5-3節

 翌日、やや多い仕事量を前にして、ゆかりは吉男に遅れると告げた。頑張れば一人でもこなせるかもしれない。でも違う。違っているはずだ。息を整えてから、席を立った。

「木下さん」

 ふりむく里子にたじろぎそうになる。自分は前回、ひどい断り方をした。だから何を言われても仕方ない。胸に渦巻く気まずさを抱えてゆかりは言った。

「手伝ってくれない? 仕事が多くて大変なの」

 すると、一瞬きょとんとしていた里子の顔がぱあっと明るくなった。

「いいよ!」

「あ、ありがとう」

 むしろうれしそうな里子を見て、ゆかりはびっくりした。ちょっと信じられない心地になり、自分の横の席に座ろうとする里子にあわてて言った。

「あの、ごめんなさい。この間はひどい言い方をして」

「うん」

 承知の上だと云う目をして、里子は穏やかに微笑んだ。

「いいよ。そんな時もあるもんね」

 なんて良い子なんだ、とゆかりは感動した。ぼろぼろに言われることすら覚悟していた自分が恥ずかしい。嫌な思いをしただろうに、文句も言わず許すなんて。でもこれは、心根が優しいこの子だからかもしれない。本当なら、同じだけやり返されてもおかしくないはずだ。あたしはやっぱり、実は周りの人に助けられてるんだ、とゆかりは実感した。だったら、他の人が困ってる時はあたしが助けなくちゃ。甘えっぱなしはいけないもの。それにきっと、周りの人も都合よくいつもいるわけじゃない。だからこそ、もっと他人を大事にすべきなんだ。

 ゆかりの胸に熱さがこみ上げた。


 昨日深刻な話をしたばかりなので、どういう顔をしていいかわからず、少し行きにくいところもあったが、ムトはいつもと変わらぬ挨拶をした。だからこそ額面通りに受け取るべきではないと湊は思う。

 無力を感じていても、十吾にはムトが弱いふうには見えなかった。少なくとも自分とは違う強さがある。どうすべきかなんて、本当は最初からわかっている。だが、また誰かを傷つけるのではというおそれを払拭できずにいた。出来たとしても、それで楽になってはいけない気がしていた。

 遅れてゆかりがやってきた。ゆかりにはまだやろうと思っていたことがあった。だが、なかなか踏ん切りがつかない。持ってきた手提げカバンの中を何度も覗き、やめ、ようやく意を決して立ち上がった。里子に謝るのとはまた違う不安がある。声が上ずらないようにして、ゆかりは呼びかけた。

「加瀬くん」

 初めて湊の名前を口にし、全身が焼けるような感覚になりながらも続けた。

「ここ、教えてくれない?」

 吉男も十吾もぎょっとしてゆかりを見た。その手には宿題のプリントがあったのだ。とりわけ十吾は目を疑った。

 湊が言う。

「いいとも。どこだい?」

 それは、他の多くのクラスメイトが湊に勉強を教わりに行ったときの反応と、まったく同じだった。その光景はゆかりも見たことがある。うれしいような、拍子抜けしたような。いずれにせよ緊張が解れてきたゆかりは、まだ火照る指で特定の一問を差した。

「ここなんだけど」

 実を言えば難しいにせよじゅうぶん理解している問題だったが、話す口実がほしかったのだ。ところが湊はゆかりとは違う解法を使ってみせ、すぐさま解いてしまった。

「すごい」素直な感想が口をついて出た。「どういうふうに考えたの?」

「問題を見たときに、上から順番にやるんじゃなくて、答えから逆算するのさ。ある程度ゴールを見定めておけば、あとはどの道を行けばいいか、ってところかな」

「なるほどなあ……」

 ゆかりは湊を忌憚なく認められるようになっていた。湊に対する気持ちはまだわからないし、対抗心だって失っていない。でも、本人に関わろうともせず一人で結論づけるなんてやっぱり間違いだ。それは調子よく誂えた想像でしかない。わがままで、勇気がないだけのことだった。

「ねえ、加瀬くんならどうした? おじいさんにビルへ入るのを注意されたとき」

 自分は運に助けられた部分が多かったので、湊の対応を聞いてみたかったのだ。

「そうだなあ。僕はそのおじいさんを見たことがないけど」数秒思案した。「一旦は大人しく帰ったふりをすると思う。それからもっと英会話塾生らしい格好をするなり、作戦を立てるかなあ」

「そっか。うーん、あたしは強行突破しすぎたのかしら」

 戻るという選択肢がまるで無かったので、ゆかりは感心した。

「でも、こわいおじいさんだったんだろう? 僕だってその場にいたら冷静に考えられたか分からないよ。とっさに切り抜けられたのはすごいと思う」

 褒められてうれしくも、ちょっと腹も立つ複雑な感情があった。しかし、この余りにも普通な湊の態度に自然とため息が漏れる点が、気持ちの正体を知るヒントになりそうな気がする。そう遠くないうちに、明らかになる予感があった。

 ゆかりと湊が楽しげに話しているのを、十吾は眺めていた。お前がそれをするのかよ、と思った。あれだけ男子を目の敵にしてたってのに、よりによってお前がかよ。何があったかしらねえが、お前にそんなことをされちゃあなあ……。

 十吾は腹を決めた。

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