来ないで

やいり

第1話 【おかあさん返して】

小学校5年生の夏、私は念願の一人部屋を手に入れました。そんな一人部屋にも慣れたある夜の夢の話です。


私はぐっすりと寝ていたはずなのに、いきなり視界が開けました。はじめは夢かと思いましたが、開けた視界に居たのは眠る私でした。

俗に言う幽体離脱か、はたまた寝惚けているのか。そんなことを考えていると、眠る私のこめかみの辺りから、灰色のドロドロしたものがふつふつと沸いているのが見えました。

そのドロドロは、みるみるうちにかさを増して私の耳に入り込み、視界が真っ暗になりました。

いきなり脳みそを両手で掴まれて揺さぶられる感覚が走ります。くすぐったさと痛みと嫌悪感をごちゃ混ぜにした感覚がすぎさり、目を開けるとそこはワンルームマンションの一室でした。私はその一室に佇んでいました。

目の前には締め切られた窓と、窓に寄りかかるようにして死体がありました。


死んでいることは明らかでした。長い髪と整った爪に薄く塗られたピンクのマニキュアから女性だったと思います。女性は足元に大きな血溜まりを作り、ぴくりとも動きません。


凄惨な現場を目の前にして、私は足がすくんでしまい動けなくなってしまいました。鼻にまとわりつく鉄の匂いが、やけに現実感を帯びていて、とても恐ろしかったことを覚えています。


すると子どもの泣き声が聞こえました。聞こえると同時に、先程まで死体しかいなかったはずの窓際に子どもが現れました。白い服を着た、小学2年生程の小さな男の子でした。

その子は、両目を手のひらで抑えるようにして大きな声でわんわん泣いていました。


「うえええええん、うええええん、おかあさん返してよお、おかあさん返してよお、えええええん」


男の子が泣くと、何故か私の目の前がチカッチカッとしました。おかあさん、おかあさんと泣く子どもの声を聞いて慰めたい気持ちに駆られましたが、その時に声も出ない、そして体も動かないことに気付きました。

そして、視界がチカチカするのは、私の周りを黒い蝶々が舞っているからということにも気付きました。


「ねえ、おかあさん返してよ、どうしてこんなことするの、返してよ、返してよおおお」


子どもの声はどんどん大きくなります。子どもの声に応えるように、私の周りを舞う蝶々の数も増えていきます。頭ががんがんと痛み、音がバリバリと肌に伝わっていました。

余りの痛さに、反射的に顔をそむけました。すると、首だけが動くことに気付きました。


とにかくこの気味の悪い子どもと死体を視界に入れたくなかったので、私は下を向きました。目に入ったのは、私の脚、手、血にまみれた包丁でした。


呆然としつつ、現状を理解しました。血がべっとりと付着し、てらてらと濡れる包丁が私の右手にしっかりと握られているのです。目の前には死体と、子ども。どこからどう見ても、殺したのは私に違いありませんでした。


すると、子どもの泣き声と蝶々がより一層酷くなりました。怒っているのでしょうか、やめて、私は殺していませんと必死に頭のなかで繰り返します。夢だというのはもうわかっていましたので、どうか覚めて欲しいと願っていました。ぐあんぐあんと音が揺れ、視界も揺れてきました。


「お母さん返してよ、お母さん返してよ、お母さん返してよ……」


壊れたおもちゃのようにぐるぐると子どもが繰り返します。やめて、殺してないんやってば!




「殺したよ。」


子どもはにんまり、と笑うと絶叫しました。その音で私は目を覚ましました。ですが、体が動かず、声も出ません。ああ、これが金縛りか。本当に体が動かないのだなあ、なんて考えていると、耳元で



「お母さん返して」




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