第30話・若さまたち、幽世から現世へ帰ること
いつだったか、千徳が自分たちに言っていたことを総次郎も忠郷も覚えている。
上杉謙信というのはとにかく酒ばかり呑むらしい。
戦場はおろか、馬の上でも酒を煽っていたというのだからもはや好きの度合いを超えていると総次郎は思う。
「うちはみんなとにかく酒を呑むから、お酒が嫌いって人はうちでやっていくのは無理だろうなあー。ああ、うちの宴会では一芸が必須だからね。一発芸! 昔それを断って謙信公に殺された人とかもいたらしいよ。酒宴には出し物はつきものだから」
付喪神というのはおそらく持ち主に似るのだろう――大広間は大酒飲みを主人に持った刀の付喪神たちの呑めや歌えの大騒ぎが繰り広げられていた。
その賑々しさを尻目に、忠郷と総次郎の視界の端では脇差の付喪神たちが一人の男を心配そうに介抱している。
次から次へ永遠に盃に注がれ続ける酒を全て平らげた挙げ句、投扇遊びで派手に負けて着物を脱がされ、もはや身ぐるみ剥がされた無残な敗者の成れの果てがそこにある。
死ぬほど酒を飲む二人の主人のおかげで加減を知らない付喪神に酔い潰された保科勝丸は、既に屍のようにぐったりとしていた。
「ちょっと! いい加減しっかりしなさいよ! さっさと起きなさいってば!」
忠郷は目の前に転がる無残な自分達の護衛役に何度も蹴りを入れたが、それはぴくりとも動かない。彼は黄金色の扇を握り締めたまま付喪神の膝の上に顔を突っ伏して潰れている。身体に掛けられた着物は腰刀たちのせめてもの哀れみだ。
「あ~あ……こいつ、もうピクリともしやしない。死んじゃったんじゃない?」
火車が前脚でユサユサと勝丸の頭を揺らすと、膝を貸す付喪神が「こら」と声を掛けた。
「やめよし、丹ちゃん。みんな……ほんま飲ませすぎや。少しは加減せな」
「ひどいよねえ、太刀の奴ら。飽きたらさっさとこのおじさん棄てちゃってさあ」
そう言って賑やかな上座へ目をやるのは行平の脇差の付喪神だった。太鼓や琵琶で賑やかな上秘蔵の面々が黄色い声を上げて盛り上がっている。
「――すっかり酔い潰されましたな、可哀想に」
不意に背後から声が聞こえて総次郎と忠郷は振り返った。見たことがある人物が立っている。
「あらっ……ねえ? ちょっと……」
忠郷が着物を引っ張ってくるので、総次郎はそれを思い切り振り払った。
「……なんなんだよ、鬱陶しい!」
刹那、大広間が水を打ったように静まり返っているのに気が付いて、総次郎も忠郷も周囲を見渡した。
どんちゃん騒ぎに興じていた刀達は景光以外の全てが姿勢を正して全員この付喪神に頭を下げている。
総次郎は改めて目の前の付喪神に向き直ると、彼をぎろりと睨みつけた。
「薬は飲ませたよ。まったく……どうせ秘蔵の連中がばかすか呑ませたんだ」
「まったく仕方がないな……申し訳ありません、お客人。何分当家の名物たちは主人が大酒飲みなので、加減というものを知らんのです」
片山一文字の付喪神二人から着物を受け取ると、勝丸は頭を振って声のする方を見上げた。
「……お前さんが、ここのまとめ役かね」
彼は僅かに笑うと、「草間一文字と申します」と言った。
「いやあ……どうも、面目ない。酔い潰れるなんてのは万事てめえの失態ですよ。まったく……上に知れたら怒られるぜ。これでも護衛役なんだから」
「主務殿には当家の御曹司がいつもお世話になっているというのに、ろくなもてなしも出来ず申し訳ありませんでした。帰り道を案内させましょう。下界へお戻りになってぐっすりお休みください。どうぞ良い夢を……」
おい、と背後に声を掛けるとそこに現れたのは水神切り兼光の付喪神だ。
「ささ、どうぞどうぞ。早くお帰りになってぐっすり休まれた方がいいですね。いっぱい寝ないと早死しますよ、人間なんて。これは経験上絶対に自信があります」
水神切りに肩を借りて勝丸はよろよろと立ち上がる。まったく、本当に呑みすぎた。
「霊水をどうぞ土産にお持ちください。飲めば少しは酔いが覚めて楽になるはずだ。あなたは明日もお役目がおありでしょうから」
お二方もどうぞ――草間一文字が笑って頷く。
「結局、千徳の奴は来なかったわね」
「ああ、あいつも帰りはご一緒致します。すぐ外で皆さんを待っていますよ」
「ささ、皆さんこちらです……」
そう水神切り兼光に促され、三人が大広間を後にしようとしたその時だ。
辺りに低い音が鳴り響いた。どん、どんという地の底より湧き上がってくるような大きな陣太鼓の音。
付喪神達が皆々表情を強張らせて顔を上げる。
「――さあ、野郎ども総触れだ! 支度をしろ! 今宵は満月、主上がお渡りになる!」
声に驚いて総次郎と忠郷が振り返ったが大広間の襖はぴしゃりと強く閉められ、そのまま二度と開かなかった。
「ああー! 本当にみんなも来てたんだ!」
僕が市と二人で渡り廊下で待っていると、向こうから水神切りが歩いて来るのが見えた。勝丸が具合悪そうに水神切りに寄りかかって歩いているのがわかって、僕は慌ててみんなに駆け寄ったよ。
「ど、どうしたの勝丸! 具合が悪いの?」
「申し訳ありません、若さま。どうやら秘蔵の面々が相当酒を呑ませたようで……」
うわあ――僕は悪い予感が当たって勝丸に頭を下げた。
「うちのみんながごめんね、勝丸。大丈夫? みんなお酒が大好きだからさあ……何かにつけてすぐ呑みたがるんだよ」
僕はまだ元服前の子供だということでお酒は禁止されているのでさすがに付喪神達から呑ませられるということはないけれど、とにかくうちの付喪神達は姿に関わらず全員が酒ばかり呑んでいる。父もお酒が大好きだから、幽世へやってくると早速酒盛りが始まるのさ。
「……こりゃあ今日の仕事は止めだ止め。お前らもさっさと帰って寝ろや。明日寝不足になっても知らねえぞ」
「ねえ、千徳? さっきあんたんちの付喪神が今日は《総触れ》とかって言っていたわよ。一体何なの?」
僕は元来た廊下を戻る道すがら、みんなに説明してあげた。
総触れというのは、うちの付喪神達が幽世で自分の持ち主である父を出迎える、一種の恒例行事みたいなものだ。
父は僕とは違って霊夢を見る体質ではないので、月の霊力が満ちる満月の晩にだけ呼ばれて幽世へ来るらしい。
そうしてその度に付喪神たちが全員で挨拶をする――これが、総触れ。
「付喪神なんて連中はさあ、みんなわがままで我が強くって、自分が自分がって性格だからちょー厄介なんだよ。誰だって自分が持ち主に一番大事にされたいんだ。そんな奴らがあんなに大勢集まってわちゃわちゃしてるってんだから、そりゃあもう……こんな所へ呼ばれる持ち主も大変だと思うよ」
「そうなの。とにかく大勢いるから大変なんだよ。みんながみんな仲良しってわけでもないし、僕も苦労してるんだ。父上もさあ、満月の次の日はめちゃくちゃ寝不足なんだって。いつも眠たそうにしてるよ。それってここでどんちゃん騒ぎをしているからだよね!」
「お父上が来るなら、あんたも一緒にいればよかったのに」
なるほど、確かにそれもそうだ。
市と仲良くなったり、学寮で色々と調べものをしていること――話したいことは山程ある。
だけど、僕は忠郷にきっぱりとこう言った。
「いや……それはいいの! 父上には会わなくても」
「あら、どうして?」
「父上に会うために自分の持ち場をいつまでも離れているわけにはいかないからね。僕は今、学寮に出仕している最中なんだからさ。早く戻らないと」
そうだよ。こんなところでいつまでもどんちゃん騒ぎなんてしていられない――僕は傍らの市を振り返って頷いた。
せっかく猫又の情報も詳しく聞いたのだし、南の御殿の事件と合わせてもっと何かいい方法を考えなくては。
市は忠郷とも総次郎とも初対面だから顔を頭巾で隠していたよ。特に頭から生えている猫の耳は見られたくないらしい。二人や勝丸にも自分のことは紹介しないでほしいということだった。
見知らぬおなごの姿に忠郷も総次郎も不思議な面持ちでいる。うちの付喪神とでも思っているのかもしれない。
「では若さま、いつものようにこの扉の先の廊下をずうっと歩いて行ってくださいまし。手前はおひいさまをお屋敷までお届けに上がります」
「わかった。頼むね、水神切り!」
「……持ち主がここへ来て付喪神全員が挨拶をするってのに、お前は俺たちなんか見送ってていいのかよ?」
総次郎にそう尋ねられると、水神切りは自嘲気味に言った。
「ご心配痛み入ります。ですが手前は秘蔵の方々とは違い、今のご当主さまの刀ではないのですよ、総次郎さま。手前の持ち主はただの陪臣です。それゆえ総触れにも無関係というわけで」
「だけど、水神切りはものすっごい刀なんだよ! 父上もうちで一番よく切れる刀だって言ってたもん」
「はああ……それならば、一体どうして臣下などに下げ渡してしまうのでしょう。まったく、二代目さまは主上に甘いんだから……」
深くため息をついてかぶりを振る。
けれども水神切りはすぐにくたびれた笑みを取り戻して総次郎と忠郷に言った。
「それでは手前はこれにて失礼を」
そう言うが早いか、長船兼光の名刀の付喪神は寝間着姿の姫君を連れて廊下を歩き出した。次第にその後姿はもやのように辺りに溶けて、すぐにいなくなってしまったけれども。
幽世は夜が続く世界だ。
黄昏時から夜明けまでを永遠に繰り返す。
太陽の光があまり好きではない付喪神たちにとって、ここは天国のような場所だった。文字通り、あの世にも近いし。
姫鶴一文字と山鳥毛の二振りは総触れ後にいつものように兄の部屋へ呼ばれていた。いつものように景光と助宗もいる。
伝えられることはおおよそ二振りの刀にも予測が付いていた。
「なるほどね。そんな人間が来ていたの……あのおかしな客人は馬鹿な秘蔵の連中の目を欺くための目くらまし……」
「……そのおひいさまだけここへ呼んだら、気配でみんなにもばれてしまうものね」
「おいおい、姫鶴。馬鹿なんて言うなよ。お家の仲間はみんな仲良くやるもんだぜ。御方がまた泣いちまう」
草間は一人碁盤に向かっていた。勝手に白い碁石が持ち上がり、ぴしゃりと次の手を差す。草間お気に入りの古い碁盤の付喪神は他の付喪神達の前では遠慮して姿を消しているのが常だった。
「あんな乱痴気騒ぎまで起こしておいて擁護なんか出来るもんですか。第一、長船長光の連中なんてあの客人の男にしこたま酒を呑ませて酔い潰していたわよ。そんなの主上に知れたらえらいことだわ!?」
「……そうよ。長船の失態はあなたの責任よ」
山鳥毛の言葉に景光が深くため息を付いて言った。
「うちの長光、刀の切れ味は最高なのにどうにも頭がゆるいからなあ……それにしたって、お前たちだってあの場にいたんだから同罪だろ?」
「まあまあ、いいじゃねえか。俺は主上が気分良くいてくだされば万事それでいいんだ。昨夜はずいぶんとご機嫌だったじゃねえか」
「玉丸の奴が来ていたからじゃない? そうと先に教えておいてよかったわ。会わずに帰ったものだから、逆に喜んでいたわよ」
座敷の外廊下には火車切り廣光の付喪神が座っていた。膝の上には火車――ここが彼の特等席である。
「乱世の頃は良かったよな……」
不意に草間一文字が夜空を見上げて呟いた。
「どこもかしこも争いばかりで、人間どもは始終外からの攻撃に怯え頭を悩ませていた。だけどもうそれには一応の片が付いた。今じゃ勝手に戦でもしようもんなら即刻家はお取り潰しになる……人間ってのはなあ――姫鶴? 山鳥? 本質的に争いが好きなんだよ。だから人の世からは戦や争いがなくならない。俺たちのような戦武器もなくならない。争いがあろうとなかろうと、とにかく人間ってのはそういうものが自分達の傍になきゃあ落ち着かねえのよ。我慢がならねえのさ」
――平和なんてものはひどく退屈だから、と草間一文字は笑った。
「人間なんてのはそもそもが馬鹿だから、不幸で憐れな人間が傍にいなきゃあてめえ自身はそうじゃねえんだってことは自覚出来ない。だから勝者と敗者とを分けるんだろ? 汚いものを眺めている時だけは自分が汚れていないんだって思える。乱世の傍らに生きていた頃は良かったよな……少ない仲間同士が肩を寄せ合って僅かな手勢で外からの攻撃に耐えて城を守っていたもんだ。それがどうだよ――天下が平和になって外に敵がいなくなるや否や、今度はその仲間同士の中に敵の気配を探している……」
皆々互いに目配せをし合い、頷いた。
ああ、楽しい――本当に。争いの気配ほど刀の付喪神を高揚させるものはない。
「外に戦がなくなれば人はそれを内に求める……どこの家でもこれからは内部の人間同士の争いが始まるぜ。徳川は言うに及ばず、蒲生の家なんてのはてんでひどい。お前らも見ただろ? あの蒲生の若殿。世間の噂通り……クソみてえなぱっぱらぱーの女男さ。あんなのが六十万石の当主だなんて傅かれている有様だ……家中の不安や動揺は如何許だろうなあ。想像するだけで酒が旨いよ」
「酒が旨いかどうかでこの世の全てを判じる主上とお前も、さすがに僕はどうかと思うけどね」
「伊達なんてのはまだまだ天下のことを考えているだろうから内輪揉めなんてしている場合でもねえだろうが……鍋島の家も危ないねえ。聞いたかよ、水神切り?」
草間が声を掛けると、部屋の脇で控えていた付喪神が立ち上がった。
「御意。ご城代の予想通りでございました」
「予想って?」
「あのおひいさまの兄上さまは妾腹……徳川の姻戚から迎えたご正室が男児を孕んだ途端に廃嫡にされていますね。そうして起きた事件が例の猫又騒ぎ……取り憑いたという相手がその廃嫡となったご長男のご母堂さまです」
助宗が景光と頷き合う。
「……いやあ、どうにもこれはきな臭いですよ。当然、廃嫡となったご長男のご家来衆は憤懣やるかたないでしょうからね……」
「――決まりね」
山鳥が呟くと、姫鶴一文字も頷いた。
「決まりだな」
黒い碁石が盤に打たれ、ぴしゃりと音が辺りに響く。
「――で? どうするの?」
「どうって?」
草間一文字はじゃらじゃらと碁石を弄びながら逆に景光に尋ねた。
「彼女や玉丸の奴には教えるの?」
「教えるわけねえだろ」
ははは、と乾いた笑いが辺りに響いた。
「子供には綺麗なものを見せておくもんだ。敗者が常に悪者である世界……澄んだ酒の上澄みだけを眺めてうっとりしていりゃあいいのさ。酒樽の底に淀んだ粕が山程溜まっていることなんざあ、もっと後になってから嫌でも目にするんだからよ」
すると、草間は夜空を見上げたまま目の前の盤上の碁石を傍らの自分自身――長い太刀の一払いで以て、全て畳の上に落としてしまった。
「さあて……しかして我らはこの騒ぎをじっくり見物するとしようぜ。なあに、暇つぶしには丁度いい。次の陣触れまでは暇だからな」
丁度、もっと旨い酒の肴が欲しいと思ってた――
「おい、けだもの」
「なんだいなんだい。邪魔しないでおくれよ。おいら、毛並みを整えてんだから」
「お前、玉丸にはちゃあんと釘を刺しておきな。他所の家のことにあんまり深入りするなって」
「わかってるよ。おいらだって馬鹿じゃないもーん」
「ほうら、出来た! きれいになったで丹ちゃん」
丹――それは、昔自分が地獄で仕事をしていた時に呼ばれていた名だ。
辰砂色の自分の脚を指してそういう名で呼ばれていたが、火車としての仕事を休む今となってはたった一振りの刀の付喪神にそうと呼ばれるだけである。
それも、よりにもよって自分に傷を付けて深手を負わせた脇差の付喪神に。
「ほんじゃあ、おいらも帰ろうかな。今日はまた朝から客間で探しものをしなくっちゃあならないからね」
「探しもの?」
「ほら、お前には話をしただろ? 南の御殿の幽霊の奴がなくしたたまっころだよ」
火車が言うと、火車切りの付喪神は手を叩いて
「ああ、あれ! なんや……ぬしさまもお城で色々と大変なんやな。丹ちゃん、守ってあげてえよ?」
と言った。
不思議なものだ。
こいつは自分に傷を付けた刀の化身だというのに、同じ姿をしていて同じ声同じ調子で名を呼ばれ、喋り掛けられると不思議と向ける気持ちも似てしまう気がする。
思い出す――今はもういない、目の前の彼女のことを。頭や喉を撫でられると気分がいいし、膝もふかふかしていて少なくとも景勝の硬い膝よりはうんといい。
「言っておくけど、おいら別にお前らの頼み事なんかいちいち聞いたりしているわけじゃあないんだからね。室町の奴にあいつのことを頼まれているからここへ留まっているだけで」
「ああ、分かってるよ。頼んだぜ」
草間の言葉に二度頷くと、火車はきれいに整えられた毛並みをなびかせながら、燃える四本の丹色の脚で赤紫色の夜明けの空を駆けて行った。
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