春の入り口

 電車を降りると、冷たい空気が僕の行く手に立ち塞がった。

 僕は背中を丸め、マフラーに顔を埋めながら一歩を踏み出す。駅は無暗に広く、もう次の電車が到着するアナウンスがホームに響いている。


「ビビるなビビるな。来年からここに通うんだ」


 僕は胃ごと吐きそうになるのを呑み下しながら、人目もはばからずに繰り返し呟く。通いたい、受かりたい、では駄目だ。もっと具体的に、この駅に、この駅を最寄りとする大学に通う自分をイメージする。

 だけど付け焼刃の妄想は、すぐに周囲の雰囲気に揉まれて有耶無耶になる。

 すぐ横を通り過ぎていった眼鏡を掛けた男の子は背筋もしゃんと伸びていて、いかにも頭が良さそうだ。あるいはすぐ後ろを歩く女の子の二人組は、相当に余裕があるのか、もう今日の試験が終わったあとの予定のことを楽しげに話している。

 まるで僕だけが怯えているようで、僕だけが切羽詰まっているように思えた。


「ビビるな……落ち着け……」


 僕は呪文のように呟きながら階段を降りて、受験生で溢れかえる改札口へと向かう。人混みを歩くのが苦手な僕は僕を追い抜いていく誰かとぶつかってよろめきながら、なんとか改札の外へと脱出した。

 それから僕は人の流れから外れて呼吸を整える。駅からはすぐに大学が見えた。校門の近くでは大手の予備校が旗を振って受験生に声を掛け、あるいは大学の先輩らしき男女が受かってもいない受験生をサークルに勧誘したりしている。

 僕は何度も深呼吸をした。

 緊張はしている。しないはずがない。人生……なんて大それたものは懸っちゃいないけれど、これまで時間を費やしてきた努力は懸っている。この一年と少し、仲のいい友達が推薦で合格していくなか、遊ぶのを我慢してきた。前は夜更かししてやっていたゲームも封印した。

 そうやって積み上げてきたものを発揮するのが今日でないならば一体いつだというのだ。

 少しずつ落ち着いてきた僕はもう、自信や余裕を醸す受験生を見ても怯えは感じなかった。

 だからだろう。

 僕はパスケースを仕舞っていた女の子の鞄から紙切れが落ちるのに気づく。

 女の子は少し緊張した様子で、紙切れを落としたことに気づいていない。僕は自然と人混みへと踏み出し、危うく踏まれそうになっていたそれを拾い上げる。


「受験票……」


 僕は呟くやほとんど反射的に駆け出し、他の受験生を掻き分けてその女の子を追った。


「あ、あのっ! 赤いチェックのマフラーの女性の方!」


 女性の方って何だ。僕は叫びながら後悔する。そして僕がかいた恥など大した意味もなく、女の子は何も気づかずに歩いていってしまう。


「あのっ! ……さ、田中さんっ!」


 僕は受験票に書かれていた名前を読んだ。ようやくその女の子が立ち止まり、困惑した様子でこちらを振り返る。僕はようやくその女の子に追いつき、膝に手をついて荒くなった呼吸を整えた。


「あのっ、これ、落としました」


 僕が拾った受験票を突き出す。最初は僕みたいに見知らぬ冴えない男にいきなり声を掛けられて困惑していた彼女も事態を理解したのだろう。「あっ」と小さく叫んで恥ずかしそうに苦笑する。


「追いついてよかった……」


 彼女はまるで賞状でも受け取るような仰々しい動作で僕から受験票を受け取ると、素早く深く頭を下げた。


「あ、ありがとうございますっ!」


 その声が予想よりもずっと大きかったので僕は少しびっくりするが、今さらになって湧いてきた見知らぬ女の子に声を掛けたことの恥ずかしさのほうが勝った。


「いえ、全然」


 素っ気ない応答と素っ気ない会釈。人混みと同じくらい女の子と話すのに慣れていない僕が、緊張と恥ずかしさで混乱しているであろう彼女に気の利いた言葉を言えるはずもない。


「あの、本当に助かりました。危うく受験できなくなっちゃうところでした」


 今度は言葉すら出ず、僕は肩を竦めるような曖昧な頷きだけで応じた。そして尚恥ずかしいことに、僕はそんな不愛想な態度を取っておきながらも、ちらと目の前の彼女を見やるなどする。


「本当にありがとうございました。今日の試験、頑張りましょうね」

「……はい」


 ほんのりと頬を赤くして微笑む彼女に、僕はやはり素っ気なく、そう返すだけで精一杯だった。


   ◇


「――そこまで。筆記用具を置いてください」


 マイクを通すその声を合図に、張り詰めていた空気は一気に弛緩していく。パラパラとシャーペンが机上を転がる音が響き、思い出したように呼吸を再開したような吐息がそこかしかで漏れる。

 僕もそんな周りの例に漏れることなく、シャーペンを置いて深く息を吐く。そのままぼんやりと黒板を眺めていれば、試験補佐官のスーツを着た青年が順繰りに僕の机上にある解答用紙を回収していく。

 手応えはない。むしろ途中で解答用紙のマーク欄が一つずつずれていることに気づいたおかげでテンパってしまった。なんとか問題を最後まで解き切ることはできたけれど、考える時間が十分だったとは思えない。

 だけど後悔しているだけの時間はなかった。何と言っても次は僕の苦手な英語だ。トイレから戻ったら、これまでで一番よく読めた長文を再読して、頭のなかにリズムを作っておかなくてはならない。

 間もなく全ての解答用紙の回収が確認され、受験生ぼくらには束の間の休憩時間が与えられる。

 手応えがないくらいのほうが受かっている――。誰かから聞いたそんな迷信を信じ込むことにして、僕は速やかに終わった試験のことを頭から締め出す。

 自由になるやすぐにトイレへと向かう。場所は既に確認済みだった。

 長蛇の列になっている女子トイレの行列を尻目に、用を足した僕は席へ戻る。試験時間と違い、多少の自由が許されるせいもあって、教室にはお互いを伺うような妙な緊張感が漂っている。僕は空気に呑まれぬよう深呼吸をして、鞄から使い込んだテキストを引っ張り出す。

 次の試験の開始時間まであと六分。

 まだ勝負は終わっていない。


   ◇


 奇跡というのはまま起きうる。

 たとえば、僕が第一志望の大学に合格したのもまた、そういう種類の出来事に違いないからだ。

 もちろん受かるための勉強は一生懸命した。受験は対策が命だと言われるように、志望校の試験問題や傾向を分析し、それに特化した追い込みだってした。

 それでも惨憺たる結果だった当日の試験の出来を鑑みれば、やはり僕の合格は奇跡だろう。

 勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなしという金言は、まさに僕のことを指し示しているように思える。

 そんな喜びに勝る不思議な気持ちが抜け切らないまま、僕は今、この日のために用意した黒いスーツのジャケットに袖を通している。入学式っぽいという理由で母親が選んだパステルピンクのネクタイは少し派手な気がして恥ずかしい。


「あんた、準備できたのー? 時間は?」

「もう出るよー!」


 一階から母の声が聞こえてくる。僕は身だしなみを――特に結び慣れていないネクタイを、鏡の前で確認し、鞄を持って一階へと下りた。


「入学、おめでとう」


 まだ固い革靴を履いた僕は、母の祝いの言葉に見送られながら家を出る。



 かつて受験生が電車のなかで一目瞭然だった以上に、真新しく着慣れないスーツに身を包む新入生は見た目に分かりやすい。格好はもちろんだが、みんな表情は晴れやかで、これから始まる全く新しい生活に期待と不安を抱きながら電車に揺られている。

 そして僕もまた、そんな新入生の一人だ。

 大学の最寄り駅に到着し、僕は電車を降りる。まだ温かいとは言い難いけれど、大地から草木が芽吹くときの匂いを閉じ込めたような、エネルギーに満ちた風がそよいだ。

 ホームを歩き、改札を出る。もうそこに人酔いして情けなく休まなければならない僕はいない。ほんの数カ月前よりも足取りは確かで、心なしか力強くなっていた。

 僕らの入学を満開の桜が出迎えるようなことはない。見渡す限り、桜が咲いているのは僕の首元限定だ。だけど視線の先で大きく開け放たれた校門は、何もかもが新しい僕らの春を約束してくれている。


「よし」


 僕は小さく呟いて一歩を踏み出す。

 だけどすぐに、まるで出端を挫くように、後ろから聞こえてきた声が僕を呼び止めた。


「あの」


 僕のすぐ後ろには黒いレディーススーツにコートを着た女の子が立っていた。

 ほんのりと茶色く染めた髪の毛に、ぱっちと開いた丸い瞳。頬がほんの少し赤いのは――。


「あの……覚えてますか、受験の日……」

「あ! 赤いチェックのマフラーの女性の方!」


 思い出した勢いのままそう口走った僕はすぐに後悔して口を押さえた。にわかに集まる視線に身を縮こまらせる僕を見て、彼女が小さく笑う。


「今日はマフラーしてませんよ」

「そ、そうですね」

「あのときは本当にありがとうございました。おかげで無事に入学できました」

「そんな、とんでもない」


 僕は相変わらず素っ気ない応答を繰り返す。大学生になるからと言って、男子校育ちの僕が急に女の子と話せるようになったりするほど都合よくはいかないらしい。


「あ、そうだ」

「そうだ?」

「ご入学、おめでとうございます」


 彼女は冗談っぽくそう言って、僕にぺこりとお辞儀を向ける。僕も釣られるように畏まって、彼女に向けて小さく頭を下げた。


「ご入学、おめでとうございます」


 僕がオウム返しで言うと、彼女はやはり小さく、楽しそうに笑っていた。


「ふふ。会場に向かいましょうか。そろそろ始まりそうです」

「はい、そうしましょう」


 僕らは並んで新しい日々への第一歩を踏み出す。どこからか吹く穏やかな風が、僕らの到着を祝うように草木の芽吹く匂いを運んだ。

 奇跡というのはまま起きうる。

 たとえばこの再会もまた、そういう種類の出来事に違いない。

 まだ名前も知らない春が、僕らをきっと待っている。

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