喫煙所の女(ひと)

「520円になりまーす」


 たっか……。

 俺は心のなかで盛大に嘆き、なけなしの1000円札をレジに置く。20歳以上であるという自己申告のボタンに吐いた嘘と引き換えに渡された掌サイズの小さな箱を受け取る。


「あざっしたー」


 やる気のない金髪ピアスの店員に見送られ、俺はコンビニを後にする。

 向かう先は一つ――大学構内の喫煙所。初めて踏み込む未知の場所にも、俺の足取りに迷いはなかった。

 ――今日こそは、お近づきになりたい。

 思春期らしいと言えばらしい、そんな欲望だけが俺の全身を満たしている。

 出会った(すれ違った)のは大学生活にも慣れてきた、そんな五月。

 各々がサークルを決めたり、学部のなかでのコミュニティを作っていくなかで、俺は独りぼんやりとただ講義に出ては家に帰るという、華やかさなど欠片もない日々を送っていた。

 そんな五月。俺は出会った(すれ違った)のだ。

 なんと形容したらいいのだろうか。

 一言で言えば女神。あるいは俺の心を虜にして離さないという一点に関して言えば、魔女とか悪魔とかかもしれない。もちろんそんなありきたりな漢字二文字で彼女を言い表すことはできない。まあどちらでも形容しきれないのだから、どちらでもいい。

 重要なのは、その運命的な出会い(すれ違い)が俺のキャンパスライフを鮮やかな七色に彩ってみせたということだ。

 俺は3号館の裏にある喫煙所を外から覗きこむ。背の高い、たぶん一つか二つ上の学年の男どもの怪訝そうな視線が降り注いだが気にしない。喫煙所を囲むように並ぶ植木の隙間から、奥で一人、何人も寄せ付けることなく煙草を燻らせる女神を見つけた。

 身長は170センチないくらい。センターパートの真っ直ぐ長い黒髪に、彫刻刀で削り出したような白皙の美貌。目は大きいけれど少し切れ長で、鼻筋は凛と通っている。ふっくらとした唇に添えられた深紅のリップが、元から溢れ出るアンニュイな色香をさらに引き立てる。

 服装は少し大きめのカレッジパーカーに黒のスキニージーンズ。足元はいつも通り、履きこまれたコンバースのスニーカー。

 ごくありきたり。彼女は決して着飾ったりなどしない。あくまで自然に、肌に馴染むものを手に取って着たのだと、そんな印象を受ける。

 そこがまたいい。

 すらりとしたスタイルはモデルじみていたし、顔だってそこらの女優なんかよりずっと整っている。どんな洋服だってきっと着こなせるだろうに、彼女は興味ないとでも言いたげに紫煙を吐く。

 俺がよく知る大学生には微塵も感じられない、どこか厭世的で退廃的な美しさを彼女は持っている。

 俺は最後に息を深く吐いて喫煙所に踏み込む。大学の喫煙所というのは実に騒がしい。まるでここには自由があると言わんばかり、派手な大学生が馬鹿話に花を咲かせている。俺は空いてるスペースを探すふりをしてきょろきょろしながら、なんとか彼女の隣りに陣取る。彼女が吐き出す甘い香りが俺の鼓動を早くさせる。

 落ち着け、俺。

 鞄やポケットをてきとうに漁りながら、ちゃんと聞こえるように舌打ち。問題ない。ここまでは全てがシナリオ通り。そして夜遅くまで頭のなかでシミュレーションしてきた決めゼリフを口にする。


「あ、あの、火ぃ、貸してもらえません?」

「ん」


 差し出されたライターを受け取り、俺は咥えた煙草に火を点ける。ところがこれがなかなか点かなくて、俺は何度も揺らめくライターの火で煙草の先を炙り続ける。

 ようやく火が点いて顔を上げる。彼女がちらとこちらを見る。硬質で冷たい視線。ダサいと思われただろうか。


「あ、あざっす……」


 俺はイメージ上のワイルドな男を演じつつ、彼女にライターを返す。既にスマホへと視線を映した彼女はこちらを見もせずライターを受け取る。


「………………………………………………………………………………」


 沈黙。

 話しかけるところまでのシミュレーションは完璧。しかしいざ話しかけたあとのことはまるで考えていなかった。

 甘かった。取っ掛かりさえ掴めれば、あとはどうとでもなると思っていた。

 どうしたら、いい、んだ……。

 俺は会話の糸口を探す。自然かつ効果的に。スーパーボールみたいに弾む話題。

 だが入学からこれまで、灰色のキャンパスライフを過ごしていた俺が、そんな高等技術を持ち合わせているわけもなく。


「……お姉さん、何年すか?」


 口を突いたのは、ナンパと呼ぶにもヘボすぎる、そんな質問。


「М2」


 おまけに答えの意味が分からない。なんだよその数字の前についてるМは。


「へぇ……」


 会話が終わった。

 最悪だ。俺は自分自身を深く呪う。面倒だと避けてきたコミュニケーションのつけを、こんな一世一代の大一番で払わされることになろうとは。

 紫煙とともに吐き出した溜息に、ありったけの絶望感が滲んだ。


「君は、新入生?」

「………………はぁ…………は?」


 俺はもう一度溜息を吐き、そして思いっきり飲み込んで息を止めた。


「だから、君は新入生?」

「え、あ、う、あ、へ、は、はいっ!」

「そう」


 え、なんで。なんで俺話しかけられてる?

 頭のなかで疑問符と感嘆符が駆け巡り、真っ黒に塗り潰されていく。まるで時間が止まったかのように周りの喧騒が遠退いて、彼女のほんの少しハスキーな声と、俺自身の鼓動の音がやけに鮮明に響く。


「ま、吸ってる私が言うのも変だけど、ほどほどにしなね。身体にも財布にも、煙草は優しくないよ」


 彼女は言って、半分くらいに短くなった煙草を灰皿で揉み消す。最後に紫煙を深く吐いて、喫煙所から去っていく。

 俺は掛けられた言葉にうんともすんとも言えず、ただ呆けた顔でその背中を見送る。煙を立てる灰皿には、唇の赤い痕が残る煙草が一つ。

 俺の人差し指と中指のあいだで、止まった時間がまた流れ出すのを告げるように。

 灰がぼとりと落ちた。



 3号館の裏。白く淀んだ、狭苦しい喫煙所。

 これが俺と先輩の出会い。喫煙所だけで結ばれる、奇妙な関係の始まり。


   †


「先輩、火ぃ貸してください」


 3限目が終わったあとの休み時間。先輩が喫煙所にいる、いつもの時間。季節はもうすっかり夏に変わったけれど、今日も変わらず一番奥で気怠そうに煙を燻らせる先輩の姿。


「……また?」

「はい、また!」

「君さ、ライター持ってないの?」

「持ってますよ。なんつーか、これは、俺が先輩に話しかける口実みたいなもんす」


 先輩は不機嫌そうに眉根を少し寄せながら、ポケットから摘まみ出したライターを俺に渡す。


「あざっす!」

「はぁ……そして貸す私も甘いな」

「世界はそれを優しさと言うんすよ」


 俺は咥えた煙草に火を点けて、煙を深く吸い込んで吐く。何というか、ぎこちなかった動作もだいぶ板についてきた。俺は満足そうに口の端を吊り、隣りの先輩をちらと見る。


「なに?」

「何でもねえっす。あ、ライターあざっした」


 先輩は虫を蔑むような冷たい表情で差し出したライターをかっさらう。


「全く、私なんかと話して何が楽しいんだか」


 先輩はかぶりを振る。今日はいつもより機嫌がいいな、と俺は思う。きっとこの前言っていた学会の準備とやらが一段落したからに違いない。

 先輩は大学院生だ。初めて会った時に言っていた〝М2〟のМは修士号マスターを指しているらしいことは後々、グーグルで調べた。俺が先輩の名前以外に知っている、唯一の個人情報だ。

 先輩はあまり自分について話さない。この前は学会の準備が忙しいだの、クソハゲ教授がこき使ってくるだの愚痴をこぼしていたが、それは記憶の限り初めてとも言えるほど、先輩が饒舌だった出来事だ。

 ちなみに何を研究しているのかは教えられても分からないだろうし、それを見越してか先輩は教えてくれない。そして俺はそんなミステリアスさも先輩の魅力なのだと思っている。

 そんな感じで、煙草が灰に変わる僅かな時間のほとんどは俺が喋っている。そして大して面白くもない俺の話に、先輩は相槌さえ打ってくれることもない。ただスマホを眺めながら煙草を吸い、短くなったら灰皿で揉み消して立ち去っていく。去り際に〝じゃあね〟と声を掛けてくれるのが、俺の至福の一瞬だ。


「――――んで、俺気づいたんすよ。店長にめちゃくちゃ怒鳴ってるそのババアの膨らんだ鼻の穴から、金色の鼻毛が生えてたんす」


 力強く言い放たれた俺の言葉に、先輩はやはりくすりともしない。そして先輩は煙草を揉み消す。


「じゃあね」

「あ、はい。また」


 先輩は颯爽と喫煙所を出て行く。先輩が言った〝じゃあね〟の余韻を噛み締めながら、俺は今日も相手にされなかったことにほんの少し気が滅入って溜息を吐く。

 きっと先輩にとって、俺は鬱陶しいガキなんだろう。毎回時間を合わせるように喫煙所にやって来てはライターを貸せと話しかけてくるガキ。そして延々とつまらない話を隣りで垂れ流しているガキ。

 傍から見れば先輩は冷たいのかもしれない。だが俺はそうは思わない。やっぱり先輩は優しくて、温かい。ただ少し、いやかなり、分かりにくいだけなのだ。

 俺はフィルターのギリギリまで灰に変わった先輩の煙草を眺めながら、また明日も、明後日も、その次もここへ来ようと思った。


   †


 講義が終わって校舎を出ると、肌にまとわりつくような夏の匂いが地面から立ち込める。雨が降っていた。そういや今日は夜から雨だと天気予報のアプリが言っていたっけ。

 幸い、長く降る雨ではないようだったが、なかなかの勢いで降っている。俺は傘を買うべきかを思案しながら、喫煙所へと向かう。

 さすがに5限終わりともなれば構内に残っている人は少ない。俺は楽単だと聞いて迂闊にも履修してしまった政治学原論の講義を呪う。

 3号館のなかを抜けて裏へ。もう見慣れた植木が雨に打たれながら、小気味のいいリズムを刻む。

 喫煙所の奥に人の姿があった。傘を差してしゃがみ込むその人の顔を見ずとも、纏う空気だけで俺には分かった。


「こんちは~。珍しいっすねぇ、先輩がこの時間にここいる……」


 声を掛けられた反射で持ち上がった先輩の視線。俺は気安く言って近づいて、途中で言葉を呑み込んだ。

 先輩は泣いていた。元々薄めの化粧が崩れることも厭わず、誰もいない喫煙所で。頬に刻まれた涙の痕と赤くなった目が、俺の知らない先輩の、その哀しみの深さを物語る。

 俺は先輩の隣りにしゃがみ込む。さすがに火を貸してとは言えず、鞄の奥から取り出したライターで咥えた煙草に火を灯す。

 雨の音が、小さな喫煙所を満たしていた。まるでもう世界には俺と先輩の、たった二人しか残されていないのだとでも言いたげに。

 気まずい。

 雨を物ともせずにゆらゆらと上っていく煙を、俺はこのときばかりは少しだけ羨ましく思ったりしてみる。


「……聞かないんだ。なんで、泣いてるのかって」


 静かに降る雨の音に掻き消されそうな、弱々しい呟きが先輩の口からこぼれる。


「聞いてほしいんすか?」


 先輩は答えなかった。俺は沈黙のなか、灰に変わった煙草を揉み消して2本目を咥える。

 時間だけが流れていく。

 俺はどうしたらいいか分からなくて。でも先輩を一人にはしておけなくて。そんな迷いと躊躇いを誤魔化すように、3本、4本と、煙草を吸い続ける。


「……振られたんだ」


 やがて先輩が呟いた。


「そっすか」


 俺は煙を眺めたまま、そう返す。

 そりゃあ先輩は綺麗だ。彼氏の一人や二人くらいはいるだろう。だけど面と向かって突き付けられる事実は少しショックに感じられた。


「……きれいな、恋じゃなかった。相手の人にはね、奥さんも子供もいたの。私は知ってて、彼と付き合ってた。理屈でも、倫理でもなかった。好きだったんだよね、たぶん、すごい」


 実らない恋と、実らせるべきではない恋と、分かっていても立ち止まれなかった。背を向けられなかった。先輩はそう言って、また少し涙を流す。


「結局、彼が最後に戻るのは奥さんのところ。ほんの少しでも期待して、浮かれてた私は馬鹿みたいだよね。……最低な女だって、幻滅した?」


 よく見れば華奢な肩を、先輩は小さく震わせていて自罰的に笑う。

 俺はまだガキだからよく分かっていないのだろうけど、不倫も浮気もきっといいことではない。人を傷つけることが無条件で悪だとは言うつもりはないけれど、その気持ちの果てには傷つく人が多すぎる。

 でもだからと言って、先輩を、あるいは相手の男を、最低だとなじる権利も、不道徳だと憤る資格も俺にはない。

 二人が犯してしまった過ちに文句をつけていいのは相手の奥さんと子供くらいだと、俺は思う。

 俺は蚊帳の外。そんな俺が、先輩の恋を否定するのも、生半可に寄り添って同情するのも、きっとお門違いだ。

 先輩は、好きだったのだ。

 少なくとも、終わった恋に涙を流せるくらいには。

 だったらそれでいい。二人が犯してしまった間違いと同じくらいの確かさで、胸に抱いたその想いもまた、きっと真実なんだから。


「なんか、食いに行きますか……? いつものライターのお礼に、奢ってもいいっすよ、俺」


 そう言ってみたら、先輩の握った手に肩を小突かれた。


「……調子に乗らないの、馬鹿」

「うっす」


 俺は6本目になった煙草を揉み消す。先輩は火が消えたままずっと持っていた煙草を灰皿へと突っ込む。立ち上がった先輩の横顔はまだ少し涙に濡れていたけれど、澄んだ瞳は真っ直ぐに前を見つめている。

 そんな先輩に釣られるように、俺もゆっくりと立ち上がる。


「俺、焼き肉好きなんすよね。というか肉全般が好きっすね」

「私は魚派」


 喫煙所を出る俺たちを、雨の音が包んでいる。

 雨はまだ、止みそうもない。

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