あんたいとる!-overture-

不知火ふちか

001

 小学校を卒業する。そんな事柄は、人生においてはあくまでも通過点に過ぎない。

 長い人生の中のたった六年間。一つの校舎に毎日向かって、友人達と無我夢中で遊んだ。それがとっても楽しくて。それが人生における、一つの糧となる。

 しかし、中学生になればそうはいかない。

 自立……とまではいわないけれど、色々な感情の変化を、着慣れない真新しい制服を着ることで感じた。

 いや、感じざるを得なかったのかもしれない。

 卒業式でも、似たような服を着ていても起きなかった感覚とは全く違う。四月というのは始まりの感覚が強いからだろうか、「何かを始める」といういかにもな気持ちに、心が少し浮足立っているのかもしれない。具体的に何かを始めるってわけでもないけれど、すこしだけ意思はハッキリとしていた。

 俺、宮澤みやざわ けいの中学生生活の幕が開く。その初日のことだ。


 これから三年間通う道のりを歩く。外は、三月の名残も全く感じさせないほどにすっかりと春めいていた。日差しは柔らかく、気候も暖かい。入学式にはうってつけの天気だった。その陽気に誘われて、俺の歩みもなんとなく弾んだ。心地よい時間を、一人でゆっくりと堪能した。


 入学式。

 中学に入っても校長の話は長いらしい。黙って聞いてる性質たちでもないので、周りを観察することで時間を潰すことにした。

 新しい環境にはやはり少し緊張している面々。息をするのも慎重になって、校長の声は、静かな洞窟向かってこもりっぱなしの誰かに、説得するようなゆっくりと落ち着かせるような口調だった。

 まあ、初日なんてこんなものだ。一通り周りを見て、履いている新品の上履きをじっと見つめて、校長の自己満足な話を聞き流した。


 入学式を終え、クラス分けされた教室に向かうと、既に小さなグループがちらほらできていた。おそらく同じ出身校のやつらで集まって先ほどまでの緊張をお互いに解していた。自分は席を立つのが面倒なので、閉口して席に居座った。

 それにしても制服を着ると、いつも半袖半ズボンを着ていたやつ、派手な格好をしてたやつなどがいなくなって、誰が誰だかわかりづらい。……なるほど、俺は服装の特徴で誰が誰なのかを見極めていたのかもしれない。

 これからはちゃんと顔と名前を一致させていかないとな、なんて非常に当たり前のことを考えながら一人小さく頷いた。


「ただいま」

 午前中で入学式は終了し、話が盛り上がってそのままどこかに行くやつらを無視して、俺は家に帰った。いつもの昼ご飯の時間はもう少し先だったが、玄関では既に良い匂いが立ちこめていた。

「あ! おかえり、お兄ちゃん」

 声が一つ。居間につながるドアが開いて、妹のまいが出迎えてくれた。髪を一つにまとめて、すっきりとした印象だった。しかし、いつもの私服には、少し違ったものが巻かれていた。

「お前、どうしてエプロンなんか。というか、なんだこの匂いは」

「私ももう高学年だから、料理作るの!」

 嗅覚を刺激していた匂いの正体は、妹が作った料理らしい。恐らく、カレーあたりだろう。スパイシーな香りは、玄関にも広がっていた。

 そんなことよりも、だ。

「母さん、帰ってないのか?」

「え? お母さんはもういないでしょ」

 妹の言っている意味がわからず、一瞬、思考停止した。脱いだ靴を整頓しながら、発言の理由を思い出した。

 そうだ、母さんはいないんだ。

 もともと共働きで家にあまりいなかった。しかし、舞が「いない」と断言する理由は、母は今年度から海外転勤が決まり、日本にはいないからである。父は元々単身赴任で妹が小学校に入学してからは年に数回会える程度だ。

 だからこの家には今、俺と妹しかいないのだ。

「でも、一人で作るのは危ないだろ。俺が帰ってくるまでは我慢してくれよ」

「家庭科でやってるから平気だもん」

「授業のときは先生も友達もいるけどな、家じゃ一人だろ」

「友達は、一人で作るって言ってたもん!」

 小学四年生の妹は、頬を膨らませた。拳をグッと固めてプルプルと身体を震わせて、今にも沸騰したヤカンのように音を立てそうだ。

「一人で作るのは、もう少し大きくなってからにしろ。それに、ずっとここにいるけどちゃんと火消したか?」

「あっ!」

 ハッとして、慌てて妹はキッチンに急いだ。どうやら消していなかったみたいだ。

 これから中学一年生と小学四年生だけの生活が始まるのかと思うと、いささかの不安……いや、とても不安だ。

 これからは俺が家にいる時限定で腕を振るってもらおう。


 通常授業が始まり、部活紹介や委員紹介の時期に入った。やがて仮入部の時期に入ると、周りはどの部活に行くかを思案し、騒がしくなった。俺は何人かに勧誘を受けたが、やんわりと断った。

 部活がしたくなかったわけでも、めんどくさかったわけでもない。ただ、俺よりも先に帰って一人で家にいる妹のことを考えると、どうしても部活に入るのは憚られたからだ。

 二人で過ごすようになってから家事全般は、俺がやることになっている。が、妹が不満を漏らしたため、洗濯物や風呂掃除など、小学四年生できそうなことを色々やらせてやることにした。

 昼食は学校にいつも来る近所のパン屋で買い、晩は俺が作る(妹も手伝ってくれるというか、手伝わせないと腹いせに邪魔をしてくる)。お金に関しては、働いている両親から十分なほどの仕送りがくるので、まったく問題はない。余りあるほどなのだが、俺も妹も、散財するような趣味は持っていなかったので、無駄遣いはまったくしない。使う時は、いつもより高い食材を買ったりすることくらいだった。

 こんな生活が続くと舞が母を恋しがるだろうと思っていた。昔から母さんにくっついていて離れない妹だから、すぐにでも海外に行きたい、母と暮らしたいと喚くのも想像に難くない。しかし、日々過ぎれどそんな素振りはなかった。聞いてみると、

「お兄ちゃんがいるから平気だよ」

 照れることもなく、一切曇りのない笑顔。俺も、舞がいることが心の支えになっている。なんてことは、流石に照れくさくていうことはできなかった。

 近所の人も俺の家庭を理解し、色々と応援してくれているのだから、俺達はそれに応えて手を合わせて生活しようと誓い合ったのだった。

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