第2話

 残念ながら覚えがありませんでした。しかし、こんなにうれしそうにそう言われて「いいえ」というわけにもいかず、さっき太郎さんと呼んだことを思い出し、

「あなたは太郎さんだったかしら?」

と答えてしまいました。

「ハハハ……いいですね。今日から太郎さんと呼んでください」

あの方が、話を合わせてくださいましたので、そのまま誰なのか聞きそびれてしまいました。

 考えてみると、新婚旅行先で夫が眠っている間に殿方と話をするなんてふしだら極まりないと思うのですが、その時は淋しさの方が上回っていましたし、不思議な安心感をくださる方だったので、もっと話したいと思ってしまいました。

「少しお待ちになって」

私は主人に聞こえないよう、主人が寝ている部屋を出て扉を閉め、私たちの部屋の玄関、と呼べばいいのでしょうか? 特別室だったので、そのような造りでした。とにかく玄関に移動し、部屋から持ってきた椅子に腰かけたのです。

「お待たせいたしました」

私はもう一度鏡をのぞきました。

 あの方はしばらく私の顔をみつめて、何かを感じとられたようで、こうおっしゃいました。

「花江さん、大丈夫ですか? 私でよかったら話してください」

私は不安と淋しさとでいっぱいいっぱいで、誰かに聞いてもらいたいと思っていたところだったのです。勝手に涙がぽろぽろこぼれました。そして、あの方にお見合いからこれまでの状況を全部話してしまいました。

「お一人で大変でしたね。あなたはよく頑張った。そのおかげで、今、ご主人は安心して眠っていらっしゃいます。……しかし、花婿が眠っている間に花嫁と会話しているとは、申し訳ない」

「かまいません。世の中の半分は男性なのですから、話さずに生きていくなんて無理です。こんな日もあります」


 なんという大胆なことを言ってしまったのでしょう。私は何故かあの方と話すことをやめたくなかったのです。

「実にあなたらしい」

あの方は笑いながらしばらく私の顔を見ていました。

「あなたは長男の妻になれて良かった。色々と恵まれているはずだ。私は次男だから、何もない」

「確かに物やお金には恵まれています。でも、私にあの家の嫁がつとまるかどうか、不安ですわ」

「あなたなら大丈夫ですよ」

「なぜわかるのですか?」

「あなたは今までもそうだったからです」

 その時はそれが何を意味しているかそこまで気にも留めずに話を続けていました。あの方は本当に聞き上手なので、私はついつい自分のことばかりしゃべってしまいました。それを、あの方は楽しそうに聞いてくださいました。私も楽しくて楽しくてすっかり打ち解けてしまいました。


「ごめんなさい。私のことばかり話していましたね。あなたのことをお聞きしたいですわ」

「私の事……。聞いたら驚いて逃げたくなるかもしれませんよ」

あの方は少年のようないたずらっぽい笑顔でおっしゃいました。

「たとえあなたが鬼や悪魔でも驚きません。私はおそばにいられますわ」

「本当に?」

「ええ。逃げたりいたしません」

「それじゃあ、遠慮なく正体を明かしましょうか」

「はい。よろしくお願いします」

「花江さん、鏡の上にあなたの手を置いていただけますか?」

「こうですか?」

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