第25話

晴れ、とは言い難い少し陽が出てるかくらいの曇り空だった。気温は今のところ丁度良く、お昼過ぎまでは素晴らしい体育祭日和と言える。午後には男女混合リレーが控えている。そして前日であった昨日、そのリレーについてとんでもない事実が明かされた。


「アンカーは丸々一周だってな!」

そう。通常は半周、つまり百メートルを走るのだが何故かアンカーは一周走るらしい。俊哉がそれを嬉しそうに言ってくるのはほとんど茶化しだ。昨日そのアンカーが一周走るという事を知ったのはたまたまプログラムを見ていた本田が気付いたからだ。種目決めの際になぜ気が付かなかったのかなど散々責められたが、城島の「まっ走んのこいつだし良いんじゃね?」の心無い一言で解決してしまった。ただこのまま知らなければ半周で普通に足を止め、クラスから大ブーイングだったに違いない。救われた安堵と増していく不安にただ肩を落とすしかなかった。担任の大杉先生が手を叩き全員を注目させた。開会前は各クラス、校庭のそれぞれ指定位置に椅子を並べており、そこで担任によるホームルームが行われていた。


「おはよう。今日は君達の最後の体育祭です。ずっと見てきたけどまあ、えー‥俺は勝って終わりたいなあ」

「当たり前でしょうよ」と本田が応じる。

「よっしゃ勝つぞー!」

その一言に「おー!」と元気の良い返事が飛んだ。各クラス、それとなく同じように気合いを入れており、この学校の生徒の行事に対する取り組みの姿勢に改めて感心した。

「って俺は校長か!」

「な、何が?」と横にいた水嶋さんに不審がられる始末だ。思わず飛び出た心の声を誤魔化し、水嶋さんには「頑張りましょう」と棒読みで伝えておいた。


開会式の途中、雲がだんだんと掃けて下から青空が覗き始めた。急な日差しが話をしている校長の顔を照らし、眩しいのか凄いしかめ面で声のトーンは変わらず話し続ける校長に対し、あちこちで笑いを耐える声が聞こえていた。正直、開会式での話が頭にほとんど入って来ないのは「アンカー」の大役が全てだった。これは「踏み出す」という自ら掲げた目標に結び付くのか、という疑問まで生じていた。しかし踏み出してきたからこそ、巡り巡って訪れた機会だと思い込む事にした。それにここまで今日の体育祭に思い詰めている人もいないだろう。大杉先生が言ってたように最後の体育祭を少しでも楽しめたら、そう思うように気持ちを少し切り替えてみようと思った。


「あの‥何か?」

聞こえたその声に顔を上げると今まで一度も話をした事の無い生徒が目の前に立っていた。

「あ、三年生ってあっちじゃあ‥」

周りを見ると二年生に囲まれていた。開会式が終わり無意識に歩いて座った椅子は二年生のクラスの椅子だったようだ。


「怖いんだけど」などと不審者に向けた言葉が背中に刺さるも振り返らず、練習で教わった通りに腕をしっかり振って自分のクラスの方へと走った。


「お前向こうで何してたん?」 

自分が一番知りたい答えだ。


「さ、出番だ太一」とわざとらしくこちらを見ながら俊哉と太一が二人三脚の準備をしていた。

「裏切りコンビ。一位とれよな」

「裏切りなんて酷いなあ。そもそも二人三脚は二人でやる競技だぞ?」

いやらしい笑顔を見せながら競技者が集まる方へと向かって行った。転んでしまえと二人の背中に悪い念を目一杯に送った。校庭には音楽が流れ始め、いよいよ体育祭が幕を開けた。俊哉と太一の出番は最後の方であり見るにはまだ時間があるため、校内のトイレへと向かった。流石に人もいない校内は静かで、同じくトイレに用がある生徒しかすれ違わなかった。

トイレを済ました後、ふとタオルが無い事に気が付き自分の教室へと向かった。小走りで廊下を進んでいたが、自然と足が止まった。何やら話し声が聞こえてきたからだ。声は教室の中から聞こえてきたため、足を忍ばせて近寄り、中に入っても大丈夫な状況か確認するために耳をすませた。


「前から好きだった」

教室の扉を破りそうな程に驚いたが、間一髪でお得意の身体の硬直に成功した。初めて体の硬直が役に立った瞬間だった。


「気付いてたかもしれないけど‥付き合って欲しい」

教室の中で繰り広げられている青春に興味感心が上回り、扉の前から動けなくなっていた。何故か関係無い自分の鼓動が高鳴っていて、酸素さえ薄く感じていた。


「ありがとう。凄い嬉しいけどー‥返事は‥後でも良いかな?」

「うん」


間違いなく宮間さんの声だった。宮間さんは確かに男子に好かれる人だ。こんな事があっても何もおかしくはない。しかし誰なのか相手が気になる。それもどこかで聞いた声だ。


「じゃあ、体育祭頑張ろう」

「うん。負けないよ」

負けないよ、とはつまり同じクラスの人間ではない。となれば他のクラスの人間。推理をしている脳が途端に緊急警報を鳴らした。教室内の青春に夢中になり過ぎて自分の身を隠す事をすっかり忘れていた。話が終わり中から廊下に出てくる事を全く想定していなかった。周りに隠れる所など無い、見つかればモラルの無い行為が明るみになり宮間さんに申し訳ない。


「うわ‥」


足音が聞こえ、廊下に出ようとしているのが分かった。天性の閃きかは不明だが、ここで一つ案が生まれた。と言うよりこれしか方法は無い。二人が出ようとしているのは教室前方、つまり黒板側の扉だ。自分が今いるのは教室後方の扉の前、二人とは反対側にいる。一か八かの賭けだが、前方の扉が開き二人が廊下に出る瞬間に、自分も後方の扉を開けて素早く教室内へと入り込む。お互いに絶妙なタイミングですれ違えばきっと気付かれないで済むに違いない。


「よし」

扉の引手に手を掛け、息を殺し耳をすませた。前方の教室の扉に手を掛けたのだろう。音が少し聞こえた。


ガラガラ


扉が開かれたと同時にこちらの扉も開いた。まさに互いにぴったりと音が合い、同時に扉が開かれたと言える。そして前方の扉から体が見えた瞬間にさっと教室に入り込み、最後も抜かり無く相手に合わせてそっと扉を閉めた。この瞬間、今体育祭が終わっても良いと思えるような達成感と感動に包まれていた。我慢していた呼吸を元に戻し、ゆっくりと酸素を味わった。人間、酸素が無ければ生きていけないという事がよく理解できた。タオルを取り校庭に戻り、俊哉と太一の応援に専念しようと屈んでいた姿勢を戻した。


「何それなんか楽しそう!」

「ほわあああ!」 

後ろにひっくり返り掃除ロッカーに後頭部を直撃させた。酷い痛みが後頭部を襲う。


「くううう‥」

「ははは!大丈夫ー?」

まさか宮間さんが教室内に残っていたとは予想外だった。やり過ごせていたつもりになっていたが大きな勘違いだったようだ。


「あー面白い。なんか忘れ物?」

「そ、そう。タオル」

いそいそと動きタオルを持ち、教室を出ようとする。


「どうしよ」

体がぴたりと止まった。

「えっと‥」

「聞いてたでしょ?だって忍者みたいに教室入って来たしー」

不審者ではなく忍者として捉えていてくれた事に感謝した。しかし結局誤魔化しきれない状況に陥っているのは確かだ。


「ちなみに‥どなた?」開き直って気になる点を聞いてみた。


「井川君だよ!ほらサッカーの」

「え!」

球技大会のサッカー決勝で対戦した多田のクラスの井川だ。あの日、宮間さんがいる自分のクラスとの対戦は彼にとって特別な思いがあったに違いない。結果として自分のクラスに敗れてしまったが、華麗なプレーで観衆を魅了していた。顔立ちも整っていたし宮間さんの隣に並んだらお似合いな印象だ。


「どうすれば良いのかなあ」

俯きながらも少し嬉しそうにしていた。しかし自分は上手く言葉が出てこなかった。何か言いたいのだが、どうしても言葉が見つからずに沈黙の時間が続いた。


「なんて人に話したりしたら井川君に悪いよね!」

「え、まあ‥」

「内緒だよ!」

しっかり頷いた後、時計を確認してから教室を出ようとしたが、ここでつっかえていた言葉が言えるようになった。


「あの、自分に正直になって考えれば‥かなって」

宮間さんは「おおー」と言いながら外を見た。先程よりも青空が広がっていた。


「渡部君は?」

「え?」

「正直になれてますか?」

そう言うと宮間さんは笑顔で教室から出て行った。誰もいなくなった教室で一人、質問の意味を考えながら宮間さんと同じように外を見てみた。


「あ!」

俊哉と太一の二人三脚を思い出し、自分も慌てて教室から飛び出した。質問の意味は、後でゆっくり考えようと思いながら。

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