キオクビト
瑠璃・深月
序
きおくびと
厳しい冬の夜、鏡のようになったガラス窓はカタカタと音を立てて外の吹雪から部屋の暖かさを守っていた。
いまだ薄らいだ意識の中、それがようやく分かるようになってきた。一体何があってこんなことになったのだろう、よく分からない。
ただ、体に刻まれた恐ろしい記憶と、誰かに助けを求めなければならないほどに追い詰められた自分の心がすべてを支配していた。体は言うことを聞いてくれなかった。ひどい熱と痛みにうなされている。本当に、何があったのだろうか。このまま忘れていたほうがいいのだろうか。思い出せば、きっと恐ろしいことがずるずると引きずり出されてしまうだろう。熱と痛みにさいなまれる体の中で、心だけが安心していた。もう、恐ろしいことは終わったのだ。そう告げる声が何度も頭の中に響いていた。
視力は半分ほど戻っただろうか。ぼんやりと部屋の様子が見て取れた。目の前には誰かがいる。その誰かの手が伸びてきて、自分の額に触れた。その冷えた手が熱を吸い込み、心地よい感触と安心を体に伝えて行った。その手は黒い髪を丁寧に梳いて、離れた。
「今は、全てを忘れて休むといい」
聞いたことのある声が、そう告げた。
ここは大丈夫、だから安心していい。そう聞こえたので、そのまま意識を落としていく。
額に触れたその手を、その手の主はじっと見つめた。静かに部屋を出ると、戸を閉めて、外にいた誰かと交代して去って行った。
何も言わずに、去って行った。
そのあと、どうなったのかは分からない。ただ、何かがあった。それだけは分かっていた。意識を落としていくまでの間、体の節々が痛んだ。今までなかった痛みが加わっていた。確か、だいぶ体は回復してきていたはずだ。なのに、また、こんなことになっている。そして、手首や足首がひりひりと痛み、新しく巻かれた包帯が、手首の動きを阻んでいた。体はいまだに動かない。動かす力さえ出てこなかった。目を閉じると、ほぐれた不安と緊張のせいで、大きな安心が訪れた。何があったのか、自分はどうしてしまったのか、思い出せないが、思い出さないほうがいいのだろう。
そのまま意識を落としていって、気づくと眠っていた。
部屋を出た人影は、長い廊下を歩いて、いくつもある部屋の中から一つを選んで入って行った。先ほどの部屋から一階下に下りた、二階の部屋だ。白い扉を開けると、そこに何人かの人間がいた。
「タグが取れたよ。実験体のタグだ」
一人の大柄な男が、手に持った小さな銀色の環を、部屋の中央にあったテーブルに置いた。もう片方の手に、そこから取り出したであろう赤いチップを持っていた。小さなそのチップは、その中年の男の手にしっかりと握られていたが、簡単には壊れないのだろう。つまみ上げた手に力がこもっていた。
「こんなものを、西はどこで手に入れたのだ」
呆れるような言い方だ。中年の男は、ため息をつくと、そのチップを、テーブルに置いた環の隣に置いた。
「東に、内通者がいるかもしれない」
先ほど入ってきた男は、そう答えて拳を握った。今、彼の中には大きな憎しみと後悔、そして悔しさが渦巻いていた。自分ができたこと、できなかったこと。それが今の彼のすべてだった。歯を食いしばって嫌悪感に耐える彼の肩に、中年男性の手が乗る。
「君のせいじゃない。あまり自分を責めるな。こうして君たちが生きて帰ってきたことが、全てだ」
「しかし、自分が甘かったせいでこんな事態を招きました。僕は、大切にしている人ひとり守れない。むしろ、満身創痍の状態で助けてもらう始末です」
「気にしないほうがいい」
中年男性は、そう言うと、青年の肩から手を離した。
「私にもそういう経験はある。君が君自身を責めれば、彼が傷つく」
中年男性のその言葉に、青年は返す言葉がなくなってしまった。青年は、けが一つない自分の手を見た。少なくとも彼を助け出すとき、青年はこの手に、この足に凍傷を負っていたはずだ。しかし、その痕跡すらない。
「こんなはずではなかった、そう言いたいのかね」
青年は、何も答えなかった。ただ、悔しそうに床を見つめて、歯を食いしばっている。
「今も、熱に苦しんでいる姿を見ると、胸が締め付けられます。僕にとって、彼は、血のつながりのある兄弟以上なんです。それをあそこまで傷つけられて、平気な顔などしてはいられない」
「冷静になりなさい」
中年男性は、今にもこの部屋を飛び出そうとしている青年をいさめた。青年が制止を振り切って行ってしまうのではないか、そのような不安もあったが、止めておかなければならない。その危機感を男性は持っていた。
青年は、何も言わずに、部屋と廊下を結び付けているドアのノブに手をかけた。その背中に、男性が声をかける。
「マルス・クレイン、もう一度彼に会っていくといい。今の君には、彼の力が必要だ」
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