第3話 サンドイッチ【 小夜啼鳥|Nattergalen】
小夜さんが、足早に戻ってきたのは、少し昼の時間を過ぎてからだった。
額と首筋に後れ毛が張り付いている。
息を殺しているが、かすかに唇が開いている。顔が赤い。走ってきたのかもしれない。
ルコの目を気にしながら、小夜さんの姿を横目で追う。
愛だね!愛!
ルコの口癖が脳裏によぎる。うるさい…だまれと、頭の中で毒づいてみるが、現実にそんな口をきいたことはない。
係長の前に立ち、頭を下げている。
係長は、苦々しい顔でモニターから目も離さずにぞんざいに説教をする。
5分休憩時間を過ぎただけで、30分の説教。
ルコが、モニターの向こうから、目配せをする。
LINEのメッセージが届く。
杉本係長、なんか小夜さんを逆恨みしてるみたい。
おととい飲んだ後ホテルに連れ込もうとして断られたんだって…。
小夜さんさ、パートだから、今度社員に上げてあげるからって。もう、気持ち悪くてゲロ吐く!ゲロゲロ。(カエルのスタンプ。)
ふられてカエルとき、お前パート外すからな!クビだクビ!って叫んでたんだって。生物としての器!(笑)みじんこのお茶碗くらいじゃんね?
誰がみてたの?
え?
人の噂とかさ…。
実は、みてたの…。ワ・タ・シ。
そして、(カエルのスタンプ。)
ゲロゲロ…。頭を抱えた。噂を流す気満々の彼女のよく光を反射する大きく見開かれた好奇心に満ちた瞳がモニター越しに見えたから…。
次に届いたLINEのメッセージ。写真添付。叫んでる係長の顔と、無表情にそれを眺める背筋の伸びた小夜さんの写真。
5分の遅刻+30分の説教+お茶の要求。お茶を小夜さんに要求することで、許してやったという体裁をとりたかったらしい…。
ルコが給湯室で同僚の舞子と話していた。
「まぁいい。お前、お茶入れてこい!それでこの話はもうなしだ!」だって?男気見せたつもりなのかねぇ〜?そもそも、5分遅れたくらいで30分の説教?偏執狂だよねー!
舞子は、目が細く、いつも笑ったような口角が上がってる子で、かすかに頷きながらルコの熱弁を聞いていた。きっと、その義憤に燃えているのは、この事業部で、ルコと舞子くらいなものかもしれない。
いや、実は、舞子も、微妙なバランスをとっている子で、どの派閥にも属さず、誰の悪口も言わず、ただ、ニコニコと話を聞いているだけで、取り立てて意見があるわけでもない…。
実質、ルコ一人。
と、僕…?
小夜さんは、孤立してるというよりも四面楚歌。
杉本係長のあの説教も、当然の事として部署内全体が受け入れていた。
ルコの作戦は、見事に失敗するだろう…。
「小夜さんさー、やる気ないんだったら早く辞めればいいのにー…」みんなが、そう囁いているのが聞こえるくらいの濃密な空気感…。
小夜さんは周囲全て敵に回している状態だった。
美人で、相手を見下し侮蔑するように嘲笑う。
しかも、彼女は、パートで…。
実は、社員よりも仕事ができた…。
一年入社が早い先輩の久福木さんなどは、小夜さんに無茶な仕事を押し付ける常習犯で、社内報の原稿を依頼されていたが、締め切り前日まで手をつけず。終業ギリギリの16時に、小夜さんにその仕事を投げた。「社内報なんて評価にも繋がらないし、やる意味無くね?」そう公言して憚らない人だった。
「ねー小夜さん。
ごめん!これ、明日までに原稿4000文字なんだけど。お願いできる?
営業二課の部署紹介なんだけど。最近の面白い話、織り込んでうまいこと、まとめておいてよ。」
「何時までですか?」
「朝いち!ごめん!埋め合わせはするから。」
久福木さんが埋め合わせをしたところを一度もみたことがない。
彼は端正な顔をしていて、ちょっと気だるげに見える無精髭。
長い手足で細身の体。女子に特に人気の先輩。上司にも上手に気に入られるすべを身につけている。
小夜さんに断られることなど、微塵も頭の中にない。
翌朝、400字詰め原稿用紙10枚の形式でプリントアウトされたものが机の上に乗っていた。付箋に、メールで文字データともし使われるのであれば、画像データを添付しております。の文字。
久福木先輩の出社前だったので、興味があり、小夜さんが周囲を掃除している間にこっそり手に取った。
ビジネスマンは、よほどのことがない限り、創造的な文章を書かない。
ビジネス文書のフォーマットに沿って項目を差し替えながら要領よく、こなしていく。企業へのお礼状であっても、レポートであっても、型式があって…。
彼女が書いた4000文字は、ため息が出るほどよくできていた。僕の感覚では美しかった…。
営業二課の部署の、直近の出来事や向かうべき方向性と、季節を織り込んで、実際にあった出来事で顧客とのやり取りが記されており、情感豊かに、この部署が表現されていた。そして、最後に注釈。引用の記載。データの出どころもきっちりと裏付け資料…。
唸った。
うっとりと見入っていた僕に、小夜さんが、「ダメです。」と言いながら。原稿用紙を奪い取って、クリアファイルにすとんと落とし込み、久福木先輩の机に勢いよく、平手で叩きつけるように置いた。
僕の目を睨みつけるようにしながら。
その文章は、小夜さんの文章ではなく、久福木先輩の文章として、社内から高い評価を得る事となった。
女性の反応を含めて、彼のステータスだけが上がった。
彼はそれ以来、文章がかけなくなった。
「天才は書かないのよ?貴重な才能ですからねぇ…」と、おちゃらけながら先輩はするりするりと要領よく逃げ続けた。
小夜さんは、淡々と他人が押し付けた仕事を、背筋を伸ばしてこなしていた…。
そんな喧騒にも我関せず。
彼女のスタンスは崩れることはない。
総務部へ行く通路ですれ違った時、声をかけた。きっと小夜さんは、褒め言葉を欲してはいない。だから、一瞬で答えられるように端的に聞いた。
「ね、あれ、どれくらいの時間で書いたの?」
小夜さんは、すれ違いかけた足を止め、頰だけをこちらへ見せながら言った。「一時間程。会社の仕事は、業務時間内に終わらせます。残業多くなると、パートは切られてしまうので…。」
一ヶ月ほど前の事だった。
小夜さんが、長い説教から解放され、お茶を杉本係長のテーブルに置いて、一礼。自分の席に戻ってきた。
椅子に腰掛け、背筋を伸ばし、軽く握った手を膝に置き、深く深く息をすいこみ、吐いた。集中する前の彼女の儀式のような癖。
その時に、微かに、小夜さんのお腹が鳴った。
彼女の動きが一瞬止まった。
忌々しそうに両目を強く閉じ、軽く俯いて「くそ…」と毒づいた。
昼休みに買ったのだが、小夜さんを尾行してて食べられなかったパンがあった。
コンビニの袋の中から、掴み出したそれを、モニターから目を離さずに、小夜さんに片手で差し出す。
「サンドイッチ。卵大丈夫?ハムとチーズ…食べられるのであれば…。」
受け取るのかなと、緊張して手を伸ばす。目を見ることができない。
愛だね、愛!と、ルコが、また妄想で茶化す。
小夜さんの細い指が、サンドイッチを掴む。
少し、冷たい指が触れる。
ひんやりとした、その感触。
ずっと覚えていられるくらいに印象的な、安らかな死体のような冷たさだった。
「ありがとう。」
僕は、目をモニターから離して、多分、驚いたような視線を向けた。
彼女は、モニターを見つめ、作業しながら言った。
「生理用品、隠された…。
ちょっと、手持ちのお金もなくって…。
足に血が伝い始めたんだ…。
多い方だからさ。私…。」
作業をしながら、淡々と小夜さんが呟く。
今度は、僕のハラが鳴った。
小夜さんが、顔を動かさず、視線だけで上目遣いで僕を見る。実験動物を観察するような視線。
みるみる僕の顔が赤くなっていく、自分でも耳の先まで熱くなっていくのがわかる。
彼女は、僕から視線をはずさずに、頬張り咀嚼しながら、歯型状に千切れたサンドイッチに目を落とし、ごめん。半分食ってしまった。と言い、三分の一くらいを千切って、僕に差し出した。
手のひらサイズの…。
僕はそれを受け取り、「すみません。」と言いながら食った。
彼女は、サンドイッチを飲み下すと、大きく深呼吸、息を吐ききった後、無言で作業に戻った。もう、彼女は僕らとは違う世界に行ってしまって、声をかけることさえ憚られた。
僕も、顔を赤くしながら、口の中のサンドイッチを惜しい気持ちを抑え込みながら飲み込んだ。味はしなかった。
ルコがいつまで噛んでたんだよ!変態かよ!さっさと食え!と、また想像上で僕を罵ってきた…。
変態かもね…。モヤモヤした思いでパソコンに向かいなおした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます