#4 身侭 Ⅲ

 それで結局、僕の行動は無駄に終わったわけだ。

 エイナル・ルンドベリーとの喧嘩は、アルマスさんの仲裁により双方怪我無く幕を閉じた。目が覚めるやいなや学校の会議室に連れていかれ、目の前で僕の父とエイナルの父が握手をする。簡単な約束を交わして、今回の喧嘩は全部水に流された。エイナルは留学という名目で転校させられ、僕はカウンセリングルームに小一時間押し込まれる。それで日常は復旧完了だ。

 向こう数年は問題など起きないのだろう。けれど、シェリルにまた接触する可能性のある彼を放置しておくのは、いささか心配だ。エイナルに正しく対処できなかった自分がほとほと嫌になる。

 今だってそうだ。僕が合理的になりきれなかったせいで、シェリルに変な気遣いをさせてしまっている。

「昨日は助けてくれてありがとね。ロラン、調子はどう?」

「問題ありません」

「そう? ほら、アルマスに思いっきり殴られてたし、お腹痛くない? あたしがあんなのに頼ったせいで」

「問題ありません」

 周囲から掛けられる挨拶を生返事であしらって、彼女は小走りになりながらついてくる。あの程度の怪我で騒いで、随分と大袈裟だ。アルマスさんとの戦闘は僕の勝手な暴走によるものだし、彼は抜かりなく手加減してくれた。何一つ問題はない。切り傷も打撲痕も、今朝確認した時にはもう消え失せていた。

 だから最初から「問題ない」と伝えているのに、シェリルは全く僕の話を聞かない。

「でも右腕も怪我してたじゃん」

 シェリルが慮ってくれることは、心の底から嬉しく思う。けれど彼女が僕に優しくしてくれるのは、彼女の生まれ持った良心と、僕が錯覚させてしまった多少の恩義がもとだ。シェリルの利にならないのは目に見えている。

 彼女の温かさに救われた身として、完全に断ち切ることで最大の謝意としよう。シェリルが僕を気にかけてくれていると気づいた時から、既に決めていたのだ。遅くなってしまったが、これ以上は引き延ばしたくない。

「キングストンさん、何も問題はありません。僕からは以上です。失礼します」

 僕は感情が昂れば魔法を乱発し、果てには堕ちて暴れる化け物。シェリルに対して傍にいてほしいと願うことは、恩を仇で返すと同義だ。

 それなのに、シェリルは懲りもせず僕を呼び止める。

「ねえ待って」

「他に何か気になることでも? 手短にお願いします」

「その、今までごめん」

 まるで意味が分からない。

「何故キングストンさんが僕に頭を下げるんですか?」

「あたしがロランにひどいことしたから。――話したいからちょっとこっち来て」

 混乱する僕をよそに、シェリルは僕を廊下の端へ誘導しようとしている。僕にはその理由が理解できなかった。ひどいことをされたなんて、心当たりは一切ない。むしろ僕がシェリルを振り回しているのであって、そんな自責の言葉は状況を表すのに相応しくない。一つも納得できないのに、シェリルの言いなりにはなれない。

 けれどシェリルは容赦がなくて、拒否しても腕を強く引っ張ってくる。

 瞬間――ふと。

『また暴れたの? やっぱりあなたはおかしいのね。普通じゃない』

 言葉が浮かぶ。

 昨日、帰宅すると突然姿を現した母。できるなら会いたくなかった――あの人はそう言ったが、僕だって会いたくなかった。こそぎ落としても剥がれない台詞は、さっきまでうまく鳴りを潜めていたはずだ。なのに、脳内では嫌味なほど精細に、あの人の言葉が蘇る。

 思い出すな。あの人の押しつけがましさとシェリルのお節介は、根本から違う。否定ではなく肯定だ。シェリルは僕を認めたうえで気遣ってくれている。それくらい分かっている。

 けれど僕の頭は、八つ当たりじみた返答しか考え出せなくなっていた。

「僕はキングストンさんに『ひどいこと』とやらをされた覚えはありませんよ。にも理解できるように説明してください」

 勢いに任せて頭をかきむしっても、不快感は治まらない。いつかの助言の通りに深く息を吐こうとする理性と、浅い呼吸しか受け付けてくれない体。板挟みになって余計に苛立つ。

 一刻も早くこの場から離れたい。またシェリルに迷惑をかける。

「ねえ、なんか言われたの? 普通じゃないなんて悲しいこと言わないでよ」

 やっぱりだ。シェリルはどこまでも聡くて、そして優しい。だからこそ何も打ち明けられない。僕の抱える面倒事に巻き込むなんて、もううんざりだ。

「キングストンさんには関係のないことです」

 すると何を思ったのか、シェリルは声を低くして僕に詫びる。

「ごめん、あたしのせいだよね。ロランが嫌なことはもうしないから」

 シェリルは一体何に対して謝罪している? 理解できない。僕を落ち着けるための手法か何かだろうか。いや、僕の足りない言葉で、何か勘違いをさせたのか?

 駄目だ。分からない。分からない、分からない分からない分からない。

 半ば無意識に首を横に振って、それで飛びかけた意識が戻ったことに肝を冷やす。眼球が熱を持っている感覚が、徐々に全身に拡がっていった。息が苦しくて、自ずと顎が上がる。平静を保つなんて器用なことはできない。原因は分かっていても、僕の力ではもうどうにもならないのだ。

 足掻いても足掻いても、僕は母の呪いを切り離せない。僕はおかしいし、僕といると幸せになれないし、誰もが僕を置き去りにする。

 一瞬だけシェリルと目が合った。覗き込むような視線は、今の僕には受け止めきれない。こんな姿を見てほしくない。どうせシェリルだって、この人ならざる紫色の虹彩に恐怖を抱いているのだ。

 逃げてしまいたい。

「ちょっと! ねえ、ほんとごめんって! 待って!」

「だから謝る必要はないって言っているだろ。シェリルが謝罪する動機も理由も僕には思い当たらない。僕が不機嫌に見えるのは諒解した。けれどシェリルの気遣いは要らない。はっきり言って不快だ」

 放っておいてもらわないと、いずれ僕が破綻する。多少傷つけてもいい、今はシェリルから離れたい。母と混同したくない。けれどシェリルを振り切ることはできない。人ごみをかき分けて探したところで、活路なんてどこにもなかった。

 強引に道を押し開きながら、いつにも増して甲高い声でシェリルが主張する。

「何それ。人が心配するのをやめさせる権利でもあるっていうの?」

 あれだけ酷く突き放したのに、シェリルはまだ諦めないのか。その善意は有り難い。救われるときもある。でも今は何も聞きたくない。掻き乱されたくない。

「当り前だよ。シェリルの領分じゃないんだから」

「ロランはあたしのこと嫌いなの? じゃあそうやって言ってよ」

 何故その話に飛ぶ。嫌いじゃない。嫌いなはずがない。好ましく思っているからこそ、僕はシェリルに手を掛けさせたくない。

「そんな話はしていない! 昨日のことはそのうち自分で飲み込めるようになるから、態々シェリルが気を遣う必要はない。ただそれだけだって」

 すると、シェリルは呟く。

「いっつも引きずってるくせに」

「引きずっている? 僕が?」

「うん」

 だから何だ。僕がどんな状態にあろうと、それはすべて僕の責任だ。過去を引きずっていようがいまいが、とやかく言うのは見当違いも甚だしい。

「馬鹿な話だ」

「馬鹿はお前だよ」

 もはや売り言葉に買い言葉だ。僕が訴えかけてもシェリルには通じない。

「わかった、わかったもう昨日のことは聞かない。ロランに自覚がなくても、あたしはひどいことをしたの。だからそのことについて話したいの。お願いだから来て」

 嫌だ。意味のない謝罪なんて要らない。もう構わないでほしい。僕は何も望んでいない。

「お断りします。ホームルームに遅れますから」

「じゃあいい。今ここで言うから」

 無理やり制止されて、仕方なく足を止める。僕のことなんてまるで無視だ。本当に我が儘で――もう我慢ならない。

「あたしはね、ロランがいじめられているのを知ってた。助けられるはずだったのに助けなかったの。これはあたしの罪。本当にごめんなさい」

「シェリル。シェリルが責任を感じるのは間違っている。すべては僕の持つ攻撃誘発性ヴァルネラビリティが招いたことだ。謝罪はいらない」

 そんなもの、僕に受け付ける義理はない。いじめ? すべて僕の責任だ。

「なんでよ。傍観していた側にだって責任はある。いじめを止めなかったのは、いじめに加担したのと一緒なの。あたしはそれをした。あたしにも責任はあるの!」

 腕を握りしめるシェリルは、僕が手を離すように言ったところで聞き入れてはくれないのだろう――であれば。

「僕は、他人が与えようとしてくれる救いなんて信じない」

 人様の気分、そんな流動的でひどく不安定なものに幻想を抱いて何になる。いずれ僕を置き去りにする存在に縋るなんて、僕には無理だ。「あなたのため」なんてうそぶいて、つまるところそれは自己都合じゃないか。

 流石に僕の気持ちを汲んでくれたようで、シェリルは僕を解放した。彼女の言葉を頭から追い出したくて、いつものように教室の隅に閉じこもる。頭上を行き交う喋り声や物音は耳を塞ぎたくなるほど煩い。しかしそれが程よく雑念を駆逐していった。騒音に身を委ねてしばらくすると、ポケットの中の携帯端末が振動する。

 表示されたのは、ジェイという文字列だ。

  

 ***

 これを惨状と呼ばずして何というのか、僕は知らない。

 送られてきたメッセージには「昼休みに魔素学を教えてほしい」とだけ書かれていた。断る理由もないし、いい気分転換になる。早めに軽食を摂って図書館の談話スペースへと足を運んだ。

 呼んだのはジェイだ。だから僕は当然のように僕は考えた。次の試験で課される問題へのアプローチについて、楽しく論議しようということだろうと。考えてみれば、朝の出来事を払拭できると少々期待し過ぎていたかもしれない。

 遠目で見た時から悪い予感はしていたが、前にしてみるとその惨憺さんたんたる出来は筆舌に尽くし難い。テーブルの上に広げられていたのは、まるで新品のような教科書と、空疎な紙面。気持ちばかりの数字と記号が記述されているが、ただの支離滅裂な羅列だ。

「ジェイ。これは……魔素学?」

「魔素学のつもりだ。ああ、ハーグナウアーの考えてることは分かってる。でも誰がなんと言おうと、これは魔素学基礎の課題だ」

「よくここに進学できましたね」

 するとジェイは、はっきりした黒の眉尻を面白いくらい下げてみせる。

「俺だってここに来るつもりじゃなかったんだよ。学力は人並みだって自信を持って言える。それなのに」

 この高校に特例進学するのは簡単にできることじゃない。可能性があるとすれば、一類魔法保持者か。

「試験免除ですね。ジェイはそれほどの魔法を使えるということですか」

 彼は首肯してから辺りを見回す。何をするのかと思えば、近くの席で書き物をしていた女子を指さした。続いて時計を確認する。

「彼女は安定してそうだな。――あと九秒であの子の端末が鳴る」

 ジェイの言う通り文字盤の上で九秒が過ぎたときだ。着信音を切り忘れたのか、個性のないポップスが流れる。それに驚いた女子生徒は慌てて端末を耳に当て、バッグを持ってその場を去った。

「予言ですか」

「そ。たまに変な映像が見えるとは思っていたけど、どうやらそれが俺だけに見えてるものらしくて。十四のとき冗談半分に親に言ったら、スーツの奴が大勢家に押しかけてきたよ。で、ここに入学。バスケに人生極振りしようと思ってたんだけどな」

 教科書を指ではじいたジェイは、しかし不満そうには見えなかった。

「それはまた、妙な縁ですね」

 僕が呟くと、何が面白いのかジェイは破顔する。

「言い方! 古臭さすぎんだろ! でもそうだな……良い縁だ。嫌いじゃない。バスケ部は死ぬほど弱いけどな」

 古臭いとは心外だ。常用の域だろうに。けれど不思議と悪い心地はしない。

「分かりました。一通り問題を解き終わるまで、僕はここで見ていることにします」

「は? おい、待て、教えろよ! 退部がかかってんだよ!」

「嫌です」

 ぶつくさとひとしきり文句を言い終えると、ジェイは大人しくなって教科書を開く。問題用紙と例題の間を過剰に行き来する指は、その動きさえも要領を得ない。

「魔素が密度ρで一様に分布する半径1の球体、の……魔力場? 何だこのトンデモな状況」

「四則演算さえできれば何とかなりますよ」

「ρを4π×rの二乗で割ればいいんだろ? そんな感じの公式あったよな」

「違います。問題の指示通り途中式を考えてください」

 確かにこの様子では、日頃の授業なんて意味不明だろう。よく進級できたものだ。予言の腕を買われているのかもしれないが、こんなことならいっそ留年させてあげた方がジェイのためになる。

「あー、んー、そうだな。わかんね」

 ドラゴンに成ってから一切感じることのなかった頭痛が、今はじめて襲ってきた気がする。こんな調子では、問題を解くことなど夢のまた夢だ。

「まず数学から教えましょうか。あまりにもひどい」

「だよな。そうなんだよな。よし、頼む」

 地道に説明していくと、ジェイは想定より飲み込みが早かった。試験まで毎日勉強に付き合うと約束して、また放課後に図書室に集まる。

「――タイム! いったん休憩!」

 昼休みから今まで取り組んでいた課題の一問目を解き終えると、ジェイはペンを投げ出して天井を仰いだ。理解度も、おおむね良しと言えるくらいにはなった――一問目に関しては。

 盛大にため息を吐き出して元の姿勢に戻ったジェイは、テーブルに肘をつく。こちらを凝視して、何を考えているのだろう。

「そういやさ、ハーグナウアーは何でまたダサい服着てんだ?」

 彼は痛いところを突く。できれば触れてほしくなかった話題だ。

「気まぐれです」

「マジで? お前が気まぐれなんて言うと思ってなかったわ」

 ジェイは過剰にのけぞって驚く。無理もない、彼がそんな反応をするのは当然のことだ。我ながら嘘の質が低くてかなわない。眼鏡を外してもどこか落ち着かず、結局苦笑するしかなかった。

 そんな僕に向かってジェイが発したのは、飾り気も何もない言葉だ。

「今朝はシェリルと思いっきり喧嘩してたよな。話そうぜ。俺、お前の話聞くよ?」

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