第5話 小夜、過去を悼む夜.1【 小夜啼鳥|Nattergalen】

寒い夜、月が昇るまで。夜更けまで。

彰と、一緒にいた時の、過去の話。

小夜と、掠れた声で彼が私の名前を呼んでくれた、最後の夜の話。


人は、億とかの金では死なない。

数百万の金で死ぬんだ。

誰かが言っていた、その言葉を聞いて妙に納得した。


チビチビと、爪に火を灯すような生活を続けながら、百円単位でチリのように積もった借金が、百万を超えた時点で、死を考え出す。十円の金を毎日数えて暮らしている人間にとって、百万を超える金は、命を引き渡したとしても手にできない存在感となる。


ガスが止まり、電気が止まり、水道が止まる。


この、現代で、ライフラインが断たれた瞬間に、生きる気力がなくなるという。まるで、蛍光灯の電気を消すように、紐を軽く引くように、命を絶つ。


金の話なら、上手に理解できるのに、精神の話だとリアルさを伴わないのはなぜだろう。


毎日、ダメージを受け続けて、わずかな感覚情報からいろいろなものを受け取り、傷つきながら生きている人がいる。


彰には才能なんてなかった。

ただ、受像の解像度だけが高かったが、その世界を、つなぐだけの回路と精密な出力機を、彼は持つことができなかった。

それを、自らの腕で、外界に解き放つことができたら、どんなによかっただろう。


大丈夫、私がキミを守るから。


そう私が言っていたことに嘘はなかった。

けど、彰は、守られたくないのではなく、守りたかったんだと気づいたのは、一周忌が終わった後。結局、私は彼を守ることではなく、命を断つ方向へと導いたんだなと、暗い闇を宿したような、晴れ渡った空を見上げながら思った。青は深まると、冥い。


彰は、恐れを抱くと、すぐに私の体を求めてきた。

それでも、私の体を抱くことができなくて、頭を抱えて震えていた。


なにが怖いのか説明を求めても、彰でさえ分からなかった。


一度、私を抱いたくせに。




彰は、視覚から入ってくる情報で様々な情報を受け取ってしまう。


視覚だけで味覚と触覚を誘発しながら、過剰な情報を受け取っていく、受信していく、それが鋭敏な感受性を破壊していくところを、まざまざと見ていた。


何故、彰は画家なんかになったのだろう。


自分の感覚を、研ぎ澄まさなければ、生み出せずに生きる意味を亡くす。

自分の感覚を殺してしまえば、表現する人間として…死ぬ。




もう、絵を描くのをやめてほしい。

そう言った時、そうだな…と優しい笑顔で笑う。

光に消え入りそうな笑顔だった。


彰は、私の頭を撫でてくれた。

いつまでも、彰は、彰でいようとした。その手を取ると、細く白い指が、絵の具にまみれて、風化しかけている彫像のようで。


ガンダーラ仏、悟りを開く前の仏陀の像のようだった。


彰は、私を見て、なにを感じていたんだろう。触った髪の毛と、子供の頃にじゃれあったあの日の、妙な表情。


それを彷彿とさせる表情に、一瞬戸惑った。

彰は、眩暈を起こし、膝をつく。


私にひざまづいて、腰を抱いて泣いた。

絵をやめなきゃダメかなぁ…。


ねぇ、私が、頑張るから、しばらく休んでいて。

一生、そのままでもいい、

だから。


彼は、泣いた。声を張り上げて。腕を噛み、血を滴らせながら。

だめだよね、絵は諦めなきゃと、嗚咽と混じった声で判別のつかない獣が吠えるような声で。




彰はその日から、そのまま、朝日を見て、草木を摘み、木を触り、うつ伏せに草の匂いをかいで暮らしていた。


陶然とした表情は、まるで、この世のものではなく、彰の周りだけ世界の彩度が上がっているようだった。


どんどん、虚ろに、無表情になっていく彰を見守っていた。


ある日、ふたりで秋の枯葉の落ちた芝生に座り込んで夕日を眺めていたときに、久しぶりに、彰が声を発した。


「なぁ、小夜。僕には世界がわかったような気がする。文字がかけるようになったら、その世界について書いてみてもいいかなぁ。文才はないけれど、児童書のよう文章ならかけると思うんだ。」


「うん」


「なぁ、小夜。お前はいつも綺麗だな。」


「小さい時、戯れ合った時、不思議な感覚に陥ったことがあって…。

この歳になって、それが、セックスだってことに気づいたよ。」


「視覚と、触れ合った腕の、掌の感覚だけで、全身の毛穴が開いていくような感覚に陥ってしまった…。」


私は、それを聴きながら、倒れ込んできた、彰の頭を膝の上に抱えながら、彰の頭をなでていた。


私の膝に頭を埋め、シャツの下、背中側から細く棒のようになった腕を差し込む。ひんやりと冷たい掌。


夕日が消え入りそうな日差しを投げていた。微かに動く風。

遠くの喧騒。


背中をなでる彰の手を感じながら、今、彰はどんな感覚をもっているんだろうと思った。


子供の頃に腕が触れただけで、交わった彰が、いま、私にそれを告白し、むき出しの肌に触れている。


背中であっても。それは、むき出しの素肌なのだ。


意図して、触れてはいけない関係性がある。子供の頃の禁忌は、大人になった今でも、それは変わらない。


彰がたどる力無い指の奇跡は私の横腹を通り過ぎ、汗ばむ脇を通り抜け、心臓の鼓動に近いところを這いずり回る。


深海に生きる生物が、暗闇の中で触覚だけを頼りに、蠢いているような動きだった。


ねぇ。いいよ。


彰にその声が聞こえたかどうかはわからない。


すでに、彰は私の中に、この世ならざる快楽しか見出していなかった。


どこか、遠くの世界を見つめているような、瞳孔が開いているような目。


彰にとっての快楽とは。


彰にとってのセックスとは、ぬめりをもつ私の中に入っていくことではないのか…。


そう考えたのだが、私が這わせた指の先、彰のそれは、準備を整え始めていた。


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