No.6 舌とはねと夏の日

万年筆のインクが固まったからぬるま湯につけた。

溶け出していく深く濃い青、ブルーブラック。


遠くで女性教師の声が聞こえる。

あの日、私はブルーブラックを知ったんだ。





「……いいですか、来週の英習字検定の時には

 必ずブルーブラックのインクを

 持ってきてください。

 ブルーブラックと言うのは……」


それからすぐにやってきた夏休みを

私はマルセーロと過ごした。

セーロは私の二つ下のハトコだ。

私の父と彼の母がイトコ同士、

日系ブラジル人でしばらく東京に住んでいた。


私たちは夏休み中、

あれもこれもいろんなことを話し合った。

アマゾンを横断する蝶の事は

セーロが教えてくれた。

それが何色だったか覚えていないのだけれど、

私は今も時々、そんな蝶の夢を見る。


ほとんど毎日のように出かけたりもした。

家から住宅街の坂道をどんどん下りていき

市ヶ谷の駅から電車に乗る。


坂道の一番下にはモリヤさんのお家があって

裏庭にはフェンスが張り巡らされていた。


暑い夏の午後、

目の前はもう市ヶ谷の駅だったけれど、

行きも帰りも

私たちはモリヤさんの角で立ち止まる。

お決まりのご挨拶をうけるためだ。


耳をすませているとすぐにそれはやってきた。

小学生の私たちよりも巨大な犬、

真っ白なチャウチャウ。

足音を聞きつけては現れ、

フェンスに伸び上がって尻尾を振る。


「セーロ、この犬何か知ってる?」

「チャウチャウ、だよね」

「そう、チャウチャウだよ。

 でね、チャウチャウの舌って何色だと思う?」

「……」


前足をフェンスにかけ、犬は私たちを覗き込む。


「チャウチャウの舌の色ってね、ブ」


向き直って説明を始めた私に

セーロが顎をしゃくった。


「?」

「これ」


ハアハアと、巨大な犬が巨大な舌を出していた。


「そう、これだね……。

 セーロ、この色はね、

 ブルーブラックって言うんだよ」

「へえ、ブルーブラックねえ」


二人でまじまじと犬の舌を見た。

それは、私があの日持参したインクよりも

青味がかっていた。


強烈な日差しの下で見るその色は、

じんわりと影に滲むようでもあり、

妙に鮮やかなような気もした。


その夏、私たちはブルーブラックの舌を

確認するのが日課になった。

電車に乗らない日もチャウチャウを見に行った。

舌を出してくれるまで待って、

うなずいては家へ戻った。

深い青が、

いくつも私の中に塗り重ねられていった。





今、目の前で溶け出したブルーブラックは

あの夏の遠い影だ。

ゆっくり滲んで薄まって、

チャウチャウの青になる。


セーロ、やっぱりインクはブルーブラックだよね。

だって、あのチャウチャウの舌だもんね。


一人の午後に私は呟く。

漂い広がる青が揺らめいて、

今度はきらりと輝いた。


あ。はね。


青はさらに軽やかになり、

ふわりと水中に舞い上がった。

夏の日は遠くなったけれど、

私は新しい発見をした。


だからあの日と同じように、

大好きなハトコに、

また教えてあげたくてたまらなくなった。


ねえ、チャウチャウのブルーブラックの舌からは、

影を脱ぎ捨てたアマゾンの青い蝶が

飛び立つんだって、知ってた?




夏を彩る青は、いつまでも色褪せない。

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