星のあと
ラゴス
邂逅
1-1節
窓外でゆらめいた粉雪が、やがて地上へ達して消える。
そういえば初雪か、と
廊下際の席では、
十吾が暴力を振るうことはないし、松尾先生も道連れにされているだけとわかってくれている。しかし自分の臆病さが浮き彫りにされた心地がして、どうにも疎ましい。もちろん十吾が指されることもあるが、十吾は堂々と「わかりません!」と言ってしまう。吉男はそんな十吾をずるいなあと思い、また心の奥ではややうらやましくもあり、歯がゆいときがあった。
十吾が避けたいのは、先生や授業などではなく、クラス委員の
ゆかりは自分が正しいと思ったことをはっきり口に出して述べる質で、たとえ相手がクラスいち力持ちの十吾であっても、臆せず正面から立ち向かう。それは理詰めというより逃げ場のない正論で、ちょっとした口ごたえも許されない。十吾が最も苦手とする相手だった。
ゆかりの凛然とした立ち居振る舞いに対しても勿論そうだが、整った顔立ちのゆかりを意識しまいとするあまり気が引けるという男子も少なくはなく、しかしその点だけは、十吾の弱味にはならなかった。人間性や己との相性のみが、苦手とする理由なのだ。
クラス委員の上条ゆかりは、クラス内の秩序を保つために、常に監視網を張り巡らせていた。むろん、不穏因子の芽を摘むのが目的である。一番引っかかるのが十吾であり、だが彼の芽は摘んでも摘んでも生えてきた。こてんぱんに言い負かしているはずなのに、なぜ何回いってもわからないのかしら。男子って本当にくだらないことばかりするんだから。常日頃からそう感じているゆかりだったが、加瀬湊には一目置いていた。
ゆかりには、クラス委員として皆の規範にならなければいけないという自負があり、そのため勉学も疎かにしなかった。事実女子の中では一番の成績で、クラスの代表として申し分ない。しかしクラスで一番とならないのは、未だ湊に及ばずじまいだからだった。授業中は窓の外を見てぼんやりしていることが多く、さほど真面目に聞いているふうではないのに、先生に指されるとすらすら答えるどころか、その問題に関連する豆知識などを披露して、教室を感嘆の渦に巻き込んでしまうときさえある。テストだって誰より早く終えてしまい、そのうえ満点ばかりなのだ。
ゆかりは悔しかった。でも、気持ちがどうあれ湊の方が成績が上という事実は変わらない。ゆかりは、自分にはクラス内の風紀を守るという役目があり、常に様々な雑事を抱えているが、しかしそれを言い訳にするのは駄目だ、と思っていた。純粋に実力が上なら、成績だって上回れるはず。加瀬湊が、他の男子とは違う意味で目が離せなかった。
チャイムの音。授業が終わり、湊はいつものように吉男と帰る。
「湊くん知ってる? となり町で人面犬が出たんだって」
興奮ぎみに語る吉男に、湊も聞いたことのない単語だったので食いつく。
「人面犬ってどんなだい」
「ええと」ノートの文字を指でなぞりながら吉男が解説する。「体はふつうの犬だが、顔が人間で、言葉をしゃべる。小汚い身なりをしていて、ゴミをあさっていることが多い。カップルを見つけると悪口を言う。足がとても速く、車よりも速い。人面犬に追い抜かれた車は不幸になる、んだって」
「すごい生き物だ」
感心する湊を見て、吉男は誇らしくなる。「だよね!」
「どんな顔してるんだい」
「それがなんとね、おじさんなんだって! こわいよね」
「こわいね。でも、興味ぶかい」
ううむ、と唸りながら、湊はランドセルから動物図鑑を取り出し、ぱらぱらとめくった。「やっぱりここには載ってないなあ」
「これはぼくの予想なんだけど」
なぜか小声になり、吉男はそれなりの確信を持ったふうに言った。
「人面犬は妖怪の一種だと思うんだ」
「妖怪かあ」
しばらく考え込んでから、やがて得心いったらしく湊も同意する。
「そうかもしれないね。普通の動物とは違うところが多すぎる。次の誕生日は、妖怪図鑑にしてもらおうかなあ」
小学校に上がって以後、湊は毎年誕生日に両親から本を買ってもらっていた。動物図鑑や植物図鑑や科学実験本や地図帳。そのとき湊の中でブームになっていたものばかりだ。
しかし飽き性というわけではなく、むしろのめり込んだがゆえに派生した他種の情報が欲しくなる。図鑑を眺めて、まだ見ぬ生き物や草花に思いを馳せたり、通学路の畦道や近くの小山へ出かけて、収穫したものを図鑑から探したり、自宅の庭を測量したり、薬局で入手した薬品で簡単な実験をしたりしていると、無性にわくわくして楽しいのだ。
湊は好奇心、知識欲が旺盛で、新学年になって新しい教科書が手元に来ると、授業でその単元に入るのを待ちきれず読みつくしてしまうほどである。そうすると授業が少し退屈になってしまうので、最近は進めすぎないよう調整するようにはなったが、それでも早い。
父親に車で市内の大きな本屋に連れて行ってもらい、色とりどりの本たちの前でどれにしようかと迷い悩むあの時間が湊は待ち遠しかった。しかし、過去に買ってもらった本もまた大事なので、何冊かは常に持ち歩いている。
吉男は、妖怪や都市伝説、未確認生物などに造詣が深く、それは湊が所有する学習書では扱っていないものばかりだった。そのため吉男の話は湊にとっていつも新鮮で、大変に興味をそそられる。また吉男にとっても、湊は他のクラスメイトとは違い、「存在の否定」をしないので、最も気兼ねなく話せる友だちである。未知への好奇心が強いという点で共通であり、ふたりはよく気が合った。
「今度、となり町まで探しに行ってみない?」
「いいよ。でも、だったら気をつける点がいくつかあるね。まず危ないから父さんに車で連れていってもらうのは無し。少し遠いけど自転車で行こう。カップルで行かないっていうのは、僕たちは男どうしだから大丈夫だね。あと、となり町は食べ物屋さんがいっぱいあるよね。きっと裏口にはゴミすて場があるから、そこを巡ってみようか」
探索の発起人は吉男が務めることが多いが、具体的な行動計画はたいてい湊が立てる。だからと言って関係性に優劣はなく、むしろ吉男はどんどん作戦を作ってしまう湊を頼もしく思っていたし、湊もこの立案時の会議めいたものが好きだった。
「あっ、着いちゃった」
四つ辻の中心、マンホールの上で吉男がたたらを踏んだ。話に夢中になるうち、いつの間にか別れ道まで来ているのはよくあることだった。
図鑑をしまいながら湊が言う。「つづきはまた明日」
「そうだねえ。うん。また明日」
話したりなさそうに手を振る吉男。だが、早く帰って「未確認ノート」を更新したくもある。人面犬の項目に湊と立てた計画を書き足すのだ。そして湊もまた、探検用に所有している様々な道具の手入れをしようと思っていた。あたらしい探検に向けて、はやる気持ちと楽しい気持ちを混ぜこぜにしながら、ふたりは十字路をそれぞれの自宅へと歩いた。
ところが、人面犬の話でまた盛り上がった次の日の帰り道、湊と別れる段になって吉男が言い出した。
「そういえば、この町にも未知の生きものがいるらしいよ」
やや自動的な口調で告げられたその新情報に、まるっきり戸惑いがないわけでもなかったが、しかし反応したくなる話題だったので、湊は訊き返す。
「どんな生きものなんだい」
「とても体がやわらかくて、時たま青白く光るんだって」
「クラゲか何かの仲間かい?」
「ううん、そうじゃないよ。でも、そこまでしかわからないんだ。名前や、どんな姿をしているかは、はっきりとわからないんだって」
「ずいぶん謎が多いんだね」
話の信憑性に疑念があるわけではなく、それが素直な感想だった。人面犬や、過去に調査した口裂け女や河童の時よりも情報が圧倒的に少ないためか、想起されるイメージが鮮明ではなく、湊としてはいまいち掴みどころがない。
「ふうむ」
湊が首を傾げて思案していると、吉男が付け加えた。
「その生きものは、なわばりを移動するから、いつまでもこの町にいるわけじゃないんだ。だから、調査するなら今しかないと思う」
「吉男くんは、人面犬より先にそいつを探したいんだね」
「うん。だめかな?」
「だめではないけど」
そう言いつつも湊がわずかに逡巡したのは、行きたいと言うわりに吉男がそれほど行きたいふうに見えなかったからである。しかし、人面犬より優先するほどだから、それはやはり、どうしても行きたいんだろうなと思い直し、湊は了承した。
「いいよ。人面犬は逃げないものな。明日にでも探しに行こう」
すると吉男は「やったーありがとう。さっそく作戦を立てようよ」と、目を輝かせて喜んだ。やっぱり僕の思い違いだったかな。遅れぎみに湧いてくる自身の高揚を感じながら、思いつくまま案や注意点を、湊は次々と口に出していった。
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