左側。

 冬の朝。セットした目覚ましが鳴る少し前。

 僕はいつものように、寒さに耐えかねて目を覚ます。

 原因はもちろん、寝る前はちゃんとかけたはずなのに、見事に消えている掛布団のせいだ。

 寒くて当然だろう。朝の気温は五度とかそこら。僕はだぶついたスウェットのなかに足を仕舞って暖を取りながら、変わらない朝を噛み締めるように小さく笑みを溢す。

 寒さに凍える僕は、どうしようもなく幸せだ。

 がさごそと動く僕の隣りの体温。毎朝変わらず僕から布団を奪う犯人の柔らかな寝息。

 僕はゆっくりと身体を起こし、隣りであったかそうに布団に包まっている君に視線を落とす。

 つやつやとした黒い髪。長いまつ毛。小さい鼻。ほんのりと赤い頬。それと、無防備によだれを垂らした薄い唇。

 世界で一番大切な君の、愛おしく健やかな寝顔。


「おはよう」


 僕は静かにそう言って。僕に背を向けて、僕から奪い去った布団に包まる君の頬にそっとキスをする。


「うーん……」


 そうすると決まって、君は薄い眉をめいいっぱいに寄せて小さく呻いて伸びをして。伸ばしたその腕を僕の首に回して。それから薄っすらと開いた目で真っ直ぐに僕を見上げて微笑む。


「おはよ」


 そのまだ少し寝ぼけた声が、どうしようもなく愛おしくて。僕はもう一度君にキスをする。それから君を抱き起こし、今度は僕が布団から君を奪い去って。

 やがて小気味よく鳴り出した目覚まし時計の音色が、僕らの変わらない朝の始まりを告げるのだ。


   ◇


 僕と君が出会ったのは、大学のゼミの飲み会。

 大学生特有の、あの飲み会の雰囲気がなんとも苦手で、そもそも乗り気じゃなかった僕は「道に迷った」とかなんとか、てきとうな理由をつけて遅刻して飲み屋に向かった。

 怠いな、そう思いながら店内をきょろきょろと見回した。もちろんゼミの連中はすぐに見つかる。


「こっちこっち!」


 今日の幹事らしい先輩が大袈裟に手を振ってきて、僕は小さく会釈をして席へと向かう。

 一時間弱の遅刻。当然何人かは既に出来上がっていて、顔を赤くしながらここにはいない教授の文句を口走ったり、文字通り箸が転がっただけなのにさも楽しそうに大笑いをしている。コースだと聞いていた料理ももう半分以上出ているらしく、程よく冷めて食い散らかっている。


「空いてるとこてきとうに座って」

「あ、はい」


 僕はスニーカーを脱ぎ、背負っていたリュックを下ろしながら席を見やる。もちろんてきとうに座れるほど場所は空いていない。


「どうぞ」


 立ったままどうしたものかと右往左往する僕を見かねたのだろう。手前に座っていた女性が少し奥へと詰めて、自分の右側に座るスペースを作ってくれた。

 それが君。これが僕と君の、いくらか運命的で、だけどありふれた出会い。


「あ、ありがとう、ございます」


 僕は恐縮して、座布団の上に正座で腰を下ろす。君は手早く注文用の端末を回してもらい、ドリンクのページを開きながら僕に訊いてくる。


「飲み物は何にしますか?」

「あ、じゃあ檸檬サワーで」

「ギガ檸檬サワーもあるけどどうします?」

「いや、そんな飲めないよ。お腹壊す」


 半分いたずらで訊かれた質問にマジレスをする僕はさぞ面白くないだろう。だけど君は「こんなの誰が飲むんでしょうね」なんて小さく笑いながら言ってくれる。

 それからも君は何かと僕の世話を焼き、料理を取り分けてくれたり、話を振ってくれたりした。特に誰と盛り上がるでもなく檸檬サワーをちびちびと飲んでいた僕は、なんだか段々と申し訳なくなってきて、他の誰にも聞こえないような声で君に言う。


「気遣わないで大丈夫だよ」

「いいんです。私もこういう飲み会苦手なので。あ、勝手に〝も〟って言っちゃった」


 僕に合わせて声を潜めてそう言った君はたぶん、あまりに場の空気から浮いている僕に気を遣ってくれたのだろう。だけど君はそんな様子を少しも感じさせない表情で笑うから、僕もなんだか調子づいて話してしまう。


「平気。本当に苦手だし。今日の遅刻も来るのがめんどくさかったのが一番の理由」

「ふふっ。意外と悪い人ですね」

「この顔が善良な大学生に見える?」

「うーん、見えませんね」


 実際、僕らは話が合った。大勢で騒ぐ飲み会ときのこが苦手で、ジャズが流れるような古風な喫茶店と辛い物が好き。暑い夏よりも寒い冬が好きで、温かい部屋で食べる冬のアイスは格別で、実は極度の人見知り。休みの日は家でアニメやドラマを観るのが日課なんてところも、まるで一緒で、僕らは初対面とは思えないほどたくさんのことを話した。それこそ僕は、わざと遅刻してきたことを少し後悔するくらいに、君と話す時間を楽しんだ。

 退屈だと決め込んでいた時間はあっという間に過ぎ去って、飲み会はお開きになった。

 今思えばこのとき既に、僕は君を好きになっていたんだろう。僕の左側で、僕の大して面白くもない話を楽しそうに聞いてくれる君に、僕は恋をしていた。

 帰りの電車に揺られながら、僕は大きな決心とともにゼミのグループLINEから君をともだちに追加して今日のお礼のメッセージを送る。すぐに既読がついて、真面目だけど柔らかい文章の返事と不気味な猫のスタンプが送られてくる。

 それからいくつかのやり取りのあと、今度は二人で出掛ける約束をした。


   ◇


 初めてのデートは映画館。

 君が観たいと言ったスリラー映画を観た。意外な趣味だなと思った。僕がそのままそう言うと、「悲鳴とか上げてるの観るとスカッとする」と君は悪役みたいな含み笑いを浮かべて言っていた。

 映画を観終わったあとは、近くのイタリアンで食事をした。

 レストランは僕チョイス。店に入るや君は「背伸びしたねぇ」なんて嬉しそうに笑って、出てきたカルボナーラに舌鼓を打った。

 君は本当によく笑う女の子だった。

 些細なことを嬉しいと喜び、僕にいつも笑いかけてくれる。

 君の笑顔を見ていると、僕は自分の存在が許されたような気分になった。そう言うと君は大袈裟だって笑うかもしれないけど、本当だ。僕は君の笑顔に許されて、癒されていた。


「もう遅いし、家の近くまで送るよ」


 別れ際、僕はまだ君と一緒にいたくてそう口走る。まるで軽い男そのものみたいな台詞に、変な誤解が生まれていなければいいなと、言ってから少し後悔をする。

 恐る恐る反応を伺う僕に、君は意地の悪い笑みを浮かべて答える。


「わー、ワンチャン狙ってるなー?」


 僕という奴はつくづく冗談の通じない男だ。君の言葉に体温が急激に上昇するのを感じながら、改札口で慌てふためく。


「あ、いや、そんなわけは、いや、それは君が魅力的じゃないとか、そういうわけじゃなくて、えーっと、何と言うか、まだもうちょっと、一緒にいたいと思って…………」


 後半はボリュームのつまみを絞り過ぎたみたいに掠れて小さくなっていった。そんな僕を眺めながら、やっぱり君は楽しそうに笑う。


「冗談だよ。私も同じ」

「え、同じ?」

「そう。君と同じ気持ち。だからお言葉に甘えます」

「ありがとう……」

「ふふっ。普通は逆だよ。送ってもらう私がありがとうだよ」

「いや、まあそうかもしれないけど」

「ふふふ。早く行こ。電車来るよ」


 軽やかな足取りで歩き出す君のあとを僕は追い駆ける。スイカのチャージが足りなくて改札機に引っ掛かった僕を、彼女はお腹を押さえてけらけらと笑った。

 それから僕らは乗客のまばらな電車に揺られ、君の最寄り駅で下車する。君の提案で途中のコンビニでお酒を買って、静かな夜道を笑いながら歩く。


「やっぱりさ、あのラストのシーンは主人公の女の人死んじゃったんだと思う」

「えーそうかな。もしそうなら救いがないよ」

「救いはいらないよ。人間は罪に塗れてるからね。あれくらいがちょうどいい」

「君は人間が嫌いすぎる」


 君は僕の少し前を、白線の上からはみ出さないように歩きながら器用にくるりとターンする。


「ふふふ。でも君のことだけは嫌いじゃないよ」

「え」


 僕は思わず立ち止まり、手に持っていた缶チューハイを地面に落とす。中身がアスファルトの上にこぼれ、炭酸がしゅわしゅわと音を立てて広がっていく。

 呆然とする僕に、君はほんのりと赤を帯びた頬を膨らめる。


「え……ってさ。もっとなんかあるでしょー」

「あ、うん」


 心臓が口から出そうだった。胃に収めたパスタが暴れているみたいだった。たった二文字の気持ちが、なかなか喉を通って出てこなかった。

 僕は何度も深呼吸をした。その間、君は身体を揺らして待ってくれていた。


「好きです。僕と付き合ってください」

「ふふ、よろしくお願いします」


 静かな夜道。ぼんやりと光る街灯に照らされながら、僕らはお辞儀をして微笑み合う。

 君は照れくさそうに舌を出して、白線の上でくるくる回る。ちょうど道の向こうから車が走ってくるのが見えて、僕は思わず君の手を引く。


「わお」

「あ、危ないから、気をつけて」


 驚いた様子の君を白線の内側へと押しやって、僕は君の右側を歩き出す。君はなぜか嬉しそうに「ごめん」と謝って、僕の左側に並んで歩く。

 さっきまであんなに話し込んでいたくせに、急に何を話したらいいのかが分からなくなって、僕らは揃って黙り込む。黙ったまま歩き続けて、並んで歩き慣れていない僕らの肩がそっとぶつかる。


「ご、ごめん」

「ううん、だいじょぶ」


 顔を見合わせた僕らは困ったように笑い合って、それからどちらからともなく手を握る。ひどくぎこちなかった。ただ手を握るだけのことがこんなにも気恥ずかしく思ったのは初めてだった。


「手汗、ひどかったら言って」

「ふふっ、なにそれ」

「いや、だって、緊張するだろ。好きな人と手繋ぐのは」

「初心だねぇ」


 君がそうからかうのが無性に悔しくて、僕は指を君の指に絡める。君の右腕が驚いたように少し強張って、だけど僕は離れないように君を引き寄せる。

 恥ずかしくて君の顔は見ることができなかった。だけど左側に確かな体温を感じながら、僕は君の手をぎゅっと握る。


   ◇


 目覚まし時計が鳴り響く。

 僕は手を伸ばして音の発生元を探り当て、けたたましい音色を乱暴に止める。そして冷えた空気を拒むように、布団のなかへと再び潜り込む。

 冬の朝。掛布団と毛布の重みが心地よい、寒くて温かい朝。

 寝返りを打った拍子、妙に広い左側が薄っすらと開けた目に入る。

 おはよう、と言いかけて僕は言葉にならなかった情けのない音を一人呑み込む。

 抜け切らない癖だった。空白と喪失を突き付ける、僕に染みついてしまった定位置。

 君がいなくなってもう半年。

 半年経った今でも、僕はベッドの真ん中に寝ることができないでいる。

 そうしたらいつか、何気ない様子で、変わらない寝顔で、君が僕の左側に寝ている朝が戻ってくるんじゃないかと馬鹿馬鹿しい期待をしてみたりして。

 もちろんそんなことはあり得ない。君はもういない。

 それでも僕はどうしようもない現実を受け入れることができていない。君の右側に立つ僕を、君の右側で眠る僕を、まだ過去にできていない。

 ぽっかりと空いた僕の左側。君がいた痕跡が、僕の生活の穴となって今も残り続けている。

 僕はベッドの上で一人、変わらないと信じていた寒かった朝を想う。もう二度と感じることのない君の体温を想う。そして、今もどこかで穏やかに眠る君の幸せを想う。

 気持ちよさそうな寝息が聞こえてくることはもうない。

 呟いた「おはよう」に返ってくる声もない。

 起きたら掛布団が消えていることもない。

 もう寒さに震えて目を覚ますこともない。

 それなのに、どうしてか君がいなくなった朝は寒くて冷たくてたまらない。

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