四章 お茶

 平成三十年九月十九日水曜日。

 私の誕生日でもなければ、誠治の誕生日でもない日。

 付き合った記念日ってわけでもなくて、平日。

 強いて言うなら、大安。

 私たちは籍を入れた。

「早めに入れとかないと、ずるずると先延ばしにしちゃいそう」

 そんな私たちらしい理由で、今までなんでもなかった日が、私たちの新しい特別な日になった。

 これで私の名前は正式に大川琴音となる。

 その響きにまだ慣れない自分がいる。

 感慨とか感動みたいなのはあんまりない。

 名義の変更が大変って方が今のところの感想。

 そう誠治に言ったら「琴音らしい」と笑った。

 たぶん、私らしいんじゃなくて、私たちらしい惰性なんだと思う。

 二人とも記念日とかにあんまり拘らないし、似たもの夫婦ってやつ。

 そんな私たちでも、この日の夕食だけは少し奮発して、近場のフランス料理屋でコース料理を食べた。

 慣れない料理に、私も誠治も少し緊張して、それがおかしくって笑い合う。

 どのフォークを使うのかとか、マナーがどうとか、普段気にもしない食事のあれこれに苦戦したり、変にそれっぽく振る舞おうとして滑稽だったり。

 食事が落ち着いた所で

「これからもよろしくな」

 真顔で誠治が言った。

「こちらこそ、よろしく」

 小ぶりな椅子に窮屈そうに座り、食事をしてただけなのに少し汗をかいていて、朝一で剃った髭はもう薄ら生えてきてる。そんな彼は真っ直ぐ私を見ていた。

 この場面を私は忘れないだろう。

 なんだか、とても幸せだと思った。


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 九月も末が近付いて、随分と涼しくなってきて、早くも冬物の出番がやって来る気配を感じる。

 この前、引っ越しの片付けを終えたばかりなのに、もう模様替えになるなんて、少し憂鬱。

 こんな事なら、引っ越しの時に衣替えと模様替えを済ませておくんだったと、自分の計画性のなさを少し恨む。

 とは言っても、この部屋を夏のままにして暮らしてはいけない。

 さて、それじゃ少し気合いを入れて模様替えをしようかな。

 先ずは、寝室から。

 急に気温の下がった昨日の夜、タオルケットだけじゃ寒すぎたから、誠治を抱き枕にして暖を取った。

 筋肉質で堅い誠治は抱き枕としての安心感は圧倒的で、体温も高いから、こういう暖房器具を商品化すれば売れるんじゃないかと思う。

 まぁ、誠治は私専用なんだけど。

 もっと寒くなるまでこの方法で乗り切るのも全然ありだと思ったけど、暑がりの誠治からクレームが入ったので、渋々毛布を出す事にする。

 取り敢えず、二人分の毛布を持ってコインランドリーに。

 それが終わるまでの間にリビングに取り掛かる。

 朝の内に誠治にテーブルを動かして貰ったから、カーペットを冬用のものに変えるだけ。

 そう思っていたのに、思わぬ障害が立ち塞がった。

 本棚。

 完全に見落としてたけど、間取り的にカーペットを敷くには本棚を動かさないとダメそう。

 これ、そのままで動かすのは、誠治ならできそうだけど、私にはとても無理。

 仕方が無いので、本棚から本を出す。

 その殆どが私のものだった。

 そんなに読書が好きだった記憶はないけど、いつの間にこんなに増えたんだろう?

 そう思いながら、一冊ずつ取り出す。

 本特有の手触りから、先日読んだ日記の内容が連想された。

 そんな折、私の内心を読んだように、手に触れたのはあの日記帳だった。

 ピンクの可愛い表紙が悪気なく、手の中に収まっている。

 こんなに肌寒くなってきても、あの夏は私から離れてくれない。


『六月十五日 晴れ

イズイズと文ちゃんと祥子ちゃんとボウリングに行った。

全員下手だったけど、私が一番になって、最下位だったイズイズにジュース奢ってもらった。

同じところにある卓球も少ししたけど、みんな運動音痴で全然ラリーが続かなくってグダグダ。

でも、たまーになら、こういうのも悪くないかもしれない。』


 手が無意識に日記を開いて、目が無意識にそれを読む。

 今の今まで、完全に忘れていた記憶が呼び起こされた。

 ボウリング場は大型チェーンのような華やかな所ではなく、私が生まれた頃からある個人経営の、少し薄暗い寂れた場所。

 日曜日の昼下がりだって言うのに、それほど人もいなくって、殆ど私たちの貸し切り状態だった。

 普段誰もこういう所に来ない私たちの成績はどんぐりの背比べのようだった。

 三人居て、誰も百点以上に届かない。

 文ちゃんは毎回綺麗に真ん中に投げるけど、勢いが足らなくて数本しか倒れなくって、私は、曲がったり曲がらなかったり、倒れたり倒れなかったり全く思い通りにならなかった。

 

 ガーターを連発した和泉君は、

「ボールを自分として、レーンを人生とした場合、その先に立ちはだかるピンは様々な困難になると思うんだ。どう考えても、わざわざ真っ直ぐに困難に向かって行くより、迂回する方が賢明じゃない?」

 そんな事を得意げに言って、

「泉君の人生観についてとやかく言うつもりはないけれど、なんでも人生に例えるのはどうかと思うし、これはピンを倒すゲームだから」

 文ちゃんはそれを容赦なくそれを切り捨てていた。

 

 そして、卓球。

 なんで、しようって話になったのかわからない。

 ただ、全員が本当に運動音痴でグダグダだった。

「まさか、サーブだけでゲームが終わるとは思わなかったわ」

 圧倒的安定感で、サーブは絶対に決める文ちゃん。ただ、返球は苦手。

「自分の方で一回バウンドさせてからってのが難しいよね」

 そもそもサーブが安定しない私。

「球技でもさ、サッカーとかまだわかるんだよ。足でボールを動かすってのはさ、日常の延長線上にある動作だから。ただ、同じ球技でもそこに道具を挟むのはよくわからないんだよね。動作の難易度を上げる必要性がなくない?」

 球をラケットに当てることすらままならない、和泉君。

「難易度が上がるから娯楽としての意味があるんでしょう?」

「スポーツって娯楽だったの?」

「娯楽って言葉の定義にもよるけれど、本来生存に必要ない行為の大半は娯楽と呼んで差し支えないのではないかしら? そういう意味では、少なくとも私たちがしているコレは間違いなく娯楽でしょう」

 

 ダブルスとか、もっと悲惨で、私と和泉のチームは入れ替わりすらままならなくって……あれ?

 順調に思えた記憶の再生が、止まる。

 改めて日記を読み返して、私の目はやっと「祥子ちゃん」という言葉を捕らえた。

 卓球でダブルスをするには四人の人間が必要。

 記憶から完全に抜け落ちていた四人目、高瀬さん。

 喉の奥に小骨が刺さったような違和感。

 六月十五日、夏休みに入る前、私と和泉君と文ちゃんの三人はわかる。そこに、どうして高瀬さんが居たのかどうしても思い出せなかった。

 ふと、和泉君から貰った名刺を思い出す。

 わざわざ連絡を取ってまで、確認するような事じゃない。

 だけど、この違和感が事件の真相に繋がっているのかもしれないという、胸騒ぎがあった。

 あの事件を引き起こした高瀬祥子。

 彼女に関して忘れてしまった記憶が確かにある。

 十年前の出来事なんて、日記に書いてたって忘れてしまっている事の方が多いに決まってる。でも、それだけじゃない、何かがあるような気がした。

 思い切って、名刺に書かれた番号に電話をかけてみる。

 数回の着信音の後、繋がる。

「はい、泉です」

「あっ、和泉君突然ごめん、今井琴音です」

「今ポンどうしたの?」

「いや、全然たいした話じゃないんだけどね、少し思い出した事があって」

「もしかして十年前の話?」

「うん」

 返事をしてから、こんなことで電話をした自分が少し恥ずかしくなる。

「あのさ……、ボウリング行ったの覚えてる?」

「ボウリング?」

 私の突飛な言葉に、電話の向こうの和泉君はきっと首を傾げているだろう。

「私と和泉君と文ちゃんと高瀬さんの四人で」

「あー、なんかそんな事あったね。あの古いボウリング場でしょ」

「あの時って、なんで高瀬さん居たんだっけ?」

 私と和泉君と文ちゃんの三人ならわかる。

 あの夏、あの事件が起こるまではよく一緒に居た三人だったから。

「なんでって、今ポンが誘ったんじゃないの?」

「私が?」

「だって、あのボウリングだって、確か今ポンが行こうって言い出したよね?」

「そう、だったっけ」

「他に言い出しそうな人いないでしょ」

「そう、かも」

 和泉君の言う通りだ。

 インドア派の私たちがわざわざボウリングになんて行くとしたら、誰かが言い出したからで、四人の中でそんな事を言うのは私しかいない。

 少し考えればわかるような事を、どうして忘れていたのだろう。

「そうだ、今ポン」

 思考が鈍る私に、和泉君は思い付いたように声をかけた。

「なに?」

「十年前の真相を調べるなら、資料送ろうか?」

「えっ」

 自分から電話をかけて、違和感などとはしゃいでいたのに、実際に突きつけられると、真相と言う言葉はとても冷たく重く感じた。

「どうする?」

 電話越しに私の戸惑いが届いたのか、和泉君の声には決断を迫るような響きがあった。

 もしくは、勝手にそう感じただけなのかもしれない。

「お願い、できるかな?」

 何故か、私はそう答えた。

 あんなに忘れたかった、あんなに逃げたかった、あの事件に、今更、自分から近付くなんて。

 理由は自分でもわからなかった。

 でも、一つだけ、強引にでも理由を付けるとしたら、今年の夏がそれなのかもしれない。

 あの街に帰れた私。

 結婚までして、変われた私。

 それを証明してみたいと思ったのかもしれない。

私はどこまでも自分勝手だ。


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「琴音さん、お茶に行きません?」

 突然掛かってきた電話は、開口一番、そんな声から始まった。

「関さんだよね?」

 着信表示の名前と声から、それ以外の可能性はないのに、思わず聞いてしまう。

 誠治の同僚の女の子。

 しかし、平日の十一時にそんな彼女から、こんな内容の電話が来る理由がよくわからなかった。

「羽美って呼んで下さいよ」

 もしくは、休憩時間なのかもしれない。

「えっと、週末の話?」

「今日の話ですよ! 半休取ったんですけど、約束してた友達にドタキャンされちゃって」

 跳ねるような声で彼女は言う。

「私でいいの?」

「だから電話してるんですよ。あっ、バレちゃいそうなんで後でまた掛けますね」

電話も、その内容も、まるで突風のようだと思った。


 三時間後、私はどういうわけか、喫茶店に居た。

「突然でごめんなさい」

 一旦、家に帰ってから着替えてきたらしい彼女は、華美過ぎないが十分に可愛く見える、小洒落た格好で私の向かいに座っている。

「この前、電話番号しか交換してなかったから、電話するしかなかったんですよ」

 私が聞きたいのはそこじゃないんだけど。

「あっ、お昼ってもう食べました?」

 彼女はメニューをこちら側に向けて、テーブルの真ん中に広げる。

「うん、軽く食べたよ」

「私まだなんですよ、ランチってまだ大丈夫かなぁ」

 言うが早いか、彼女は手を挙げて店員を呼んだ。

「あの、ランチプレートってまだ大丈夫ですか?」

 二、三言葉を交わし、彼女は注文を決めたようだった。

「琴音さん決まりました?」

「ホットコーヒーをお願いします」

 店員が注文を復唱し、背を向けるが早いか、彼女は広げたメニューを畳んで、身を乗り出した。

「連絡先交換しません? メールアプリの方の」

「いいよ」

「これで、もっと気楽に連絡取れますね」

 スマホを慣れた手つきで、操作しながら彼女は言う。

「どうして、私を誘ったの?」

「言ったじゃないですか、私あんまり友達いなんですよ」

 垢抜けた彼女は、そんな自己申告とは裏腹に、交友関係が広そうに見えた。

「それに、琴音さんも安心じゃないですか?」

 友達登録を完了した彼女はスマホを仕舞う。

「安心?」

「大川さんってモテそうですし、職場に友達がいた方がよくありません?」

 彼女の言いたいことを瞬時に理解する。

 でも、それは杞憂にすらならないと私は知っていた。

 誠治は絶対に、そんな事はできない。

「誠治は大丈夫だよ」

「新婚さんは、やっぱりラブラブですね」

 微笑んで、彼女は言う。その言い方に不思議と嫌味な感じは受けなかった。

「羽美さんは彼氏とかいないの?」

「今は居ないんですよ、私って男運悪くって、長く続かないんですよね」

 彼女の恋愛遍歴を聞いている間に、注文が来る。

「わぁ、可愛くないですか?」

 値段の割に量が少ないそれを、彼女は嬉々として写真に収めた。

 友達と評するには、少し奇妙な関係の、夫の同僚とのお茶。

 会話は比較的当たり障りのないものを選んで進められ、彼女の社交性も相まって、話題が途切れる事はなかった。

「はぁ、私も素敵な人と巡り会いたいなぁ。大川さんと大学が一緒だったんですよね?」

「大学の頃は知り合ってないけどね。少なくとも誠治の方は私の事認識してなかったんじゃないかな」

「じゃぁ、琴音さんは狙ってたとか」

「そういう訳じゃなくて、ほら、誠治って大きいから目立つでしょ」

「あー、背高いですよね。社内でも目立ってます」

「それに、確か、大学の頃、誠治には彼女がいたし」

 話しながら思い出す。

 グラウンドを走る誠治の姿と、ベンチに座って、それを見守る女性の後ろ姿。

 軽く脱色された茶色の髪は、腰までストレートで伸びていて、耳に付けた三日月のピアスと一緒に風に少し揺れていた。

 私はその景色を歩きながら、遠目に見ていた。

 何故か、その場面だけが鮮明に記憶に残っている。

「略奪愛とか?」

 私の言葉に、何故か彼女は目を輝かせた。

「いや、社会人になって会った時には、もう別れてたと思うよ……あんまり、昔の話とか聞かないから、詳しくはわからないけど」

「えー、残念」

何が残念なのかわからない。

 略奪愛なんて、そんなのドラマや小説でもあんまり好きなジャンルじゃない。

「羽美さんはそういうの好きなの?」

「他人の話なら好きですよ、非日常感あってドキドキしません?」

「私はあんまり、どうやったって幸せになれなさそうじゃない?」

「それがいいんじゃないですか、苦悩と葛藤を抱えながら、諦めきれない気持ちとドロドロの愛憎とか」

 心底楽しそうに彼女は話す彼女は、確かにそういったドラマの世界の住人に相応しいような気がした。

 

 コーヒー一杯で随分と居座った喫茶店を後にして、出口で彼女とも別れる。

「今日は、突然だったのにありがとうございました」

「こちらこそ、色々話せて楽しかったよ」

 彼女と私は、背を向けそれぞれの方向へと歩き出す。

 そう言えば、今日は九月最後の平日だった。

 吹く風に肌寒さを感じて、ふと、そんなどうでもいい事を思い出した。 

 

「今日、関さんと一緒にお茶したよ」

 帰ってきた誠治に何の気なしに報告する。

「そう言えば彼女半休取ってたな。なんでまた、琴音と」

 息苦しそうなシャツを脱ぎながら、誠治は首を傾げた。

「なんか、友達との予定がキャンセルになったとかで」

「それで、琴音ってなるか?」

「それは、私も思った。まぁ楽しかったよ」

「それなら、よかったな」

「会社での関さんってどんな感じの子?」

「どんな……まぁ、世渡りは上手いかな」

 誠治が微妙に言葉を濁す。

 でも、言いたいことはわかった。

 会社に一人はいる、人を使うのが上手いタイプ。

「悪い子じゃないとは思うぞ」

 フォローするように誠治は付け加えた。

 私は、口から出かけた「そうだといいね」を飲み込んで、頷いた。


 週末がやって来て、九月が終わる。

 つい、一ヶ月前までのむせかえるような暑さが嘘のようで、それは私の生活とどこか似ているような気がした。

 新生活は思いの外上手く行っている。

 住む場所が変わって、苗字も変わって、人間付き合いも変わった。

 私もきっと変わっていくのだろう。

 変わらないのは過去だけで。

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