俺は彼女を殺すのか

第一章

第1話 夢(1)

 顔の左半分を赤黒く腫らした男の子が泣いているのに気づいて、ああ、いつもの夢だ、とたちばな八尋やひろは思った。

 八尋は鳥のように俯瞰する位置でそれを見ていた。少年は八尋には気づいていない。

 真っ暗な空間にぽつんと一人、少年の姿だけにライトが当てられて浮かんでいるような光景が目の前に広がっている。

 自分が夢を見ていることを自覚したままに見る夢を明晰夢ということを、同じ夢を何度も見ることが気に掛かって調べた時に知った。明晰夢はその内容を自分でコントロールできることもあるらしかったが、今のところ八尋にはそれができそうな気配はない。

 この夢はいつも、八尋のとある記憶をなぞって見せた。ディテールは異なるが、大筋の内容はほぼ、過去実際に起きた出来事の再演と言ってよい。

 小学校低学年くらいの年頃に見えるあの少年は、幼少期の八尋自身だ。

 顔が腫れているのは、何かをしくじったために父親か、あるいは母親に殴られたからだ。

 その折檻が終わった後なのだろう。彼は両腕の袖で自分の目元を拭いながら、必死に声を殺しているが、しゃくり上げる声が漏れてしまっている。

 それじゃあ、怒られるぞ。

 八尋は教えてあげたい気持ちに駆られるが、声は出せず、ただ見ていることしかできない。

 ──うるさい。

 大きな声が空間に響いた。声の主の姿は登場しないが、八尋の両親のいずれかだ。

 少年はその声の大きさに身体をびくりとさせ、虚空を見つめた。気の毒なほどに怯え、恐れおののいていた。

 突然、少年の身体が何かにぶつかったようにはね飛ばされる。張り倒されたのだと八尋は知っている。

 ──おまえが悪いのに泣いてんじゃねえよ。

 ──おまえみたいな出来が悪いやつ、産むんじゃなかった。

 ──謝れよ。バカでごめんなさいって、謝れ。

 この夢をみるたび、何度も聞いたセリフ。だが、何度聞いても、胸が痛む。

「ご、ごめんな、さいぃ」

 少年の八尋が、子供特有の甲高い声を震わせ、声を詰まらせながら謝罪を口にした。彼は横たわったまま自分の頬を手で押さえ、小さく縮こまり、泣くまい、泣くまいと必死に堪えながら、謝罪を繰り返していた。


 やがて疲れ果て、死んだように横になっている彼の元に、一人の女の子がやってきた。

 〝おねえちゃん〟だ。

 ──やひろくん、いっしょに遊ぼう。

 さらさらの黒髪が肩まで伸びている女の子だった。利発さとあどけなさが調和したきれいな顔をにこにことさせて、寝ている少年を覗き込んでいる。年の頃は八尋より三つか四つほど上だったはずだ。当時の八尋にはずいぶんと大人に見えたものだ。

 近所に住んでいたおねえちゃんはいつもこうして八尋を遊びに誘い出してくれた。

 おねえちゃんは、まずは八尋と一緒に出かけることだけを目的としてくれた。変形するほどに顔を腫らし、泣きすぎて目を充血させている八尋のその有様には触れなかった。

 おねえちゃんが意図してやっていたのかはわからないが、そのことに救われていたことはよく憶えている。子供ながら、同情や心配で一緒に遊んでもらうのは嫌だと思っていたような記憶もあるが、今となっては判然としない。

 一緒に遊び始めてからも、おねえちゃんは八尋から事情を話し出すまでは話題にしないし、年下の自分が拙く話す内容でも「うん、うん」と根気強く聞いてくれていた。

 そして、話が終わると、見ているだけで元気が出るような笑顔でこう言うのだ。

 ──やひろくんは、だいじょうぶだよ。

 ──今はできなくても、いつかきっとできるようになるよ。

 ──わたしは信じてるよ。

 ──もし、できないかもしれないって泣きたくなったら、わたしのことを思い出してね。やひろくんが自分で自分をだめだと思っても、やひろくんならできると信じてるわたしを、忘れないでね。

 二人の様子を見ているだけの八尋も、心がじんわりと温かくなる。

 当時の八尋は、おねえちゃんの存在に救われていた。その言葉が、自分を励まそうとしてくれているだけではなく、本気で自分を信じてくれているのだと感じ、感激した。

 八尋はおねえちゃんの笑顔が好きだった。彼女を慕い、彼女に憧れ、彼女がそうしてくれていると語ったように八尋もおねえちゃんを信頼した。

 しかし、八尋は自分を信じられなかった。おねえちゃんが信じてくれるような価値が自分にあるとはどうしても思えなかったのだ。

「うん……。ありがと、おねえちゃん」

 相手を慮ってした返事だと悟ったのか、一瞬だけおねえちゃんの表情が曇る。しかしすぐに笑顔になって、八尋の手を引いて歩き出した。

 笑い合うおねえちゃんと少年八尋の姿が、暗闇の中に消えてゆく。夢の前半が終わる。ここで目が覚めてくれればまだ、旧き良き思い出として処理することができるかもしれないのに。

 おねえちゃんはもういない。彼女が中学校に上がった年、自殺してしまった。

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