#2 過渡 Ⅰ
僕は正直、シェリルのことが苦手だ。
もちろん、嫌いではない。大好きと面と向かって言うことができるくらいには好意を抱いている。僕は嘘をつくことにメリットを感じない性質だ。そこに偽りは何一つない。
彼女のことが何故好きなのか。答えは単純明快だ。
彼女が最後に行き着く結論が、必ず合理的であるから。友人関係も、学校内外でのあらゆる活動も。彼女の行動はいつだって
かくいう僕は、魔法学以外のこととなると常に力率ゼロだ。挨拶をすれば鞄をひったくられて窓から投げ捨てられる。家の前を歩いていると、近所の子どもたちからわざとらしくボールをぶつけられる。やることなすこと、大体が意図しない方へ向かっていくのだから――ここまでくると、まあ慣れる。
そんなわけで、合理を目指し合理に愛されない僕は、合理の存在であるシェリルが好きなのだ。彼女が抱える唯一の非合理といえば、僕に寄り添おうとしてくれていることくらいなものである。これは人間として驚異的な水準だ。
裏を返せば、僕を好こうとしているシェリルは苦手である、ということにもなる。
「ねぇ、保留って何?」
「保留、はい保留です。ちょっと、一旦、いや本当にほんの少しでいいので考える時間を頂きたいというか……ごめんなさい」
僕は何故「保留」などと口走ったのだろう。とうに心は決まっているのだから、さっさと断ってしまえばいいのに。
僕はいまだに痛みの引かない左頬を押さえて、シェリルの問いに答える。ドラゴンの治癒力をもってしても熱が残ったままで、患部が大きく脈打つ感覚がある。
だが、それはさしたることじゃない。この場合、保留について僕が説得力のある論を展開できるかどうかが問題なのである。
ああ、一応付け足しておこう。
僕は断じてマゾヒストではないし、蹴られたりはたかれたりすることに快楽は感じない。相応に不快である。しかしシェリルの取るそれらの行動が苦手なわけではない。それらは、彼女が望む展開を効率よく引き出すための、ただの一手段であるからだ。行為が合理であるからには、僕が彼女を嫌う理由はない。
「へえ、考えたいことって何?」
「考えたいことですか、えっと、あー、その、衝動によって、シェリルの判断基準にバイアスがかかっていないかを確かめたいと思いまして。簡単に申しますと、しばらくの時間を空けてなお――」
「黙って」
シェリルは怒っているのかもしれない。ただし怒っているのかは正直分からない。文脈上、これは女性が憤怒する状況と酷似しているように思われる。だがシェリルは典型例からは外れていて、ヒステリックに怒鳴る様子はまるでない。これでは全く判別がつかない。
ぐっしょり濡れた服をさっさと着替えたいのだが、怒っているのかもしれないシェリルを放置するわけにもいかない。とりあえず僕は足を崩さないまま座って、シェリルの意図を探ることにした。
「そんなにあたしのこと嫌い? バイアス? バイアスが何なの?」
「えー、バイアスとはですね、僕がシェリル――」
「あんたには聞いてないの。いいから黙って」
シェリルはまた僕の言葉を遮った。では僕は、何も口に出さない方が良いのだろう。
「で? なんで保留なんて言ったの? イエスかノーの二択で充分じゃないの?」
僕には聞いていないとのお達しだったので、沈黙してシェリルの表情をうかがう。するとシェリルは折りたたんだ僕の足を横合いから蹴って、僕のネクタイをひねり上げる。
「どうしてここで黙るわけ?」
「喋っていいの?」
「当たり前でしょ。何か言えよ」
「じゃあ……」
そのとき、銀髪の男性が手を叩いた。僕の暴走を止めてくれた恩人である。
彼は額に手を当てながらこちらに歩み寄ってくる。
「おい若造ども。いい加減にしないか」
僕だっていい加減にしたい。ただ、この場の主導権を握っているのはシェリルだ。僕はシェリルにすべてを一任する目線を送った。
彼の方を振り返ったシェリルは頬を膨らませる。腕を組んで駄々をこねた。
「だってだって、あれは絶対に告白旗が乱立してた! ヤマト・エンパイアのマンガで知ったけど、ああいうときは『旗が立った』って言うらしいの。なのに保留なんて!」
乱立など、おかしなことを言う。旗とはつまり
「フラグは乱立しないよ。ステータスレジスタに仮に告白フラグがあるとして、告白の発生を示す場合、有無の二状態を表現できればいいんだから、一が一つ立つだけで終わりだよ。もしハーフ告白フラグとかあるんだったら笑っちゃうけどね」
するとシェリルが髪の毛に遠心力をかけて、勢いよくこちらを見る。眉間に皺が寄っていることから推察するに、シェリルはすこぶる機嫌が悪いようだ。居心地が悪いので僕は男性の方へ視線を移す。
「レジスタに何が保存されているかなんて知らんよ。そんなことはいいから早く逃げるぞ。タイムリミットまであと二分半だ。軍の奴らに見つかりたくはないだろう?」
彼が携帯端末を掲げて画面を見せる。刻一刻と減っていく数字は、どうやら会話から察するに、次に竜災対策軍が来るまでの時間を示しているらしい。彼はどこからともなく黒いキャップとサングラスを取り出して、身に着ける。途端、人相が把握しづらくなった。原理は不明だが、彼が男であることくらいしか分からない。逃げる準備だろうか。
だがシェリルは頑なだ。
「やだ! ロランが告白してくれるまでここにいる! アルマスが何を言っても、あたしは動かないからね!」
彼の名はアルマスさんというらしい。だが別段驚くことはない。この街はかのドラゴンにとってホームタウンなのだから、ショッピングモールにいるくらい普通のことだろう。
シェリルの我儘に彼は大きく息を吐き出して、僕の方を見た。
「ああはいはい。ロラン君、ちょっとそこの彼女から外套受け取って着て。フードを被るんだ。そうしたら彼女抱えてついてきて」
「わかりました。シェリル、ちょっとごめんね」
僕はアルマスさんの言葉に従い、絶対離さないとでも言いたげなシェリルから、外套をむしり取る。次いで外套を羽織り、フードを目深に被った。少々シェリルの香水の香りが臭いけれど、気にしている暇はない。僕はシェリルの背中と太腿に腕を回す。ドラゴンに成ってから多少は力が付いたのかもしれないが、やはり重いものは重い。
「ふっ……ん、重い」
その瞬間首にシェリルの腕が絡みついてきて、恐るべき力で気道を圧迫する。
何故このような状況に至ったのか――理由はわからないが、とにかく苦しい。まるで
「や、やめ……て!」
僕が悲鳴を上げるとシェリルは腕を緩めた。途端咳と呼吸が入り乱れ、僕は抱きかかえていたシェリルの片足を落とす。それでもシェリルは静かなままだ。僕の手に再び腿を引っかけて、顎でアルマスさんの方を指す。このままついていけとでも言いたいのだろうか。
シェリルの仰せの通り、僕は彼に追従した。
「あの、アルマスさん、とお呼びしても?」
「もう何でもいいよ」
「ではそのように」
彼がアルマス・ヴァルコイネンであるという証明は一朝一夕には完了されそうにない。が、だからといって他の誰かであるという予想もし難い。便宜上、彼のことはアルマスさんと呼ぶことにしよう。
彼は破片になった壁や、めくれ上がった床のタイルを軽々と避けながら出口へ向かう。もちろん出口側の壁を構成していたガラスなど今は存在しておらず、フレームだけで素通し状態である。僕らは十全に動かなくなった、枠だけの自動ドアをくぐって、駐車場の方へと歩いた。
外に出ると、大混乱故にか駐車場は混雑していて、まだそれなりの数の人が残っていた。竜災対策軍のスタッフが車を置いて一旦逃げるように説得しているが、人手が足りていない。順路上ではちょっとした渋滞が起きている。
「ロラン君、一旦俺の家へ来い。堕ちたからには、知っておかなければならないことが幾つかある。腰を据えて話そう。それに君を、そのずぶ濡れの格好で家に帰すわけにもいかないしな」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えてお邪魔します」
僕らは人や車の間を縫って駐車場の出口の方へ進む。途中何度も対策軍のスタッフとすれ違ったが、一瞬しかめっ面を向けられるだけで、一度もつかまることはなかい。
そのままショッピングモールの敷地を出るのだろうか。徐々に限界に近付きつつある両腕が不安だ。できれば休憩するか、それが駄目なら代わりにシェリルを運んではくれないだろうか。
が、幸いにも彼は一台の車の前で止まった。ワインレッドの光沢を放つスポーツカーだ。彼はポケットから鍵を出し運転席へ乗り込む。悪目立ちしそうな車種だが、対策軍は彼の魔法のお蔭か、最後まで一切口出ししてこなかった。
僕らは後部座席に乗り込み、ひとときのドライブに身を委ねる。
そうして辿り着いたのは、かの邪悪な黒いドラゴンが封印されているという地、『彼の者の領域』――ではない。
少し広めの一軒家だ。白い箱に平たい黒い箱が乗ったような、最近流行りのデザインである。
彼はポストを確認し、玄関の鍵を開け、ごくありきたりな手順を踏んで家に入っていく。「かの伝説上のドラゴンの家ともなれば、恐ろしいほどのギミックに溢れているのではないか」と内心期待してしまった自分が、少し恥ずかしい。彼の家は現段階においては普通の家と表現できる。僕の家のように、魔法的な罠や仕掛けはない。
「やっぱりアルマス・ヴァルコイネンじゃないのかな?」
シェリルも不安になってきたのか、そんな疑問を漏らす。
しかしどうやら僕らは早計が過ぎたようだ。
彼はふ、と苦笑して、玄関に上がるよう促す。
「靴を脱げ。で、それを持って上がれ。
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