天真爛漫パンダ

@katsuhira

第1話


 家のポストに星沙からの絵はがきが届いていた。一ヶ月ぶりの連絡になる。緑がいっぱいの山が重なり合っている写真だった。パンダが小さく一頭写っている。もちろん僕には場所はわからないが、右下の方に四川省と書いてあった。中国の内陸にある地域で、何とか盆地が有名なところだ。大学受験で使った10年近く前の知識を総動員してもこれだけしか出てこない。届いた絵はがきにはメッセージが書かれていた。

 『元気? 25日の夕方あいてる? 荷物めっちゃ多いから、時間があったら空港に迎えに来てほしいな。4時半ね』

 ちょっと待て。25日は今週の金曜だ。普通に仕事がある。とにかく星沙に連絡して交渉だ。

 携帯を取り出すが、中国では携帯が使えないのだった。正確には使えるが、料金が高いからと使わないらしい。中国と日本で展開しているレストランの社長が何を言っているのだろう。何にせよ携帯で連絡はとれない。

 パソコンは、あっちでは使いたくないから見ないと言っていたな。落ち着こう。まだ4日ある。そうか、速達で返事を出せばいいのか。こんなことに気がつかなかったなんて。

……。

 ハガキに差出人住所が書いていない。

 仕方がないので明日、仕事を休むことにした。忙しい時期ではないから何とかなるはずだ。


 朝目覚めて準備をする。自宅を出る時に何気なくポストを開けると、また絵はがきが入っていた。

 『空港って、そっちの空港じゃなくて、中国の空港ね』

 中国まで迎えに来いだと!? だいたい中国のどこの空港だよ!?

 わかっていること、4時半出発(たぶん)の福岡空港行き。

 思い出したこと、迎えに行かないと理不尽にも彼女は怒る。

 決まっていること、僕に選択肢はない。

 そんなことを考えながら会社に行く。

 「なにぃ? 中国だぁ? 恋人を迎えに行く? 行って来い。お前正直だな。だが正直に言われたら俺たちはお前に行くなとは言えない」直属の上司の許しを得た。

 言い出しにくかったが、とにかく休みを貰えた。次は飛行機の便の目安をつけて予約をしなければならない。

家に着くと、また絵ハガキが届いていた。これ以上の無理難題を考えると落ち着かない。やはりラブレターというものはドキドキするものなのか。いや、そういうドキドキではないことは確かだ。メッセージは一言、

『早く会いたいです』

 いや、そういうドキドキだった。安心した。

『それと、やはりここに来てもらうのは大変だと思うから。福岡空港で待ってて』

彼女にも常識があったらしい。いや、行こうと実際に考え、行動していた僕が常識どうこうもないな。

『P.S.遅刻厳禁!』


 30分早めに空港に到着した。何事も早目が丁度いい。予想外のことに対処する心の余裕が保てるからだ。

 地下鉄の駅のベンチに腰を下ろし本を取り出そうとしたら、メールが届いた。

 『着いちゃった』

 何事も早目が丁度いい。他人が付き合えればだが……。

 「お帰り」さっそく電話を入れる。

 「ただいまー。どこ? 駅? そこじゃダメだから国際線のターミナルに来てね」

 国際線のターミナル行きのバスに乗った。顔が緩む。着いた。あれだ。パンダのぬいぐるみの手をこっちに向けて振っているあいつだ。

 「来てくれてありがと」満面の笑顔で彼女は言った。

 「おかえりなさい」

 「我回来了」おそらくただいまと彼女は言ったのだろう。時間より早く来た恋人の「おかえりなさい」に対して、「遅い」はないはずだ。けれど万が一があるから「ただいま」かどうかは確認しないことにした。

 帰る途中、話に夢中で二人して切符を改札口に忘れた。戻って駅員さんに尋ねる僕ら。

 彼女の家に送って行くと、ひまわりの種やらなにやらと食べさせられた。 パンダのぬいぐるみも貰った。パンダは30cmくらいの大きさで、緑のリボンを首にまいている。座っているポーズで胴体と同じ大きさの黄色いカゴを抱きかかえている。

 「重い荷物持ってもらってごめんね。ありがとう」

 「いや、君に重い荷物は持たせられないよ。長旅おつかれさま」

パンダもうなずいたように見えた。


 星沙の家で目を覚ますと姿が無かった。

 彼女、ではなくパンダの姿だ。

 30cmほどのパンダがなぜ消えたのか。

 それは彼女が移動させたからに決まっている。彼女の寝相は悪い。いびきをかかないだけ女性として救いはあるが。タオルケットはベッドの下に落ち、ヘソ出しルックだ。薄い黄色に小さなパンダの絵が散りばめられていて、よく似合っている。

 タオルケットを彼女のお腹にかけてやる。

 本当はベッドにまっすぐ寝かしてやりたいが、すぐに大の字になるのだろう。起こしても悪い。そして僕は顔を洗い、料理でも作ろうと冷蔵庫に手をかけたが、ふとパンダが頭をよぎった。

昨日、パンダを貰って、どこに置いたか。

 間違いなく枕元だった。

 枕元にパンダはなく、考えられるのは彼女が動かしたということだ。電気を消してすぐに寝付いたが、その後移動させるものだろうか。

 彼女は今も大の字で寝ている。

 部屋に戻り見渡す。シングルベッドで寝ている。もうすでにタオルケットはベッドから落ちている。ベッドは向かって左側の壁際にあり、右側にはロングソファーがある。僕は確かにこのソファーの枕元に置いていた。そしてこのソファーで寝たのだ。

 ふと、カーテンがなびいたことに気付いた僕は近づいた。

 窓が開いている。

 クーラーが入っているのだから、昨日は閉めて寝たはずだ。ベランダに出るが、何もない。しかもここは6階だ。念のため玄関に行くと、鍵が開いていた。昨日は確かに鍵をかけた。彼女が先に部屋に入り、僕が鍵をかけたのだ。つまりパンダは、僕らが寝た後に、窓を開けてベランダに出るが、そのあまりの高さにここから出られないことを悟り、玄関から出て行ったことになる、わけがない。あれはぬいぐるみだったはずだ。すると僕らが寝た後に誰かが入って来て、あのパンダを持ち去ったということになる。窓から入って、玄関から出て行ったと考えるほうが妥当だろう。急に寒気がした。

 今すぐにでも彼女を起こしたほうがいいが、彼女を起こすことは僕の死を意味する。彼女は自分でセットした目覚まし時計で目覚めることですら嫌う。自然に目を覚ますのだ。何度かアラームで起床する朝に出くわしたが、恐ろしかった。関係ない僕にあたってきて、理不尽だった。一度、彼女を起こしたことがあったが、それはもう思い出したくない。事件のにおいがしても、寝かせ続けてあげることを優先する自分がいる。

 考えても、パンダ失踪事件はすでに起こったことであり、彼女を起こすこともできない。

 玄関の鍵を閉め、キッチンに戻る。ご飯に目玉焼きに味噌汁を一人分作る。パンが残っているかどうかも確認する。テーブルを片付けて丁寧に拭いた。いつでも朝食を準備できるようにする。テレビをつけた。ニュースを見ながら、僕は身支度をする。

「おはよう」後ろから声がした。

「おはよう」振り向いて返事をする。

「あっ、天ちゃんがいない!」彼女が叫んだ。あのパンダのぬいぐるみは天ちゃんと言うのか。

「昨日、寝る前にちゃんと見といてって言ったでしょ」彼女は睨んだ。

確かに言っていたけど、意味がわからない。

「天ちゃんはすぐにどっか行っちゃうの」と言い、彼女は玄関に向かった。

「あら、鍵かかってるわね。そっか、天ちゃんは頭いいと思ってたけど、鍵をかけて出て行けるほどとは思わなかった」彼女は一人で嬉しそうに頷いていた。

「どういうこと?」僕は尋ねた。

「天ちゃんは頭が良いパンダなのよ」右手の人差し指を立てながら満足そうに言う。そういうキャラ設定なのか。

「ちなみに朝起きて、窓が開いていて、鍵も開いていたよ。両方閉めたのは僕」と説明した。

「あら、鍵の場所がわかるほど、頭よくなかったのね」彼女は残念がった。

「朝食すぐに準備できるから、食べたら警察に電話しよう」

「準備できてるとは、流石ね。けど警察はダメ。あなたが探すのよ」人差し指で刺された。顔が引きつった。

「ならテーブルで待ってて、すぐに朝ご飯だすから」僕はキッチンに向かう。

ご飯をテーブルに置くと、見るや否や彼女は、

「今日は、パンの気分なの。わかる?」と言い放った。

「すぐに持ってくるよ」と言い、ご飯をテーブルの端に寄せる。

キッチンからクロワッサンと牛乳を持ってきてセッティングした。皿の配置、パンの角度まで気を使う。僕が高級レストランで働けているのは、彼女のわがまま……いや、彼女のおかげと言っても良い。

「いただきます」僕が座るや否や彼女はさっそく食べだした。

「いただきます」僕も続く。

「朝ごはん食べ終わったら、すぐに帰って旅の準備をしなさい。夜の7時までにはここに戻ってくること」

「いや、これが済んだら貴重品チェックして警察に電話だろ?」僕は真顔で答える。

「私のお願いが聞けないの?」少し潤んだ目でこちらを見てくる。演技だと思っていても、僕の心と口は、意思に反して動く。

「すぐに帰って、準備するよ」

「ありがとう。嬉しい」彼女の目が輝いて微笑んだ。僕も微笑んでしまう。

「で、何で旅行の準備なの?」

「それはまたここに戻ってきたらわかるわ」真面目な顔に戻った。

「何か特別必要なものはあるかな? 何泊くらいするの?」

「何泊になるかわからないわ。あなた次第ね。あなたの能力次第」

ものすごく嫌な予感がした。

「必要な物は特に……あ、天ちゃんは笹の葉が好きね。それでおびき出すのもいいわ」笑顔で語る彼女を前にして、確認しなくちゃならない。

「あの、天ちゃんってぬいぐるみだよね?」

「天ちゃんは頭が良いパンダよ。ぬいぐるみじゃないわ」一瞬、頭が痛くなったが、つじつまが合った。だが、パンダを日本に連れてきてはいけなかった気がしてならない。法律的に。

「あのさ、旅行って言うか、旅? 天ちゃんを見つけるまでの?」身体中から汗が吹き出る。有り得ないが、彼女といると何でも有り得てしまう。

「もちろん」笑顔を見るともう何も言えなかった。

 食器を洗い終えると、準備をして必ず19時までには戻ってくるよと彼女に伝えた。

 家に着いた僕は、旅行用のボストンバックとリュックサック、会社用のカバン、大学生時代に使っていたショルダーバックを出した。今、家にあるカバン類はこの4つだけだ。

 さて、パンダはどういった場所にいるんだろうか。せめて暑い場所か寒い場所かだけでも教えてほしい。しかも何日、何ヶ月の旅になるのだろうか。彼女が言い出したのだから、見つかるまでは探し続けるだろう。

どこにいるかだけでも知りたくなって、パソコンを立ち上げ『パンダはどこへ消えた?』と検索してみた。実に100万件以上ヒットした。世の中には僕以外にもパンダを探している人たちで溢れているのだなと感心してしまった。3件ほど流し読みしてみたが有力な情報を得られそうにもないのでやめた。

 「パンダ」はネパール語で「竹」を意味する「ポンヤ」に由来するらしい。中国語で「パンダ」は「熊猫」と言う。ジャイアントパンダとレッサーパンダの2種類がある。彼女が連れて来たパンダはジャイアントパンダの子供のようだ。目の周りと耳と肩と両手、両足が黒でその他は白ではなく、クリーム色らしい。白にしか見えなかった。パンダがどんな動物か調べれば調べるほど、肩に力が入り汗が出てきた。パンダは絶滅に瀕している動物であり、野生パンダの生育数は1,600頭ほどだそうだ。そのためワシントン条約でその売買が禁止されている希少動物だと出てきた。ネットの情報だから正確なところはわからないが、パンダについて無知な僕にとっては充分な情報に思えた。彼女はどうやって日本にパンダを連れてきたのか。ぬいぐるみと偽るにも限界がある。あれはやはり、ぬいぐるみで、僕が寝た後に彼女が隠して鍵をあけたイタズラだと考えたほうが自然だ。いや、そうであってほしい。そうであるなら、旅行の口実だから、長くても一ヶ月の旅だろう。今は夏だし、仮に行き先が中国でもそう気候が変わるわけでもない。

 リュックサックに3日分の着替えと、まだ読んでいない文庫本を5,6冊投げ込んだ。後は貴重品だけで何とかなる。 職場に休ませてほしいと電話をしたら、もう来なくていいと言われた。こんなにあっさりかと呆気にとられた。こんな風に世の中のことが進めば、パンダもすぐに見つかるような気がした。いや、あれはぬいぐるみなんだとすぐに自分に言い聞かせたが、自分の心は、これから本物のパンダを探しに行くんだとばかりに、鼓動や感情で伝えてきた。もしも本物のパンダなら、彼女は犯罪者だし、もしパンダが自分で出て行ったとしたら……想像には限界があるが、この現実は想像を超えそうで考えるのをやめた。パンダが連れ去られたとしたら、彼女がパンダを日本に連れてきたことを知っている組織立った何か、そう考えるのが筋が通っている。いや、通っていないのだが、もはや現実離れしているのだから、起こりえるのだ。

 冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し、1本は一気に飲み干した。リュックに入れた本を1冊取り出した。タイトルは『羊をめぐる冒険』だった。この主人公は羊で、僕はパンダか、とほんの一瞬だけ考えた。もう一本のビールをあけ、本を開く。


 読み終わると丁度良い時間になっていた。

 もはや、パンダが本物で未知な世界への旅になろうとも、パンダがぬいぐるみで彼女との旅行になろうとも、どうしようもないことに変わりはないのだ。僕は彼女に逆らえない。会社も休んだ。

 彼女のマンションに着き、周りを確認しながらマンションに入った。パンダはどこにもいなかった。。

 彼女の部屋に入ると、彼女はテレビを見ていた。僕に気が付いた彼女はこちらも見ずに

「時間ぴったりね」とだけ言った。

腕時計を見ると18時過ぎだった。

「ぴったりかな?」19時だったはずだ。

「喉渇いたからお茶とって」と今度はこちらを見て、笑顔で言った。

「かしこまりました」とだけ答える。

「予想とぴったりなのよ」と彼女は答えた。

 お茶を二人分テーブルに置くと、僕もテレビを覗き込んだ。野球中継だった。それもまだプレイ・ボールされる前の球場だった。選手達の練習の光景が映し出される。ファールかホームランか見分けるための長いポールも映し出される。選手の練習に戻る。

「ねぇ、野球に興味あったっけ?」疑問に思うや否や聞いてみる。

「あっ、見て! 見て!」と彼女は僕の左肩を右手で叩きながら、左手でテレビ画面を指差した。

「何かあるの?」聞きながら画面を見るが、観客席が映し出されているだけだった。身を乗り出してみるが観客の個別の顔がぎりぎり判別できるくらいの映り方だった。ウォーリーでも探すのか。

「右下のほう。あの麦わら帽子」彼女はテレビ画面を指差した。

僕は驚きのあまりに声を失った。何と、あのパンダが麦わら帽子をかぶって座っているのだ。

「天ちゃんいたよ」笑顔で彼女は振り向き、僕の驚いた顔を覗き込んだ。

「いやいやいやいや、ありえないでしょ」精一杯そう言った。それしか言うことがないのだ。お茶を手に取ろうとするが、手が震えていたためやめた。

「それじゃー、さっそくドーム行こう。ドーム」といって彼女は立ち上がった。

「ちょっと待って、何でパンダが麦わら帽子をかぶって野球観戦してるんだ?」視線を彼女からテレビ画面にまた戻すが、練習風景に戻っていた。あれは、一瞬の錯覚ではないか。そう思いたくなる。30cmほどのぬいぐるみが1座席を陣取って座っていた。

「天ちゃんは天心ベアーズのファンなのよ。対戦相手のファンじゃないから安心して」彼女は嬉しそうに一人で肯いた。

どこの球団を応援しているのかなんてどうでもいい。

「答えになってない。なぜ、パンダが人並みに行動していて、周りの誰もが気が付かないんだ。タオル売った奴とゲートを通した奴は何をやってるんだ」少し早口に口調が強くなってしまった。

「天ちゃんは頭が良くてアクティブだから何でもできるのよ」笑顔でそう言うと真剣な表情に変わった。

「周りの誰も気付かない? 世の中の人なんて自分に都合がいいことにしか目を向けないの。それか自分を見てる人ね。中にはちゃんと天ちゃんを認識した人がいたかもしれないけど、その人達は世界というものを理解してる」そこまで言うと星沙の表情が和らいだ。

 言っていることに理解はできそうだけど、起こっている現実に納得はできそうにない。

「天ちゃんは可愛いからみんな許してくれたんじゃないかしら」と言って彼女は微笑んだ。

「よりによって何で麦わら帽子のパンダが映るんだ?」状況が飲み込めなくて、どうしようもない自分がいる。質問も本当に聞きたいことからピントがズレてきている。

「そんなに麦わら帽子をかぶってる動物が珍しいの? 私、テレビで麦わら帽子をかぶった白い犬をよく見かけるけど?」彼女は微笑んだ。

「白い犬?」

「そう。凛々しい顔をした白い犬」彼女は肯いた。

それはきっと、お父さんだ。某携帯会社CMのお父さん……。

「さぁ行こうか」僕は立ち上がった。

これ以上の質問を重ねても無駄な気がした。彼女に全て聞こうとしても教えてくれないだろうし、分からないだろう。自分なりに理解して自分で納得するしかないのだ。そのために経験しなければならない。まずは天ちゃんに会う。

「リュック持って行った方がいいわ」と彼女は僕のリュックを差し出した。

「そんな予感がするんだね?」ドームに着いてすぐに、天ちゃん発見にはならないということか。

「そのリュック似合ってるから」と親指を立てた。

「あ、うん。そうか、ありがとう」僕は苦笑した。

 マンションを出ると、すぐにタクシーが捉まった。

「ドームへ。できるだけ早くお願いします」と僕は言う。

「了解しました。お二人で野球観戦ですか? 羨ましいですね」人の良さそうなおじいちゃんドライバーだった。目が細く垂れており、白髪で髭は生やしていなかった。見かけとは裏腹に口調と運転操作は機敏で頼りになりそうな感じだった。

 ドームまで人の良さそうな運転手さんの野球談義に相槌をうっていた。彼女は携帯ゲームで太鼓の達人をしていた。

「この辺で降ろしてください」と徒歩5分内くらいの場所で頼んだ。

「了解しました」と鋭く運転手は言い。荒々しく路肩に寄せた。扉が開いた。

「ありがとうございました」と言い、僕は3千円支払った。

「私、白鳥と申します。またお会いできそうな気がします」おつりを渡されながら言われた。扉は閉まり、すぐに白鳥さんが運手するタクシーは発進した。

「ねぇ、あの人ってお客さんみんなに『また会えそう』って言うようにしてるのかな? それとも僕らにだけだと思う?」前者なら白鳥さんの仕事のおまじないなのだろう。お客さんを大切にする気持ちが別のお客さんを引き寄せるといった類の縁かつぎなのだろう。そう言われるとまた会えそうな気もしてくる。後者ならパンダを探す旅のどこかで、ひょっとしたら助けられるのかもしれない。パンダが球場にいることを受け入れない僕がそう考えるのもどこか矛盾しているような気がして笑えた。

「ドン ドドドドドカドン ドドドドドカドン カカカッ カカカッ」と口ずさみながら彼女は完全に僕を無視した。

「ねぇ、みんなに言ってるのかな?」無駄なような気もしたが、もう一度聞いた。

「カカカッ ん? 何か言った?」太鼓のリズムの切れ間に彼女は答えた。 終わるまで待つために、目の前にあった自動販売機で飲み物を買おうとしたら、

「早くヤフードーム入りましょう。ぼーっとしない」と彼女に怒られた。

 「大人二枚、場所はレフトスタンドでお願いします」

 お金を支払い僕らはドーム内に入ってゲートを潜った。

 さっそくスタンドに行こうとしたが、彼女がどうしてもチェリオを食べたいというので買ったが、想像していた味と違うと言い、僕の頭をそのチェリオで叩いた。もったいないので僕はそのチェリオを食べた。チェリオももったいないが、彼女に腹を立てる時間ももったいない。こんなことをしている間に天ちゃんは別の場所に移動するかもしれない。

 レフトスタンドに着いた。天ちゃんがいたであろう席を探す。念のため彼女からも目を離さないように気をつけた。連れ去られるかもしれないし、勝手にどこかに行くかもしれない。

 一通り、天ちゃんがいたと思われる場所を見たが、いなかった。麦わら帽子にも注意した。誰かが抱きかかえていないかどうかも確認した。スタンドに入ってから15分が経過していた。これだけ探してもいないとなると、天ちゃんはあまりのホークスの弱さにがっかりしてもう球場を出たのじゃないかと思いたくなる。

 そんなことを考えた数十秒の隙に彼女が視界から消えていた。慌てて走り回ると売り子さんにぶつかりそうになった。彼女は麦わら帽子をかぶって球団のタオルを首にまいた白のタンクトップのおじさんと話していた。とにかく見つかったことに胸を撫で下ろし、すぐに向かう。

「やぁ、こんにちは」僕が近くまで寄ると僕よりも先におじさんが挨拶をした。

「こんにちは」反射的に深々と頭を下げてしまった。

「私のことはケンと呼んでくれ。君が聞きたいことは全てこの子に話したよ」と言って彼女を見た。

「あ、ありがとうございます」何と言っていいかわからず、そう答えた。

「君達は珍しいね」

「何がでしょうか」と尋ねる。

「私が小さい頃から最近になっても君達みたいな心を持っている人間は少ないよ。想像もしないような困難に立ち向かい続けている君達は素晴らしいと思う」笑うおじさんの皺が、笑う表情を際立たせた。

「あまり見かけないということですか?」とりあえず質問をする。

「そういうことではない。私は自然とそういう人と出会う。けれど、昔から今もそういう人間は少ない。生きている実感を持っている人はね」

「僕は必死に目の前のことに集中して行動しているだけです。そんな実感はありません」

「それこそが自分に正直に生きているということだよ。君は好きな音楽を聴いている時、聞いていると考えるかい? 音楽と一緒になっているんじゃないかな?」

「確かにそうです」

「つまり好きなことを一生懸命し続ける状態、必死に目の前のことと一体になり続けることが生きているということだよ。たまに振り返って生きている実感を味わえば良い。時には思考する。けれど普段は遮断する。これが自分らしい人生を生きるコツだ。君はまだ考えすぎるところがあるようだ」

「はい」僕には相槌を打つことしかできない。

「こんなことを言わなくても君は充分そういう生き方を選択してきているのだけどね。そこのお嬢さんとの出会いが君を変えたね。人、ひとりの覚悟、生き方が他人の人生を大きく変えるんだよ。君にもその力がある。そこのお嬢さんに感謝しなさい」そう言うとおじさんは皺くちゃになって微笑んだ。

「困難にぶつかったり諦めそうになったら、人のために何が出来るかを考えて何度でも立ち上がりなさい」おじさんは右手を差し出してきた。

 恐れ多く、握手なんかしてもいいのかなと迷いながらも僕も右手を差し出した。

「グッドラック。陰ながら応援させてもらうよ」と力強く僕の右手が握り締められた。その力強さに僕の心も熱くなった。

「さて、行きましょう。どうも、ありがとうございました」珍しく隣で黙って話を聞いていた彼女が口を開いた。

「あ、ありがとうございました」僕も慌ててお礼を言うと、歩き出す彼女の後ろについて行った。

 「あ、ありがとう」照れくさかったが、彼女の後ろから彼女に向かって言った。いや、つぶやいた。

 彼女は立ち止まって振り返ると「どういたしまして」と笑顔で言った。

 僕は頬と胸が熱くなった。鼓動が早まる。視線を斜めにそらした。

「天ちゃんはもうここにはいないわ。ゆっくり夕食にしましょう」

「そ、そっか。わかった」次から次へと起こる出来事に思考がついていかない。

「さっきのお礼の話を聞かなくちゃ。何のお礼なの? 何を食べさせてくれるの?」

僕は何のお礼をしたのだろうか。彼女の全てに対してか。いや、さっきのおじさんの話で思い出した彼女は出会った頃の彼女だ。もちろん全てに感謝しているけど、思い出したのはその頃の彼女だった。

「思い出のレストランに行こう」

「レストラン『美紀』ね。懐かしいわ」彼女はあの頃と変わらない笑顔で微笑んでくれた。

 外に出ると、人は少なかった。まだ試合途中だからだ。タクシーに乗ると、白鳥さんではなかった。運転手に行き先を告げ僕は一息つく。

「君は他にどんな話が聞きたい?」と彼女の顔を覗き込みながら囁く。

「これまでのことと、これからのことね」と細い目になり色っぽく微笑んだ。

 彼女はそれだけ言うとカバンから携帯ゲームを取り出した。僕はただドキドキしていた。 彼女と一緒なら何をしていても幸せだなと思った。


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