令和よりの使者
おがわはるか
第1話
じっと、畳の目ばかり数えていた。
すり切れた畳の部屋。その上に座布団をしいて正座をして、うつむいていた。
向かい側には、背が俺の半分もないだろうと少女が座っている。白いブラウス。水色のスカート。スパッツを履いた、どこにでもいる少女。ひとつ普通の中学生とちがうとしたら、べらぼうに囲碁が強いことだ。肩まである黒髪をぎゅっと一つに縛っている。彼女も動かない。ただ、俺と違って俯いてはいなかった。
彼女の目は――俺と、彼女の間に置かれた、碁盤に一身に注がれていた。俺たちの。最後にして最高の目標の。囲碁のプロ棋士になるための、最終戦の碁盤に。
自分の視線が存外ぶしつけだと気付いて――さりとて、自分にとって惨事以外の何物でもない、碁盤に目を戻すこともできず――僕はまた畳に目線を落とした。随分張り替えられてない、茶色い畳。院生師範に叱られて、何度も涙を落とした畳。
その畳に、叱られてもないのに、ぱたぱたと涙のしずくがおちる。
対局相手の彼女は、少し驚いたようだった。たしかに、20に手が届くような男の涙なんて。見る機会はないだろう。
ぱたぱた、ぱた。碁盤から目をそらした俺の涙は、畳に落ちるばかりだった。
序盤は俺が優勢だった。中盤でも優勢だった。油断したんだ。普段は彼女に負けることなんてない。序列も随分俺の方が上だ。
そう、たった一手、ミスしただけだ。
ミスだって向こうのほうが多い。右辺だって左下だって、俺ならもうちょっとうまくやれる。
そう思っても……彼女のミスは、大勢にさして影響はなく。
俺のしたミスは、致命的なものだった。
院生――プロになるための、養成機関の手合いではほとんど負けたことのない相手。プロ試験本戦でも、今の順位は5位かそこらくらいだったんじゃないだろうか。俺がここで勝ってプロ入りを決めれば、彼女には女流枠がある。
5位なんてがんばったね、来年はきっと大丈夫ね、そんななぐさめをかけてもらえるような、女の子。俺相手にこんなに地力を出さなくてもいいのに。と言い訳ばかりを考える。
視界がぼやけて彼女の姿がゆがみ、やっと俺は自分が涙していることに気づいた。ぽつり、ぽつりと涙の粒が、固く握ったこぶしの上に落ちる。
俺は、負けたのだ。こんな年下の女の子に。
俺は、負けたのだ。負けられない最終戦で。
俺は、負けたのだ。今年はプロになれると太鼓判を押されたのに。
俺は、負けたのだ。
「まけ…ました…っ」
泣き声に近い敗北宣言に、試験会場が、他の参加者がどよめいたのを感じる。
「あ……ありがとう、ございました」
少女はぺこりと頭を下げた。彼女も俺と同じくらい、信じられないという表情をしている。勝負に参加していない者たちが、ひそひそと囁く。
「あれ……Aクラスの人だよね? 」
「今年本命だって…」
「相手は? そんな強いの? 」
「あれ?これで負けたら、プロ入りは……」
昨日まで、俺は1敗しかしていなかった。20戦近く戦う中で、である。
同じように1敗している奴がもう一人いて、そいつとの直接対決は俺が勝っている。だから、今日彼女に勝っていれば俺がプロになれるはずだった。
5歳のころに碁を覚え。小学生のころからプロを目指し、高校も行かずに勉強をし、すべてを囲碁にささげたつもりだった。
それが、今日水の泡になった。
いてもたってもいられずに、手早く碁石を片付けて試験会場を飛び出した。最終戦だ。終わったら帰るだけだったんだから、責められることはなにもしていないはずだ。これから何度もプロを目指すチャンスのある彼女に、懇切丁寧に教えてあげる義理はない。
そう、怒られるようなことは何もしていない。後悔することも何もしていない。
勝負に負けた、ということ以外は。
令和よりの使者 おがわはるか @halka69
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