雪とくしゃみとホッカイロ
東京に初雪が降った。
はらはらと舞い落ちる雪は私が吐く息よりもずっと白くて、真っ黒な夜空とコントラストを織り成している。でも綺麗だなんて見惚れていられるのもほんの一瞬。白い粒は地面に降りて、それからあっという間に溶けていく。
ベランダから見上げる夜空は、なんだか無性に寂しく思えた。
たぶん積もらないだろう。天気予報はそう言っていた。
東京は雪に弱い。電車はすぐに走らなくなるし、凍った地面で滑る人もたくさん出る。雪かきをする習慣がないからか、道は踏み固められた雪が放置されたままだし、自動車のタイヤにチェーンのつけ方さえ知らない人ばかりだ。
だからたぶん積もらないほうがいいのだろう。東京で雪が積もって喜ぶのは、たぶん子供と犬くらいだ。何より私自身、明日の通勤が億劫になるので積もらないことを祈っている。
だけどまばらに降っては消えていく雪を見て、私は少し寂しくも思っている。
「都合良すぎだよね」
私は独り言ちて、悴んだ手を擦り合わせて息を吐きかける。
嫌だと言って出てきた田舎だ。色んなものを全部置き去りにして、飛び出してきた東京だ。そんなだから二年くらい前にお盆に一度帰ったきり、私は地元には帰っていない。
だから今更後ろ髪を引かれることなんてありはしないのに。そのはずなのに。私は今、あの一面に積もった白の景色を、その真ん中で顔を真っ赤に染めた君を思い出している。
不意に、ゆらゆらと揺れながら舞い込んできた雪の粒が私の手の甲に乗っかった。半透明のそれはすぐに溶けてただの水に変わっていく。
◇
「はっくしょん!」
私は教室の真ん中で、教科書みたいに模範的なくしゃみを一つ。ちょうど登校してきたらしい隣りの席の友達が、私のくしゃみを聞いてこちらを覗き込んでくる。気遣いはありがたいけれど、乙女的にはそっとしておいてほしいところだ。
「大丈夫? 風邪引いだんでねぇ?」
「うん、平気。ホッカイロ貼り忘れただけだから」
「そうかぁ。今日、さびぃもんね。よがったらあたしの使うが?」
「大丈夫。ありがと」
そんなやり取りをしているうちにHRのチャイムが鳴った。時間を計算していたみたいに担任の先生が教室へと入ってきて、古めかしいストーブで暖を取っていたクラスメイトたちも渋々と席に戻っていく。先生は目ざとくストーブで餅を焼こうとした痕跡を発見し、犯人を見つけ出しては危ないとか何とかくどくどと説教を始める。どうやら先生も本気で怒っているわけではないらしく、最終的にはクラスのあちこちから笑いがこぼれて説教は幕を閉じた。
私はそんな教室の雰囲気にうんざりしながら、机の下に隠したスマホで芸能人のインスタを眺めている。
私はクラスで浮いている。よく言えば、たぶん一目置かれている。そういう自覚はしっかりとある。トレンドに敏感で、服やメイクに気を遣う。ただそれだけで、私はなんだかすごい人として扱われる。
褒められるのは悪い気分じゃない。だけど褒められるたび、私のなかで不満が募っていくのも確かだった。
何がそんなに不満なのかと言われれば、きっと私は上手く答えることができないだろう。
都会と田舎なんて、そんな垣根で地面に線を引くのは、たぶんもう現代ではあんまり意味がない。
女優が着ている洋服やモデルが使っているコスメはZOZOTOWNを使えばそれなりに手に入るし、表参道で話題になっているスイーツなんかも割と手軽に取り寄せができる。ちょっと足を延ばして街へ出れば、都会とそう変わらないだろうビレバンやタワレコやスタバだってある。
SNSを上手く使えば、どこにいようと最新のトレンドが分かるし、どこからだって自分のことを発信していける。
それなのに私は東京という街に漠然とした憧れを抱き、田舎のダサさを露骨に嫌う。
何の根拠も理由もない好きと嫌いが、私のなかでごちゃごちゃに混ざっている。
とは言え、この田舎ともあと数カ月でおさらばだ。春からは東京の大学に通うことが決まっている。
別に有名な大学なわけでもないし、何かやりたい勉強や目標があるわけでもない。ただこの雪と畑と田んぼばかりの田舎から、私は飛び出していきたかった。
もはや消化試合となっている退屈な授業をてきとうにやり過ごす。昼休みには友達たちとお弁当を広げながら、卒業旅行の行き先とか彼氏の話とか、そんな他愛のない話をする。
放課後になれば友達とはしゃぎながら最寄りの遊び場であるイオンに向かう。
フードコートでポテトを摘まみながら何時間も話したり、ゲーセンで飽きもせずにプリクラを撮ったり。あと何回制服で撮れるかな、なんて変顔のプリを見て名残惜しみながら、ちょっとセンチメンタルな気持ちに浸ったり。
そういう時間が嫌いなわけじゃない。むしろ人並みに楽しいと感じているし、卒業してみんなと離れ離れになるのは寂しいと思う。だけどその感情たちはどれも、私を満たしてはくれない。この田舎にいる限り手に入らない何かがある気がしていた。正体の分からない何かが、私には致命的に足りないのだ。
「また明日ね」
「うん、まだねぇ」
真っ暗な冬空の下、私たちは手を振って別れる。また明日。そう当たり前に言えるのはあと何回なんだろうね、と寂しそうに笑い合って、またセンチメンタルな気持ちに浸る。
雪を積もった道をザクザクと踏み鳴らしながら帰路に着く。ニット帽を深く被り、マフラーに顔を埋める。私は吹く風の冷たさに背中を丸めながら、せっかくイオンまで行ったならホッカイロ買えばよかったなと、今更思い出してほんの少し後悔をする。
東京だったらこんなとき、すぐ近くにコンビニがあって便利なんだろうな。そんなことを考えて私は白い道にザクザクと足跡を付けていく。
左の鼻から垂れそうになる鼻水をずずっと啜る。風が少し強く吹いて、私の頬に突き刺さる。私はほんの少し足早に、ザクザク、ザクザクと家路を急ぐ。
「はっくしょん!」
道の真ん中で、やっぱり教科書通りのくしゃみを一つ。
幸い今度は覗きこんでくる友達はいない。空の黒と雪の白が分け合ったモノクロの景色に、私以外の人はいない、――はずだった。
「すんげえくしゃみ」
私は反射的に振り返る。へへ、と口元にだらしない笑みを浮かべるのは同じ学校に通う幼馴染の男の子。一体どこで探して買ってくるのか、髑髏のワッペンがでかでかと貼り付けられたニット帽を被り、目が覚めるような黄色のマフラーを首にぐるぐると巻いている。てかてかしているダウンジャケットも、やっぱり何度見てもなしだ。
「何か用?」
「何か用って、俺も帰り道だから」
私はまたザクザクと音を鳴らして歩き出す。幼馴染のあいつも私のすぐ後をついてくる。
「ついて来ないでよ」
「そういうんじゃねえよ。俺もこっちなんだから仕方ねえだろ」
彼が歩調を速めて私の隣りへと並んでくる。
ついて来るなとは言ったけど、並んで歩こうとは言ってない。そう文句を言おうとして、だけど私の言葉は彼が突き出した手に遮られる。
「……なにこれ」
私が眉を顰めていると、彼はもう一回手を突き出す。これまたセンスなんて欠片もない軍手を嵌めた手のなかにはオレンジ色のホッカイロが一つ握られていた。
「さびぃからくしゃみ出るんだろ。やるよ、使いかけだけど」
「使いかけなのかよ」
私は小さく笑う。それから目線の少し上にある彼を見やって、その横顔に思わず釘付けになる。真っ赤になっている頬はたぶん、冬の夜の寒さだけが理由じゃない。そんな気が、なんとなくしてしまったから。
見たことのない表情だった。
これでも保育園からの付き合い。中学に上がったくらいからは一緒に遊んだりすることこそなくなったけれど、それでもそれなりに彼のことは分かっている。不名誉なことにお風呂に一緒に入ったことだってあるくらいには、色々な彼を知っているつもりだった。
だけどどこか恥ずかしそうに頬を赤らめる彼は、私が知らない男の子の横顔で。
「ほら、いいから使えよ。はい! 渡した! じゃあな! 俺は帰る」
彼は半分強引に私の手にホッカイロを握らせる。握らせて、目も合わせずに踵を返すと不恰好な走り方で雪を踏み鳴らして去っていく。
「風邪とか引くんじゃねえぞ」
彼は振り返りもしない。ザクザク、ザクザクという音がすぐに遠くなって、彼の背中は雪に紛れて見えなくなった。
私はどうしたらいいのか分からずに立っていた。頬を染める赤の理由も聞けないまま、初めて見る彼の表情に圧倒されたように、ただ呆然と立っていた。
ふと握っていたホッカイロに視線を落とす。黒いつぶつぶが浮かぶホッカイロはいくら一生懸命握っても、あるいは振っても、もう大してあったかくなんてなくて。
「終わってるし、これ」
ぽつりと溢した不満が一つ。白い息になって夜の黒に溶けていく。
また冷たい風が吹く。私は思わず背中を丸める。
だけどもう、それはなんとも不思議なことに、私は寒さを感じなかったんだ。
そんな出来事があったから、私は妙に彼のことを意識してしまって。
学校ですれ違っても、家の近所で出くわしても、目さえうまく合わせられなくて。
結局、あの夜の赤らんだ頬の謎は解けないままに、雪は溶け、春が来て、私たちは卒業を迎えた。
それから友達と卒業旅行に大阪へ行って、京都へ行って。帰ってきてからも彼とはろくに話せなくて。
過ぎる時間は立ち止まってはくれなくて、私は東京へと出発した。
彼が見送りに来るだろうと高を括っていた私は家族と友達に見送られて新幹線に乗った。
あんなに出て行きたかった田舎だったのに、私は新幹線のなかで少し泣いた。ぐしゃぐしゃになった頭のなかにはこの場所で過ごしたいくつかの思い出と、あの夜のあいつの横顔が浮かんでいた。
◇
ジリジリと鳴る目覚まし時計のやかましい音。
朝日がカーテンの隙間から差し込む。私はベッドのなかで薄っすらと目を開けて、枕元の目覚まし時計を黙らせる。
私はしばらくそのまま寝転んで呻いたりして、それから一念発起。心と身体を掴んで離さないベッドに別れを告げて起き上がる。
まだ半分以上眠っている身体を引き摺って、カーテンを開ける。一気に部屋を明るくしていった朝日のおかげでほんの少し身体が起きてきたような気がした。
トドメに窓を開ける。朝の冷気が部屋に入り込んで、私は思わず身震い。完全に目覚めた身体を機敏に動かして窓を閉める。
天気予報通り。空は曇っていたけれど、地面はただ濡れているだけ。雪は積もっていなかった。
自分でも意外なことに、私は小さく溜息を吐く。
朝からどうしてか憂鬱な気分だった。朝の支度をしなくちゃならないのに、胸のあたりがずんと重かった。
「変なの」
私は情けなく笑ってみせる。都合のいい自分を追い払うように。
だけど雪が降るとどうしたって思い出してしまうのだ。過ぎるのはあの日初めて知った君の横顔。呼び止める間もなく去っていた背中。
雪は積もらず溶けていった。
だけどこの胸に引っ掛かり続けるこの気持ちは、いつになっても溶けそうにない。
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