6-2節
エレベーターに乗り込み、住処へ着くまで平均三回ほど往復していたのが、一回で着くようになった。皆がよりムトのことを意識しているからに他ならなかった。もう未確認生物という枠もない。個と個の繋がりだけだ。
地球に来てから何十年と経っているにも関わらず、適合の判定はまだできていない。適合は完全でなくてはならないからだ。進行速度から考えるに突然ムトが消えるということはなさそうだが、逆に言えばいつまで一緒にいられるかもわからない。住処で過ごす時間の大切さも増していた。
終末の気配を感じながらも、手は尽くしてみようということになり、湊がインスタントカメラを持ってきた。住処の白い壁を背景に、皆で写真を撮った。ムトを認識できなくなれば写真の中のムトも消えてしまうそうだが、やれるだけのことはやる。忘れた時にこれで気づける可能性も無いとは限らないのだ。
タイマー機能は実装していないので本来は無理なのだが、ムトが腕を伸ばしてシャッターを切ったおかげで、全員揃って写ることができた。全員に行き渡ったその写真は家族などに見つからないよう、一人一人がこっそり持っている。秘密を共有している感じがちょっと楽しい。ムトも身体の中にしまっていて、時どき眺めるらしい。
二学期の終わり頃、吉男は松尾先生に係の仕事を頼まれた。とうとうきた、と思い切迫感が襲う。こわばる顔でプリントを集めると、教室を出た。
早足で進むも、背後から足音が近づいてくる。前回と同じだ。いずれにせよ、急いだところでどうせ職員室に入っている間に待ち伏せされるので、逃げられない。こちらを焦らせて楽しんでいるのだ。
プリントを届けた帰途、案の定階段の前に奴らがいた。
「よう、矢田」
「よう、矢田」
下卑た笑いを浮かべ、野呂兄弟が言った。偶然だとばかり顎をさすり、また無意味に体裁を整える。吉男が無視して通り過ぎようとすると、肩をつかまれた。
「待てよ。久しぶりにちょっと話そうぜ」
「話すことなんてないよ」ペースに飲み込まれる前にと、吉男は冷たく言い放った。
「おっかないねえ」
吉男が凄んでみても効果はなく、自分たちがさも絶対的優位な立場でもあるかのように、野呂兄弟は高みから見下ろしながらにやにや笑った。
「まあ聞けよ。お前、冬休みはどうするんだ?」
どうもこうも、ムトやみんなと過ごすに決まっている。だが言うわけにはいかない。ムトを知らないにせよ、野呂兄弟も未確認生物の調査だと決めつけているのだから、答えたところで馬鹿にされるだけだ。
「きみたちには関係ないよ」
「つれないねえ」
言いながら野呂兄弟が前後から寄ってきた。二人の影で視界が暗くなる。急に圧力が増したみたいだった。
「おい、うそつき。正直に言え」
「そうだ。もうばれてるけどな」
「あはははは」
「あはははは」
「妄想の裏づけだろう?」
「調査だとか言って」
「何も持っていないから」
「何かやった証明が欲しいんだ」
「どうせ無駄なのに」
「お前には無理なのに」
「あはははは」
「あはははは」
覚悟をしてきた。言い返せるはずだった。しかし、一度閉塞感に包まれはじめるともう声が出なかった。どうしてだ、どうしてだ。出ろ、出ろ、出ろよ。気持ちをいくら奮い立たせても、声だけがどうにも出ない。言葉そのものを封じられたように、喉に込めた力が音にならない。いつの間にか下を向き、重なり濃くなる影の中へ視線を落とした。
「しかし加瀬もよくお前の妄想に付き合うな」
さんざ吉男を罵倒してから、野呂兄弟は矛先を変えた。
「頭だけはいいやつだからな、本当は迷惑してるんじゃないか?」
「違うよ兄さん。あいつは勉強ができるだけさ。頭がよかったら矢田について行ったりはしないよ」
「それもそうだ。妄想だと見抜いてる分、おれたちの方が頭はいいからな」
「じゃあ加瀬も妄想人間だ」
「そうだな。あいつも無駄なことを繰り返してるってわけだ」
無駄なこと……誰よりも研究熱心で、気持ちは深くあって、それでいていつも優しい湊くんの行いが、無駄なことだって。ぼくは何を言われたっていい。まともに言い返す強さもなければ意志も弱い。でも、友だちのことを悪く言われて、それで黙っているなんて。それじゃあぼくは、友だち失格だ。
「やめろ!」
突然の吉男の大声に身をびくつかせる。しかしその驚きを出すまいと、上位者たる威圧感を込めて野呂兄弟が言う。「なんだよ」
「湊くんの悪口はやめろ!」吉男は怯まない。「お前らに、お前らなんかに何がわかるっていうんだ!」
「こいつ、言ったな」
精神的強者でない野呂兄弟は、
だが吉男はやめない。
「湊くんがどれだけ頑張ってるか、お前らなんかにわかるもんか! あやまれ、湊くんにあやまれ!」
「おい」隆明が顎をしゃくると、弟の秀明が吉男に平手打ちを食らわせた。「静かにしろっ」
「いやだ。いやだ。あやまるまでやめないぞぼくは」
頬に痣ができても激しく身をよじり、足をじたばたと動かしながら、吉男はひたすらに叫んだ。
「あやまれっ、あやまれっ」
「こ、こいつ」
下位に見ていた吉男から思わぬ反抗に遭い、これ以上調子に乗らせまいと、秀明は吉男の口を塞ごうとして躍りかかった。ところが、暴れていた吉男の足先が顔面をかすめ、秀明は大きくのけぞった。
「ああ、ああ、ち、ち、血が」
「ひであきっ」
吉男を突き飛ばして隆明が駆けつけるも、鼻血を垂らしながら弟は泣きわめいた。「いたいよう、いたいよう」
吉男も泣きそうになりながら、しかしまだやめない。「あやまれ、あやまれ」
「このっ」
怒りに任せ、隆明が吉男めがけて握りこぶしを振り下ろそうとした時、ぐっと突っ張る感じがしていきなり動かなくなった。振り向くと、十吾が腕を掴んでいた。
「やめろよ」
野呂兄弟は決して非力ではない。だが懸命に腕を振り払おうとしても、微動だにしない。ものすごい力だった。さらには十吾の凄まじい気迫に圧倒され、野呂隆明は小さく声をあげた。「ひっ」
掴んだ腕の脱力を認めると、十吾も腕を離した。隆明は弟の後ろまで逃げ、わめき散らした。
「な、なんだよ。お、おおお前には関係ないだろ。だっ、だいたいこっ、こここいつが悪いんだぞ。み、み、みろ。ほら、ち、血まで」
「それは、おまえらが先にやったからだろ」十吾は睨みをきかせた。「よしおは自分からこんなことするやつじゃねえ」
事の成り行きを初めから見ていたわけではないが、十吾は断言した。
「おいよしお、大丈夫か」
「う、うん」十吾が力を使う姿と、その頼もしさに吉男はほれぼれした。
「ちょっと、あなたたち!」
階上からゆかりと湊が降りてきた。
「あっ、か、上条さん」普段からゆかりの容姿を気に入り憧れている隆明が、我先にと言った。「き、きいてほしい。こいつらが、暴力を」
吉男と十吾を一瞥してから、厳しい口調でゆかりが言う。
「詳しいことは職員室で聞くわ。さあ、先生のところに行きましょう」
「え、な、なんで。悪いのは、こいつら」野呂兄弟が慌てふためく。
「それはあなたたちが決めることではないわ。見たところ矢田くんだって顔が赤いし、事情は明らかにしなくちゃいけない。お兄さんは行くとして、弟さんも……大丈夫そうね」
秀明の鼻血はとうに止まっていた。それどころかごく少量の出血であり、騒ぎ立てるほどでもないのは明らかだった。
「二人とも、来てくれるわよね」
逃げ場のない大きな眼を向けられ、野呂兄弟は揃ってうなだれた。
「……はい」
吉男を含む四人が先生に報告するのを、十吾と湊は職員室の前で待った。松尾先生は怒るとおっかない。ゆかりの目も光っているし、嘘でごまかすこともできない野呂兄弟はこってり絞られ、すっかりしゅんとしてしまった。吉男は怪我をさせたことについてのみ叱られた。先ほどまでは興奮状態だったのであまり自覚が無かったが、第三者に言われて罪悪感が湧いてくると、同時に十吾の気持ちもわかった。人を傷つけるのはこわい。おおごとにならないうちに止めてくれた友だちに感謝した。
職員室から出るなり二人の姿を見た野呂兄弟は、そそくさと退散していった。先生の説教が効いたためでもあるが、十吾たちに畏縮してしまったのが大きい。逃げざまを見ながら十吾は、もう心配いらねえなと思った。
ゆかりと吉男が出てきた。吉男は全員を見回して言った。
「色々めいわくかけてごめん」
それからちょっと照れくさそうにこうも言った。
「みんな、ありがとう」
「僕は何もしてないけどね」湊は少しだけ肩をすくめた。「十吾くんから聞いたよ。僕の為に怒ってくれたんだって。こちらこそありがとう」
「ま、おれもよくは知らねえんだけどな。おれが来たときに吉男がそう言ってたから」
十吾は後ろ盾になるような目で吉男をみた。
「話してみろよ。いままでだって、あいつらになんかされてたんだろ?」
「うん……」
吉男は、以前から野呂兄弟に嫌がらせを受けてきた経緯を話した。湊に気を遣わせるのでは、とも思ったが、隠し事をしたくない気持ちの方が強くなっていた。
話が終わると、湊はやはり頭を下げた。
「気づかなくてごめん」
「い、いいよいいよ。ぼくが言わなかっただけだから」吉男は話題を変えた。「でも、なんで今日に限ってわかったの?」
「おめえが教室でプリント集めてるとき、みょうな顔してたからだよ」と十吾が少し怒ったふうに言った。「そんでみなとと話してたんだよ。何かあるんじゃねえかって」
「そう、それで前にこうやってプリントを集めた時、次の授業に遅れて来たのを思い出したんだ」湊が解説を加える。「あの時はお腹が痛かったって言ってたけど、本当かなと思ってね。それで僕が上条さんに事情を説明している間、十吾くんには先に行ってもらったってわけさ」
十吾は気づいていないが、吉男の様子がおかしいのを察知できた根本的な理由は、長年の悩みが無くなり、覆われていた視野が開放されたからだった。自身の力を守るために使うと決めた、新たな意識の働きかけとも言えた。
「何事かと思ったわ」ゆかりは
「そうなんだ……」
吉男は目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとう。本当に」
「なーに、いいってことよ」豪快に笑いながら、十吾は吉男の背中をばんと叩いた。
「あたっ」吉男がたたらを踏む。しかしすぐさま、乗り気になって十吾の脇腹をくすぐった。「ひっひっひ」
「まったく、しょうがないわね」早くもふざけはじめた二人にため息をつくゆかり。だが、もう「男子は」とは付かないようになっていた。「あんまり無理しちゃだめよ」
その声には頭ごなしの非難などはなく、ただ確かに女性の優しさと、母性が含まれていた。包容の心地がして、吉男はちょっと見とれてしまった。
「は、はい」
湊は、やっと間に合った、と思った。ゆかりにはどう声をかけていいか迷い、十吾にも過去を知りながらどんな関わり方をすればいいか考えつかなかった。ムトの研究を進めても恩恵は間接的であり、本当はもっと表立って助けになりたかった。だが、触れてしまうのが正しいことなのかどうしてもわからなかったのだ。
結果的に二人は何かきっかけがあってさっぱりしたようで、その点は大いにほっとしたが心にしこりが残り、それこそがおこがましいような気さえした。
だから、吉男を助けられたことが湊はうれしかった。完全な形ではないにせよ、仲間に、友だちに、ようやく何か返せたこの気持ちは代えがたいもののように感じた。それは、満足感とは別のものだった。
「吉男くん。次からは困ったことがあれば、僕たちに話してほしい」二人のじゃれあいが終わってから湊が言った。「僕も何かあれば吉男くんに相談するよ」
吉男にもまた、うれしさがこみ上げた。与えられるだけのものではないと思えた。そのうれしさに、吉男は胸を張っていられた。
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