風が君を運んできた

 真新しい制服に袖を通し、慣れないネクタイを結ぶ。少し不恰好な三角形がどこか初々しい。まだ細い身体には少し大きいブレザーの肩と身幅の空洞に、これから始まっていく生活への期待を詰め込んだ。

 もう半分以上散ってしまい、少し緑が目立ち始めた桜並木を見上げる。春の風が僕らの期待と不安を香らせながら、髪を揺らしていく。

 僕は今日、高校生になる。


   †


「――ぃよっ」


 ひょうきんな声とともに肩に圧し掛かる腕。僕が声のほうに振り向けば、調子のよさそうな笑顔がそこにある。


「なんだよ、いっちゃんか」

「なんだよって何だよ~。てか誰だと思ったんだよ。甘い甘い。高校生になったからって女の子が肩組んでくると思ったのか?」

「いや、思ってないけど」


 やれやれと肩を竦めるいっちゃんに僕は苦笑いをする。


「んなことよりよ、どうよ、今日の俺。なんか気づくことない?」


 僕の前に出たいっちゃんが立てた親指で自分を指差す。なぜそんなに得意気なのかは、ちょっとよく分からない。だがこういう意味のないやり取りにも、真剣に取り組んであげるのが僕のいいところだ。


「んー、なんだろ。制服?」

「おいおいおいおい。それは真面目に答えてんのかぁ? 制服はお前もお揃いじゃねえか!」

「いや、まあそうだけど。あ、ネクタイが曲がってるとか」

「ばっきゃろうっ! こ、これは初めて結んだからちょっと失敗しただけだ!」


 いっちゃんは鼻の穴を膨らめて、ネクタイをぐいぐいと引っ張る。慣れていない上に鏡もないとなれば綺麗に結び直せるわけもなく、気がつけばいっちゃんのネクタイは酔っ払って胸座を掴まれた後みたいにブレザーから飛び出していた。


「ええい! もうネクタイなんて知らん! てかそうじゃねえ! ほら、今日の俺、いつもと違うだろっ?」


 いっちゃんは外したネクタイを丸めて鞄に放り込む。僕は皺になるなとネクタイの行く末を憂いながら、もう一度いっちゃんをまじまじと眺める。


「んー……」

「ほらほら、分かるだろ? 分かるよな?」

「んー…………」

「そうそう、そうだ。ほぉら見えてきただろう?」

「…………」

「っておぉいっ!」


 いっちゃんがずっこける。相も変わらずすさまじいテンションに、僕は小さく笑う。


「髪だよ、髪! ほら! バリバリに立てたんだよ! イカすだろ? てかなんで気づかねんだよぉっ!」

「ああ、言われてみれば」

「かぁーっ、言われてみれば……ってなんじゃそりゃ! 伸びた坊主頭からの素晴らしいイメチェンじゃねえかよ。それを、それを……」


 いっちゃんが拳を握って自分の太腿を叩いている。僕はいっちゃんのヘアスタイルが「ワックスを覚えたての男子がやりがちな過ちランキング」第一位の〝とりあえず髪を立てる〟であることは黙っておくことにした。きっといつか自分で気づくときがくるだろう。そのときまで見守っていくのもきっと、友達としての優しさだ。


「だいたいよ、俺ら今日から高校生なんだぜ?」

「知ってるよ。ほら、制服着てる」

「はぁ……そういうこっちゃねえんだよなぁ。その古びたキーホルダーとか。女モンだろ? そんなもん鞄にぶら下げてたら、女子たちから白い目で見られんぞ!」


 いっちゃんは僕の鞄につけられたキーホルダーを指差す。ラメ入りのビーズが連なる先にぶら下がるのは二頭身のシカのキャラクター。元々は淡いピンク色だったそれは時間とともに薄汚れて、毛先のほうが黒ずんでくたびれている。


「いいんだよ。これはお守りみたいなもんなの」

「お守りねぇ。一体どんなご利益があるんだか」


 いっちゃんが呆れ混じりに肩を竦める。だけど僕は、たとえどれだけ汚れていても、もし本当に女子から白い目で見られるとしても、このキーホルダーを外すつもりはない。

 これは約束なのだ。

 遠い昔に交わした大切な約束。

 クラスでの自己紹介の練習を繰り返すいっちゃんをよそに、僕はもう一度桜並木を見上げる。

 思えば、出会ったのもちょうど、桜の木が碧くなり始めたころだった――。


   †


「――見ぃっけ、缶蹴った!」


 僕の全力疾走はむなしく、オレンジジュースの空き缶が宙を舞う。小気味のいい缶が転がる音を聞きながら、僕はよたよたと減速して近くにあったベンチに腰かける。


「あー、また一番目かよ~」

「すぐ見つかるとこに隠れてんのがわりぃんだよ」


 僕を見つけた鬼役の友達はすぐに空き缶を元の場所へと戻し、果敢に次の獲物を探しに出て行く。開始早々、いの一番に手持無沙汰になった僕は特に缶蹴りの展開に気を向けるでもなく、ぼんやりと風と踊っている桜の花びらを眺める。

 僕はこの季節が好きだ。春が終わって、徐々に夏に近づいていくこの季節。春の期待感は少ししぼんで、どこか物憂げな風が吹く。まるで夏に向けて助走をつけるような、この束の間の停滞がなんとなく心地よく感じられる。

 風がほんの少し強く吹いて、地面の花びらがはらはらと躍る。僕は舞い上がる花びらを目で追った。不意に、隣りの建物から窓の外を眺めていた女の子と目が合った。

 まただ。

 僕がそう思った矢先、こちらに気づいた女の子はぴしゃりとカーテンを閉める。

 これもいつも通り。

 僕はしばらく桜の花びらよりも淡いピンクのカーテンをじっと見つめた。そしてふといいことを思いつく。

 遊びに行って驚かしてやろう。

 どうせ僕は缶蹴りが終わるまで暇だ。ここでぼーっとしているよりは退屈しないだろう。

 思いつくや、僕は軽い足取りで隣りの建物――病院に向かった。



 とは言え、外から見ただけでは肝心の病室の場所は分からない。これまでに何回も目が合っていたおかげで三階だというのは知っていたから、僕は誰かの見舞いに来たらしい人に紛れて三階へと上がった。

 それから一つ一つ病室を覗きこみ、看護師さんに迷子かと心配されること五回。僕はようやくその子の病室へと辿り着いた。

 ベッドの上で点滴に繋がれ、大きなぬいぐるみを抱えていたその子は僕を見るや、元々大きな目をさらに大きくして固まっていた。


「よくちらちら見てるだろ」

 それが僕の第一声。その子はびっくりしたのか、あるいは恥ずかしかったのか、ぼすっと勢いよくぬいぐるみの背中に顔を埋めた。予想以上の反応に、僕は少し得意気になる。


「なんでいっつも見てんだ? 一緒にやったらいいのに、まあまあ面白いよ、缶蹴り」


 僕はその子のベッドに歩み寄り、脇に置いてあった椅子に腰かける。その子はゆっくりと顔を上げ、ちらちらと僕の顔を伺いながらか細い声で言う。


「……いっつも最初に見つかるのに?」

「余計なお世話だ。やっぱり見てるじゃん」


 ぼすっと、その子はまたぬいぐるみに顔を埋めた。


「見てるだけじゃ分かんないんだよ。まあ、見つかるのは楽しくないけど。僕、足遅いし。でも缶蹴りは楽しいよ」


 僕は得意になって缶蹴りの楽しさを話す。ルールに始まり、鬼との駆け引きまで。いつも一番最初に見つかる僕の話を、彼女は楽しそうに聞いてくれた。


「……変なの」

「ずっとこっから見てるだけのほうが変だよ。だから一緒にやろうぜ、缶蹴り」


 僕は何の気なしにその子を誘う。ここがどんな場所であるかなんて、考えもせずに。

 その子はぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて、俯く。


「……無理、だよ。わたし、走れないから」


 そこでようやく僕は自分がとんでもない失言を繰り返していたことに気づく。だけど一度吐いた言葉は呑み込めない。


「……わたし、病気なの。心臓の。だから、走ったり、遊んだりできない」


 泣きそうな声で言うその子に、僕は言葉を失う。そしてようやく、いつも窓から僕らが遊ぶ姿を眺めていた、その視線の意味を悟る。知らなかった。当たり前に友達と遊び、当たり前に自分の足で走り回ってきた僕には、それがない世界があるということを


「…………ごめん」


 長い沈黙のあと、ようやく絞り出した僕の情けない言葉は弱々しく響いて消えた。


「……ううん、平気。誘ってくれて、ありがとう。いっつも楽しそうで、見てるだけでわたしもすっごい楽しいから」


 その子はそう言ってへらりと笑う。その笑顔の切なさに、僕は幼いながらも殴られたような衝撃を受ける。何か言わなきゃいけないような気がして、だけど僕の喉元で言葉はあっけなくほどけていく。


「……でも」


 そんな僕の情けなさを見かねてか、彼女がぽつりと呟く。


「……でも、見てるだけじゃなくってお話するの、楽しかった。ありがとう」


 僕はたまらなくなって立ち上がり、何かから逃げるように廊下へと走る。だけどその子に背を向ける瞬間、またぬいぐるみをぐっと握った彼女の、怯えるような表情が目に入ってしまって、僕は扉の手前で踏み止まって振り返る。

 最初はきっと他愛のない悪戯心。そして大きな罪悪感。

 だから僕はその子と最初の約束をした。


「また来る! 缶蹴り以外にも楽しいことあるから! ちゃんと話しに、また来るから!」

「……うんっ」


 その子は今度こそ、満天の笑みを咲かせた。



 それからというもの、僕は友達と遊ぶたびにその子の元を訪れた。

 だいたいの場合、一番早く見つかって手持無沙汰になったし、何かが食い違ってなかなか見つからなかったときはわざと無茶な特攻を仕掛けて見つかったりして、その子の病室に抜け出す口実を作ったりもした。

 僕は彼女に日々の出来事を話した。

 友達が授業中に読んでいたマンガを取り上げられた話や、座った拍子に体操着のズボンが破れた話。覚えたばかりの九九を得意気に披露したりもした。

 休み時間に流行っているジョウセン――定規をペンで弾いて戦う相撲みたいな遊び――で優勝した話をすれば彼女がやってみたいと言ったので、僕は次の日には定規とペンを二人分持って彼女のところへと遊びに行った。大人げなく初心者の彼女を打ち負かす僕に文句を言いながら、彼女は楽しそうに笑っていた。

 色んな話をした。くだらないことがほとんどで、起承転結もままならなかったけれど、その子はどんな話でも楽しそうに頷いたり、質問したりしながら聞いてくれた。

 僕はだんだんと話すのが楽しくなっていった。話したいことが増えすぎたので、僕は彼女に話すことを書き溜めるノートを作った。

 僕がノートを見せると彼女はすごく喜んでくれた。最後まで書き切ったらノートをプレゼントすると、僕は彼女と約束をした。

 それからしばらくして、彼女が僕にシカのキャラクターのキーホルダーをくれた。いつも抱き締めているぬいぐるみと同じだった。照れ隠しにピンクなんて女っぽいと僕が言ったら、彼女が泣きそうになったので僕は慌てて取り繕う言葉を探した。


「あ、でもよく見たら、君に似てるかもな、こいつ。よし、そうだ、決めた。僕、こいつに色んな楽しいことを見せるよ。君が見られなかったり、できなかったりする代わりに、僕がこいつと一緒に見たりしてくる。な、いい考えだろ?」

「変なの」

「変じゃねえよ、約束だ」


 僕は彼女に向けて小指を立てる。彼女はなぜかもじもじしながら、僕の小指に自分の小指をそっと絡めた。


「「ゆびきりげんまーん、嘘ついたらはりせんぼんのーますっ」」


 もうそのころには、最初の日に抱いた罪悪感はどこかへ消えてなくなっていた。


「「ゆーび、きった!」」



 僕は約束を果たすべく、あっという間にノートを埋めた。と言ってもそれほど苦労はなかった。僕が何気なく過ごしていただけで、毎日は楽しいことや面白いことに満ちていた。僕は彼女のおかげで過ぎる時間の尊さを知った。

 そしてあの子が喜ぶ顔を想像しながらいつものように僕が病室を訊ねると、慌ただしく彼女の部屋から出てきた看護師にぶつかった。看護師は短く謝って走り去り、すぐに医者を連れて戻ってきた。ベッドの上では、あの子が苦しそうに胸を抑えて喘いでいた。

 医者がよく分からない専門用語で看護師に指示を出し、彼女に向かって大丈夫だよと繰り返す。だけどその子は苦しそうに呼吸を繰り返すばかりで、一向に収まる気配はない。

 間もなく彼女はストレッチャーに移されて、医者と看護師が囲むなかを病室から運ばれていく。

 僕は何もできず。どんな声もかけられず。日々の出来事で埋め尽くされたノートを握りしめて苦しむ彼女を見送った。

 僕は改めて現実を理解する。彼女が生きる世界が、どれほど儚いものなのか。

 僕らが何の疑いもなく紡いでいる明日が、彼女にとってどれほど尊いものなのか。

 何も分かってなどいなかった。

 甘かった。

 怖いと思った。

 あの子がいつかいなくなってしまうかもしれないことが。

 へらっと笑うあの顔を、もう見られなくなってしまうかもしれないことが。

 怖気づいた僕には、彼女のいなくなった抜け殻のようなベッドにノートを置いて、逃げるように家に帰るしかできることはなかった。



 それからすぐに梅雨がきて、僕は病院には行かなくなった。

 元々は隣りの公園で缶蹴りをして遊ぶ合間の暇潰しだったのだ。だから長雨のせいで缶蹴りができなくなったのだから、病院に行かないのもまた当然だ。

 僕は、自分に、そう、言い聞かせた。

 本当はいくらでも病院に行く時間はあった。あの子に会いに行くことはできた。

 でもそうはしなかった。

 できなかった。

 毎日のように訊ねるうち、いつか突然にあの子がいなくなってしまうんじゃないかと。

 また空っぽになったベッドを目の当たりにするんじゃないかと。

 怖くなった僕は、もう病院には行けなかった。

 だけど僕がどれだけ立ち止まろうと、時間は関係なく流れていく。

 梅雨が明け、僕は誘われるがまま、またあの公園で缶蹴りをする。

 気になって伺う三階の窓に、彼女の姿はなかった。代わりに小さな子供がいて、お母さんらしい女の人と一緒に窓の外を眺めていた。

 僕は情けなくも現実から目を背け、あの子と過ごした大切な時間は呆気なく終わりを告げた。


   †


 あれから九回の桜が咲いた――。

 それは僕が、この汚れてしまったシカのキーホルダーと一緒に桜を見上げた回数でもある。

 年々暖かくなる冬のせいで、桜の開花はすっかり早まり、今ではこうして四月の頭だというのに緑が目立つようになった。

 目まぐるしく流れ、変わっていく時間のなかで、僕はあのときの不甲斐なさを後悔するように、今でも約束を守り続けている。


「おーいっ、なにぼさっとしてんだ。遅刻すんぞーっ!」


 僕がぼんやりしているうちに、先へ進んでしまったいっちゃんが手を振っている。初日から遅刻はまずい。僕はふわりと吹いた風に乗るように歩調を早めて、いっちゃんを追い駆け――――


「……あのっ」


 流れていた時間が止まった。風も、音も、まるで世界から切り離されてしまったみたいに止まった。僕自身の鼓動だけが、耳の奥で妙に響く。

 僕は、僕を呼び止めた声のほうへゆっくりと振り返る。

 すぐ後ろに、女子が立っていた。僕と同じ高校の制服。ネクタイと同じリボンの色は、その女子生徒が僕と同じ新入生である証だ。


「……い、いきなり、ごめんなさい。あの、すごい変なこと、聞くんですけど、えっと、その、キーホルダー……」


 彼女はまん丸の瞳を僅かに潤ませて、頬をほんの少し朱に染めて。黒ずんだピンクのシカを控えめに指差す。


「…………うん」


 僕が頷くと、彼女はへらりと口元を綻ばせる。

 もう片方の腕に、よれよれになったノートを、大切そうに抱えながら。

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