第2話 緑(2013お題:緑)
落ちた影の行く先は、水平線の彼方にあるように思われた。追跡すべくのぞかせた潜望鏡の先で、彼は波間へ目を光らせる。
水面を裂いて飛び上がったとびうおは胸びれにはらませた風に乗り、空高く舞い上がるとずいぶん前から潜望鏡の狭い視界を抜け出していた。上層部は先回りしろとうるさいが、傍受する風の話は自由気ままで先が読めない。読めないならトビウオの行く先も知れず、事はそうたやすく運ぶようなものでなかった。
「一体、どこへ向かっているんでしょうね。着地点さえ分かれば確保も容易いのに」
手立てを失い持て余した時間をつないで誰かが、何ら解決しそうにない疑問を口にする。
「分かっていたら、俺たちの出番こそないよ」
いつものことだと別の誰かもあしらっていた。
「因果な商売だね」
「そういうものさ」
「我々はいつ、この任務から解放されるのだろうか。家の者がうるさいよ」
「くさることなかれ、諸君。我々はいつだって解決してきたじゃないか。そう、空と海が混じることなく住処を分けるようにね。何より我々が安全を体現している」
「いや」
彼が冗談のような声を上げたのは、その時だ。
「いっそ、とびうおを撃ち落とせばいいのさ」
それが誰もを驚かせたことは言うまでもない。
「行き先が分からないなら、俺が決めてやる。境界を越えた無法者に教え込んでやるんだ。それで全ては解決する」
そもそも魚は水中を泳ぐものであって、滴の話を聞いたところで風の話に身をまかせるなど許されることではなかった。だからして理解し難く混乱は訪れ、そうして苦しめられているからこそ彼の言う攻撃の正当性は否定し難いものとなる。いや非の打ちどころがなかった。
「排除だ。今日こそ引きずり下ろしてやる!」
言う声が、ことのほか大きく響く。
それからの動きはとにかく素早い。彼は迷わず艦の浮上を命じ、もちろんそれは彼にとって初めてのことだったが、気圧され仲間も何の権限もないその指示に動きだす。すぐにもタンクから水は吐き出されて艦は浮上を始め、あいだにも彼は掴み上げた銃をたすき掛けと体に沿わせた。
やがて船体は波間をかき分け、クジラのようにのっぺりした背を白昼に晒す。
「こんなことをしてもいいのか?」
そのとき吐いた誰かの言葉はもう手遅れで、今まで聞いたどの言葉よりも間抜けと響いていた。だからして彼の手ももう、頭上へ伸びる梯子を掴んでしまっている。梯子もその気で彼を待つと、外へ向かい伸びていた。
「この行為は究極だ。まっとうして賞賛されこそすれ咎められるはずもない」
言い放った彼がグイ、と体を持ち上げる。梯子を蹴り上げ抱く意思そのものと、固い音を誰もへ浴びせた。
上り詰めたそこでハッチを開く。海の香りは吹き込んで、波の音とはちぐはぐな空は彼の視界一杯に広がった。真上なら潜望鏡からでは見えまいて。彼はそこに飛ぶとびうおの姿を、初めて肉眼で確認する。胸びれを広げ堂々としたその姿はまったくもってふてぶてしかった。
睨みつけ、艦上へ躍り上がる。背に回した銃を手繰り寄せた。肩紐から体を抜いてその先端を確かめる。そこには緑色のモリが一本、セットされており、奥までしっかりはめ込まれたそれに不発の心配こそないと思われた。
否や、銃床を肩へあてがう。
開いた両足に体重を乗せ、彼はとびうおへ狙い定めた。
引き金を絞った瞬間の反動はことのほか大きい。鈍い音と共にモリは空へ飛んでゆき、その尻につなげられたロープが鮮やかと空へ緑の線を引いて伸びた。
安全で「自由」を撃ち落とせ。
手ごたえは十分だ。
ピンとロープがはりつめる。彼は胸びれにはらませた風ごととびうおを手繰り寄せた。縮む互いの距離に比例して追い続けた影は波間を後戻りし、やがて艦へ黒く乗り上げてくる。
そのとき連なり、とびうおが飛んでいた空もまたグラリ、彼へと傾いた。
果たして空が落ちるなど誰が想像していただろうか。だが彼は怯まない。安全とは、そういうものだ。
傾きたわんだ空がやがて底を抜く。粉々に砕けてとびうおと共に艦へ、ガラス細工と降り注いだ。それきり果てまで止まることなく折れて崩れて、紙屑のように降ると次々、価値を失くしてゆく。
溺れて足元でとびうおが、銀色の体をしならせ跳ねていた。
息苦しげなそのエラに、彼の頬はザマアミロと緩んでゆく。
もろとも世界を、緑のロープで縛り上げた。
縛った緑でそこに新たな水平線を引き、分ける。
空と海が混じることなく住処を分けるように。
緑に死の匂いがまた染みこんだ様子だ。
平和が一際、その色を濃くしていった。
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