#2 過渡 Ⅱ

 一見無邪気な笑みだが、その言葉選びは非凡が過ぎる。

「俺の家は二階のベランダにある」

 僕の真正面で、脱いだショートブーツを手にぶら下げている銀髪の青年。彼はいたずらっぽく口角を上げると、手招きをした。僕は隣にいるシェリルと顔を見合わせる。

「ロラン。ベランダって、あのベランダだよね?」

「そうだね。建造物の外縁に設置され、多くの場合柵や」

「そこまでは聞いてない」

 僕の真面目な返答はシェリルにばっさり切り落とされる。なら初めから僕に聞かなければいいのに。

「どうしたんだ? 来ないのか?」

「行く行く! ちょっと待って!」

 シェリルはおもむろに僕の肩に手を置いた。握りつぶされそうなくらいがっちり掴まれたので、僕は観念して手すりになりきることに徹する。シェリルは器用にピンヒールのストラップを片手で外して、スリッパに足をおろした。僕も靴を脱いでお邪魔する。

「家に上がるのに靴を脱ぐなんて、珍しいですね」

「ロラン君はそう言うが、昔はこんなもんだったさ。今は、日本Japani以外ではそうお目にかかれはしないだろうがな」

 ヤパニ。聞いたことのない響きだ。会話の流れからすれば地名なのだろうが、僕にはどこを指す名詞なのか、皆目見当もつかない。

「ヤパニって何? あたし初耳」

 シェリルは僕に先行して疑問を口にする。するとアルマスさんは納得したような相槌を打って言い直した。

「ヤマト・エンパイアだよ。厳密には、現在の中央州のみが日本Japaniだ。その他の国々は、文明が進んで靴を脱がなくなった。大回帰直後は、家の中で靴を履かなくてはならない理由もできたし。必然的に過去の文化は廃れたな」

 アルマスさんは、「俺には靴底を洗ったり拭いたりして家に上がる風習が理解できん」と悪態をつく。見た目も言動も若々しいが、こういった文句はいかにも老人らしい。彼が本当にアルマス・ヴァルコイネンだというのなら、齢およそ千三百。十二分に老人である。アルマス・ヴァルコイネンでなかったとしても、ドラゴンなら見た目以上に年を重ねている可能性は大きい。

 彼は階段を上がり、洒落た本棚が並ぶ部屋へ僕らを案内する。春の日差しが差し込む開放的なつくりだ。ベランダには椅子とカフェテーブルが置いてあり、休日を過ごすにはぴったりの空間だ。

 だからこそ、二階のベランダに家がありそうには到底思えない。

 しかしアルマスさんの挙動に淀みは見受けられない。本棚を指でなぞり、赤褐色の一冊を手に取る。金と銀でできた指輪を中指にはめると、彼はその手を本の表紙に重ねた。

「何を――」

 瞬間、室内がフラッシュする。光源を探して窓の外を見やると、のどかなベランダはもうそこにはなかった。針葉樹の立ち並ぶ、雪に覆われた森が出現する。奥には溶け込むような白の豪邸が鎮座していた。

 僕の知る常識の域から、明らかに逸脱している。

 空間を歪めるような魔法はロストテクノロジーだ。大回帰以降この手の魔法は失われ、再現不可能なはずである。僕の父の所属する学会が最前線をゆく分野だが、空間歪曲ができたという話は一切聞かない。

 ただし、『三大古竜』と呼ばれる、大回帰を生き延びたドラゴンであれば話は別だ。

 彼らだけは古代の魔法を知り、容易く扱う。しかもその三人のドラゴンは、女性が二人、男性一人という構成。もちろん男性一人とはアルマス・ヴァルコイネンのことだ。

「ねえロラン。今の時期、街の中はあんまり雪降らないよね」

「うん。『スノードーム』が天気を調整しているから、市の中心部では降ってないはず」

「ところで、アルマス・ヴァルコイネンが封印されているっていう『彼の者の領域』ってさ、市の中心部なのに雪降ってるイメージない?」

「イメージではなく事実だよ」

 僕らがアルマス・ヴァルコイネンと仮称する彼は、もしかすると本当にアルマス・ヴァルコイネンなのかもしれない。

 アルマスさんは窓の鍵を開けて、ベランダだった場所に自分の靴を落とす。石畳の上に薄く積もった雪の粒が、衝撃で宙を舞った。見る限りあれは本物の雪だ。自分の足で踏みだして確認しても、柔らかく潰れる雪の感触は実物のそれでしかない。びしょ濡れであることを差し引いても非常に寒いし、少なくとも僕の知る春の陽気ではない。

 おまけに携帯端末で位置情報を確認すると、ピンが立っているのは『彼の者の領域』だ。シェリルと二人でお互いの端末の画面を覗き込んで確認したから、勘違いである可能性は低い。

「ロラン。あたし、さっき言ったこと訂正する。絶対アルマス・ヴァルコイネンだって」

「ショッピングモールでは確信したような口ぶりだったのに、まだ疑っていたのか?」

 彼の言い草が不穏だ。アルマスさんはいかにも既に迷惑を被っていそうである。

 思い返してみれば、僕が堕ちて我を失っている間シェリルと彼の間に何があったのか、僕はまるで知らない。アルマスさんが無条件で助けようとしてくれたのか、シェリルが彼をとっ捕まえて何か吹っ掛けたのか。後者だと考えると恐ろしいが、シェリルならやりかねない。僕を抑え込めるほどのドラゴン相手でも物怖じしなさそうである。現に、僕の傍にいようだなんて奇特な提案をするくらい、シェリルは胆が据わっている。僕はまた堕ちるかもしれないのに。

 そんな僕の心配をよそに、シェリルは一切畏まる様子はない。

「うん。ごめんね。でも今は疑ってないよ」

 シェリルの正直な言葉に、彼は小さく笑い声を漏らした。そして三秒ほどの間をあけると、こちらへ振り返る。

「そうか。黙秘していても面倒なだけだし――では改めて」

 彼は僕らと目を合わせた。

「アルマス・ヴァルコイネンだ。、よろしく」

 もうその言葉を疑えるほどの隙はない。古代魔法の使い手であり、銀髪碧眼の男性である。彼はおそらく、本物の『邪悪なドラゴン』なのだ。

「ふーん、今後ともね。よろしく」

 間髪入れず返事をしたのはシェリルだ。彼女にしては珍しく、声が低めだ。彼がアルマス・ヴァルコイネンと名乗ったことに驚いているのだろうか。僕にはシェリルの感性がよく分からない。とはいえ学園女王と名高い彼女は、繕うのが上手い。シェリルはすぐに明るい声色に戻って自己紹介をした。

「あたし、シェリル・キングストン。ラストネームはすぐ変わるだろうけど。変わった後のも教えとくね。あたし、シェリル・アグノエル」

「は?」

 彼らはフリーズした僕をよそに、握手を交わす。

 彼は何故シェリルの自己紹介に疑問を呈さない?

 シェリルもシェリルで、ついさっき保留と言われたにもかかわらず、たちの悪い冗談で先手を打ってくるとは。こんな無理やりな攻撃に流されてなどやるものか。僕だって、考えがあって彼女の申し出を断ろうとしているのだ。この物言いは断じて許容できるものではない。

「僕はローレント・D・ハーグナウアーです。正しくはロラン・D・アグノエルですが、どちらで呼んでいただいても構いません。よろしくお願いします」

「……ほお。ルーツはフランスRanskaか?」

「それがフランスFranceという意味を持つ語ならその通りです。それと、一つ訂正させてください。彼女のラストネームが近いうちに変わる可能性があるとして、アグノエルになるのは著しく低い確率であり、また僕の家系のアグノエルとは関係のな――」

 途端、横合いから鋭く突き出される脚。肋骨の隙間に圧を感じたと思えば、それが強烈に押し込まれる。

 ――強い。

 僕はこれでも一応ドラゴンだ。ものを認知する速さは、人間だったころとは比べ物にならない。僕は蹴りを繰り出したシェリルを見据え、取るべき行動を定めていく。

 華やかに金髪を躍らせ、重心を大きくずらしたシェリル。彼女のバランスを崩さないよう注意を払いながら、僕は攻撃を避けるべく身体をひねった。

 しかしシェリルが一枚上だ。僕の回避行動を察知した彼女は的確に足の位置をずらし、体重と勢いをすべてピンヒールの一点に乗せる。

 僕の負けだ。僕は蹴りの威力に抗えず石畳の上に倒れ込む。

「おい根暗伊達眼鏡。もう一回言ってみろよ」

「いっ、た……。なんで態々蹴るんだよ」

 激痛にも程がある。今日一番痛いかもしれない。アルマスさんの攻撃の方がもう少し優しかった。服を捲り上げて見てみれば、見事に丸い内出血ができている。既にぼろ雑巾と化していた服だが、さらに土の汚れまでついたし。何から何まで最悪だ。

「シェリル。今回ばかりは言わせてもらうけど、一緒にいていいか否かという問いに対して僕が肯定的な意見を言うことはありえない。はたかれようが蹴られようが、この件だけは譲れない」

「何でよ! じゃあその理由を教えてよ!」

「僕が堕ちたドラゴンだからだよ。堕ちたドラゴンはまた暴れる可能性が高く、近くにいるのは非常に危ない。だから、僕の傍にいるのは危険極まりないことなんだ」

 周囲に迷惑を掛けようというつもりはない。ならば、自分で力を抑えきれない以上、周囲から距離を取るより他ない。シェリルは僕が修羅場に割り込んだことに恩を感じているみたいだし、それで僕のことを好く思ってくれているのかもしれない。だが、それならば余計、シェリルには僕から離れていてほしい。確率からして、それが最も安全だ。

「そんなの関係ないでしょ! また暴れ出しそうになってもあたしが連れ戻す。そうしたら別に危なくもなんともないから!」

「我が儘ばかりでどうにかなる話じゃないよ。優先事項を間違えちゃいけない」

「だからあたしは、優先事項のとおりに判断してるってば!」

 その時、アルマスさんが手を叩いて制止する。

「痴話げんかをするのは一向にかまわないが、一旦落ち着け。何も噛み合ってないぞ」

 全くもってその通りだ。このまま言葉の応酬を繰り返しても有意義な議論にはならない。仕切り直して、僕の論を認めさせる土壌を整えよう。

 今回限りは僕の方が正しいのだ。僕を好こうとするシェリルは、明らかに合理性を欠いている。それではシェリルのためにならない。彼女の人生は、穏やかで、明るくて、安全でなければならないのだ。そのためには、彼女が合理性を取り戻すことが必要なのだ。

 だから僕は、シェリルの傍にいるなんて道は選ばない。

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