第4話

今日、自分はとにかく無理をした。一年の頃からレストランでアルバイトをしており、キッチンでひっそりと役目を果たしていた。皿洗い、サイドメニューの作成、焼き場と言われるメインの料理を調理する社員の補助など、仕事は満遍なくできるようになった。しかし積極性も無く、明るく場を盛り上げる事もなく、特に元気もなく、本当にただ決められた事をできる範囲でこなすだけだった。まあ店としては一応役には立ってるし、問題を起こす訳でもないから普通に使ってもらっているが、伸び代はもうこれ以上は無いという評価だろう。


休憩時間は地獄だった。土日はほぼ一日アルバイトとして入るが、二時間休憩という休憩時間がある。賄いを食べたり各自で休憩となるのだが、基本的に休憩室からは出ない。自分以外は活気がある面々なので、非常に賑やかな休憩室は、置物状態の自分には苦痛の二時間だった。別に賑やかにしている彼ら、彼女らが悪い訳ではない。

せっかくみんなが待ちに待った休憩時間で楽しく過ごしているのに、場違いな自分がいて良いのか?そう思っているからだ。


実際、彼らの賑やかさは仕事でも活きた。店内での抜群なコミュニケーション、お客様からのお褒めの言葉、店全体を巻き込んで士気を上げる素晴らしい活力になっていた。その活力に唯一含まれない不純物が俺一人だった。作業の歯車にはなっていたが、エンジンを盛り立てる燃料には決してなれていない。そして自分自身も周りの賑やかさにやる気を倍増させる、なんて事もなくどこかびくびくしながら働いていた。


そんな自分が出勤して早々に踏み出した。

「おっはよーございまーす!」と勢いよく休憩室の扉を開けると中にいた全員が飛び跳ねるように驚いた。不慣れな行動はこういうやらかしを招く。


お客様が来店するとそれを知らせるチャイムが鳴る。

「せー‥」と蚊がなく声で普段は挨拶をしていた俺だがこの日は違う。


「いらっしゃいまっせーえ!」

普段は「したー‥」を「あっとぅございましたあ!」に変えた。社員は、今の誰だ?と周りを見渡しやがて俺と気付くと、超常現象を見ているような顔をした。

こうして独自の活気を手に入れた自分は、数時間後の二時間休憩で賑やかさの輪に入る事となる、なんて事はなかった。


まるで葬式のように静まり返り、カチャカチャと賄いを食べる食器の音、そして警戒するような不穏な空気が漂っていた。いつこの置物が奇行をしだすか分からない、そういった警戒心が自分に集中した。自分の口は固く閉ざされた。


夜の部になり、相変わらずの混雑にアルバイトや社員も活気よく仕事をこなし、めげずに大声で挨拶をする俺はますます浮いていた。そして地獄のような一日からあと一時間で解放されるという時間帯に事件が起きた。


「ざけんなこら!店長出せや!」

ホールから聞こえる怒号は店内、そしてキッチン内を一瞬で静まり返らせるほどの衝撃だった。

あいにく店長は近隣の同じ会社が経営している居酒屋の方に足りなくなった食材のお裾分けに行っており不在という最悪の展開だった。


どうやら会計に来たお客様が、サイドメニューのカルパッチョにゴミが付着しており、代金は支払わないと言い出したらしく、レジを担当した賑やかな女子高生のアルバイトの一人、金井さんが「お客様が食べきっているし、急にゴミがと言われても見当たらないのでお代は頂く」と反論したための怒号だった。

キッチンに戻るなり焼き場の社員に「あのジジイおかしいですよ!言いがかりですよ!」と半分泣きながらこちらも怒りを露わにしていた。


代わりに対応している社員も、やはりゴミがある時点で確認を、と言っても中年男性は怒鳴るばかりだった。

やがて金井さんはもう一度レジの方へ行き対応に加勢したが、お互い引かずますます悪化していき、他のお客様も困惑していた。普段賑やかな他のアルバイトも怒り狂う中年男性の見た目に怯えて、金井さんが助けを求める素振りを見せても半笑いで躱すのみで、状況は一向に改善されなかった。むしろ金井さんの立場がどんどん苦しくなっていた。店員とお客様、この明確な立ち位置を冷静になった金井さんが気付き、でも引くに引けない状況であるため、見てるこちらも顔が歪むほどに厳しくなっていた。


店長はまだ来ない。社員もどうして良いか判断ができず、怒鳴られてはなだめつつ、完食した事を指摘、また怒鳴られるの繰り返しだった。


店長が来れば最終決断が提示される。俺には関係ない。ひたすらお皿を洗おう。自分の役目は‥

手が止まった。自分の役目は?今レジで悪質に近いクレーマーと自分とお店の尊厳を守り戦う金井さんは、普段は周りに声をかけて楽しく仕事をみんなでと、アルバイトなのに全体を見ている。無言で仕事する俺にでさえたまに声をかけて気遣い、お客様にも人気がある。彼女の人間性を好いてるお客様が多い。自分も金井さんは凄いなと感心している。真っ直ぐで一生懸命で、周りを見れて考えられる金井さんを。

そんな金井さんだからこそ、理不尽な言いがかりに近い今回のクレームが許せないのかもしれない。みんなが懸命に働くこのお店を侮辱され、しっかり食べ終わった後に言いがかりをつけ、無料で済まそうとするあの中年男性を許せないのだろう。


自分は手に付着した洗剤を洗い流した。前掛けエプロンで手を拭き、大きく深呼吸しながらホールに出る。よく考えたら営業中にホールに出るのは初めてだ。お客様は全員がレジの方向を向いて争いの行方を見ている。俺はキッチンで正解だと思った。こんなたくさんのお客様を相手に対応なんて自分には不可能だ。開始五分で辞表を書く自信がある。


「渡部‥くん?」

「ほ?あ‥」

目の前には熊のような中年男性。いきなり現れた俺を力のある目でぐっと睨みつけている。もし自分が鮭なら尾ひれや体をぐりんぐりん動かしてこの熊から逃げるだろう。緊張のあまりに心の準備ができないままここまで来てしまった。


「なんだよ?」と見下ろすように聞いてくる。

「あの、あ、このたび、えっと」唇が面白いように震えてくすぐったい。ただ笑ったら命はないだろう。

「あ?なんだよ?」

自分なりの最善の策を伝える決意をした。金井さんを、店を少しでも守れるならと背筋を伸ばし息を吸う。


「あのカルパッチョは、僕の作品です!」

店内が文字通りシーンと静まった。作品という表現が正しいかどうか、そして何故カルパッチョに芸術性を持たせた言い方をしたのか様々な疑問を一瞬で生んだ。


「ミスター!席にお戻りください!」

「ミスターって、俺か?」

「あ、お、お客様‥お席へ!」

中年男性は更に目を見開いた。

「なんで戻るんだよ!」

近付く顔をさっと躱すと中年男性は少し傷付いたような顔をしたように見えた。


「作り直します!」

自分の中の最善の案だった。

「は?」中年男性は呆気にとられたような顔をして、自分の話の続きを待つように耳を傾けた。

「あのカルパッチョを作り直します。あれは僕が作りましたので‥ちゃんとした物をもう一度作り直して食べていだたきたいんです!どうでしょうか?」

掌を合わせて良い提案でしょう?と言わんばかりの自分を睨み付ける目が、困惑と休憩室で向けられたあの目に似たものに変わった。


「いらねーよ!」

「うええ!」と変な悲鳴をあげてしまった。しかし自分ももう恥ずかしさは度を通り越しているため、踏みとどまる。

「作り直しの分のお代は僕のバイト代から出します!大丈夫ですバイト代はマイナスにはなりませんから!」

「いや、心配してねーよ」

気を取り直す。背筋をもう一度伸ばす。明日はきっと筋肉痛だ。


「ゴミが混入していたかはわかりませんが、僕もお客様のために一生懸命作りました!ですがこうなった以上、完璧な仕上がりのカルパッチョを食べてもらえていません。だからもう一度チャンスくださあい!」

伸ばした背筋を急に直角に曲げたため、ぱきっと関節の音が店内に響いた。あいにく痛みは無い。


「いや‥もう、食えねーよ。いらねーし‥帰るよ。」

中年男性は社員にレジを催促すると、しっかりカルパッチョの料金も支払った。自分は恐る恐る出口まで近付き、「あっとぅございましたあ!」と大きな声で言うと中年男性は飛び上がって驚いた後、少し頭を下げてくれた。


店内に戻ると信じられない事が起きた。これには自分が驚き飛び上がった。店内のほぼ満席のお客様達から俺に浴びせられたのは罵声ではなく拍手拍手の大喝采だった。結婚式場のように拍手が鳴り響き、自分は再び姿勢を正した。


「あっとぅございましたあ!」

今日一番の感謝の言葉だ。その後はそそくさと皿を洗い、ゴミ捨てを済ませ、これまたそそくさとタイムカードを押して着替え、コソ泥のように帰宅の用意をした。冷静に振り返ると、この店で今日一日自分に浴びせられた視線が耐えらなかったからだ。確実にこの店での踏み出しは失敗だと思っていた。それもそうだ。いきなり地蔵が大声を出して動き出したら戦慄だろう。


慌てて着替えてシャツのボタンの掛け違いも全く気にせず休憩室を出る。買い直した自転車に跨りいざペダルを踏もうとした時だった。


「おい」

中年男性が待ち伏せという展開だと思い、何故か咄嗟に頭を守る態勢に入った。


「あ、渡部?」

「え?」

振り返ると金井さんをはじめアルバイトの人達が自分の後ろに並ぶように立っていた。これから尋問かと思い自転車をゆっくりと降りる。約二年近く働いたこのお店も、いよいよかと思っていた。


「ありがとな」

言われたのは「お前いかれたの?」とか「調子乗んなよ」などとは違い、予想を遥かに上回るある意味意表を突いた一撃だった。


「うぇ?」

そんな事を言われたら鳥のような声になるのは仕方ない。


「渡部君に助けられた。お客様も誰も傷付けないあのやり方が正解だったと思う。ありがとう。」

金井さんが頭を下げる。


「俺達なんか金井が戦ってんのにびびってさ、情けないし、お前‥すげーなぁ。」


次々と自分なんかに頭を下げて感謝を述べる陽気なアルバイトの面々。今まで店を盛り立て活気の輪に入らなかったような俺に。


「あっとぅございましたあ!だろ?」

バイトリーダーの田辺さんが自分の真似をしながら笑う。自分も親指を立てて頭を下げた。


帰り道に初めて思う事があった。

次のアルバイトが非常に楽しみだ。こんな気持ちは今までに無かった。この後、新品のはずの自転車のチェーンが外れなければ文句無しの一日で終われたのに。

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