弟と決別したのか」
「ちょっと」
ヨキネンの口を塞ごうと手を伸ばしたのに、もうそこに彼はいない。私の手を軽々と避けて椅子から立ち上がる。
「それでもって結論はこうだ。アルマス・ヴァルコイネンは良いこともたくさんしているんだから、彼ばっかり責めちゃ可哀そうよ! みんな彼の味方になって!」
壁にもたれかかったヨキネンは、自信に満ちた目線を向けてくる。
「――さながら極上のゴシップ記事じゃないか」
「ヨキネン、そういうことばっかり言うから嫌われるんじゃない?」
「自覚はあるので問題ない」
腹が立つ。ヨキネンの態度も気に入らないけれど、何より、彼にそう思わせてしまった自分が気に入らない。周りから見た今の私は、ヨキネンが演じてみせた通りなのだろう。
このままじゃ駄目だ。
「自覚があるなら、私以外の前ではやらない方がいいよ」
「イーリスさんに受け入れてもらえるなんて、これ以上のことはないな」
さて、と微笑んだヨキネンは、私へマーカーを投げつけてきた。勢いよくホワイトボードを反転させ、真っ新な面を小突いてみせる。
「聞かせてくれよイーリスさん。悲劇のヒーロー自ら書き写したっていう、その英雄譚を」
「よく目にする『スズランの手記』と大差ないけれど、それでも聞きたいなら」
ボードと向かい合うと、視界に入るのはほとんど白一色だけになる。これは途方もない道だと、改めて示されたみたいだ。
「手記はアルマス・ヴァルコイネンの姉――キエロのお馴染みの言葉ではじまる」
「今でも迷うけれど、あれが正しかった」
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