ギルド難民なおれだが、やる時にはやる

しろめしめじ

第1話 ギルド難民なおれだが、働く時もある

 今日も来てしまった。

 ギルドの中にある、辺境のこの街にしては広い酒場の片隅で、おれはぼんやりと客達の他愛のない会話に耳を傾けていた。

 まだアフタヌーンティーの時間帯だというのに、酒場は大勢の客で賑わっていた。一仕事を終えた冒険者やハンター達が、報酬を手に昼間っから馬鹿騒ぎしているのだ。その姿を冷めた目で見ながら、おれはいつものように、なけなしの金をはたいて買った安酒をちびちび飲む。別に彼らが羨ましい訳では無い。ただ気になるのは、彼らが必ずと言っていい程自分の冒険談をどかどか盛る。

 子豚ほどの剣牙猪サーベルジャックを幌付馬車サイズの大物にまで誇張したり、子猫ほどの鎧虫アーマーバグを酒場の十人掛けのテーブルに例えたりと、ほとんどの輩が目立ちたいほら吹きばかりだ。ここに居座っていると報奨金の手続きの会話がまるまる聞こえて来るので、奴らがどれだけ盛っているのか手に取るように分かる。奴らが話を膨らませる目的は、大抵が異性の気を引くためだ。相手が異世界民ネイティヴでも来訪者ヴィジターでも関係なく、いい男、いい女がいれば、どんどん脚色されていくのが常なのだ。

 まあ、気持ちは分からんでもないが。

 そんな数々のくだらない話を肴に酒を嗜み、気怠い昼下がりをまったりと過ごす。

 これぞ、おれの至福の時。

 自分の素性を知られる事無く、のんびりと異世界の雰囲気を楽しむ。冒険や狩りに出たりするだけが、ここ――ゲーム世界の楽しみ方じゃない。

 経験値や金、名声に踊らされる生活を捨て、ただこの世界を漂う者。誰が言い始めたのかは知らないが、ギルド難民と呼ばれている。最近じゃあ、ショートカットして「ル民」と呼ぶ連中も出てきた。まあ、社会的に存在が認められたって事で、素直に喜んで良いのだろう。多少侮蔑が込められている気がせんでもないが。

 羽人ニンフのバイオリン弾きが奏でる軽快な曲を聴きながしながら、おれはグラスに残っていた最後の一口を飲み干した。同じく酒場にたむろする同胞達に別れを告げ、席を立つ。

 グラスが空の者は長居をしてはならない。あくまでも、店には迷惑をかけない事。

 これが、酒場に集うギルド難民暗黙のルールだ。

「仕事、ある?」

 ギルドの受付で、暇そうにこっくりこっくり居眠ってた受付嬢に声を掛ける。

「ふみゃあ」

 受付嬢は尻尾を踏まれた猫の様な声を上げると、眠そうに手の甲で眼を擦すった。

 丸顔に猫の様な大きな目。白いブラウスに黒のパンツ。長い藍色の髪は深みのある光沢を放っている。初めて見る顔だ。こちらのサプライヤー専門窓口を任されているとなれば、恐らくは新人だろう。他に受付は四カ所あるが、そちらはクエスト&ハンティング専門窓口だ。冒険やモンスター退治の依頼を求めて様々なプレーヤーが列をなしており、なじみのベテラン受付嬢達は汗ばむ額を拭う事すら忘れて業務に追われていた。

「あ、どうも。どんなお仕事お探しですか?」

 彼女はぎこちない営業スマイルを浮かべると、震える手でジョブリストを広げた。

 大丈夫かこいつ。緊張しまくってるよ。さっきまでふてぶてしく居眠ってたのに。

 呆れ半分同情半分で彼女の仕事振りを拝見する。

「他の受付は忙しそうだな、何かイベントでもあるのか?」

「曼荼羅池の大鎌蛙シックルフロッグ退治です。最近急激に増えて旅人に被害が出てますので、水を抜いての殲滅作戦をやるんです。国が主催ですから、報奨金もなかなかですよ」

「幾ら貰えるんだ?」

「一匹退治すれば金貨一枚です。如何ですか?」

 受付嬢は眼をきらきら輝かせながらおれを見た。

 金貨一枚あれば、一週間はシャワー付きベッド付き三度の飯付きの宿で過ごせる額だ。とは言え、魅力的だが興味はない。その手の仕事は中級クラスの冒険者や狩人なら、そつなくこなすだろう。やりたい奴にやらせとけばいい。おれはおれの仕事をやるだけだ。

「他の仕事は?」

「施しの仕事ならありますが」

「それでいい」

 受付嬢の顔が、ぱっと明るくなる。

「有難うございます。地味な仕事なので、なかなかひき受けてくださる方がいなくて。あ、気を悪くされたらごめんなさい」

 彼女は申し訳なさそうに表情を強張らせる。

「大丈夫。別に気にはしていない」

「有難うございます。お仕事は薬草配りと滋養強壮剤配りがありますが、どちらにします?」

「薬草で頼む」

「有難うございます。報酬は銀貨十枚になります。それでは配布先の地図と荷物、その間の食糧をお渡しします」 

 受付嬢は奥の部屋に引っ込むと、やがて薬草がパンパンに詰まった大きなリュックと食料の入った頭陀袋を持って現れた。

「こちらが配布先の祠になります」

 彼女が差し出した地図を見て、おれは思わず眉を寄せた。

「ここって、三日前に納品した場所だぞ」

「変ですね。管理している神殿の神官様から、祠にお祭りされている女神様から補充するよう神託を受けたって聞いたので」

 おれが拒むと思ったのか、彼女は困惑顔で目線を泳がせた。

「初級クラスの冒険者が、こぞって押し寄せたか。まあ、神託を受けたのなら行かなきゃな」

 受付嬢はほっとした表情で笑みを浮かべた。

「配布が終わりましたらこちらにお寄りください。では契約書のサインを。身分証明書はありますか?」

「あるよ」

 俺はポケットから金属製の札を取り出すと彼女に渡した。初めてこのギルドに訪れた時、登録した身分証明書だ。一応、冒険者で登録はしてある。

「問題ないですね……これで手続き終了です。お仕事が終わったらリュックと袋は返却ください。報酬はその時にお渡しします」

「分かった。じゃあ」

「あ、お待ちください」

 立ち去ろうとする俺を、受付嬢が慌てて呼び止めた。

「あのう、お分かりかと思うんですけど、仕事を途中放棄したり、荷を転売したら、冒険者契約解除の上、このギルドから追放となりますので、ご了承ください」

「知っている」

「では、お気を付けて」

 彼女は嬉しそうに用紙を受け取ると、ぺこりと頭を下げた。

 彼女が受け持っている雑役受付は、新米受付担当の、言わば研修場所の様なものだ。仕事を探しに来るのは、装備の揃っていない新米冒険者やカジノですっからかんになったギャンブラー、そして俺達ギルド難民位なものだから、それほど希望者が列を成す事はなく、仕事に慣れない新人にはちょうどいい練習場所なのだ。

 薬草がぎっしり詰まったリュックを背負うと、おれは受付を後にした。隣の受付に並ぶ冒険者達が、おれに冷めた視線を投げ掛けて来る。奴らにとっての誇らしい仕事は悪鬼悪獣や賊退治、宝探しや遺跡調査だから、おれが受けた様な地味な仕事はこぞって蔑視する。

 奴らは忘れているのだ。連中がまだ駆け出しの頃、要所要所に建てられた聖なる祠の薬草に命を救われたことを。

 結界が張られ、邪心を持つものは一切立ち入ることの出来ない聖なるエリアで、薬草を口にしながら体力が戻るのを待った昔の記憶は、そこそこ強くなった途端、皆、それが自分の黒歴史であったのように忘れようとするのだ。

 おれは兜代わりのなめし革をタオルのように頭に巻くと、ギルドを後にした。

 配布先の地図を確認すると、西部の古代遺跡に向かう道沿いの祠だった。駆け出しの冒険者が向かうお決まりのコースの一つ。但し、最近妖獣モンスターの類が跋扈するようになっており、油断は出来ない。

 おれは足早に街道を進み、一時間後には妖獣除け《モンスターガード》の塀にしつらえられた門の前までやってきた。

「あんちゃん、今日はどっちに行くんだ?」

 馴染みの初老の門番が、日に焼けた皺だらけの顔をほころばせながら、門をゆっくりと開く。日に焼けた浅黒い顔に深く刻まれた皴が、その経歴の長さを物語っている。以前は神殿の警備を担当する騎士だったらしい。

「西部の遺跡方面さ」

 おれの回答に門番は眼を細めると、愛想のよい笑みを浮かべた。

「超初心者コースだな。でも油断するな。最近、あの当たりに妖獣モンスターの類や悪鬼ゴブリンが頻繁に出るようになったらしい。駆け出しの腕試しにはもってこいかもしれんが、この門を出て、帰ってこない狩人や冒険者を何人か見ているからな」

「知っている。その話、酒場でも話題になっていた」

「パーティー組んでりゃ安心だが、ソロの冒険者にはちょっと難しいだろう。まあ、お前さんは別だがな」

 門番は痩せた体躯を大きく反らせながら、かっかっかっと豪快に笑い飛ばした。

「じゃあな」

 おれは門番に片手を上げて挨拶すると、開かれた門から外界へと身を委ねた。

 途端に、空気が変わる――訳でも無い。風景に極端な変貌は無いものの、歩みを進めるにつれ、徐々に木々の繁茂が濃厚になり、街道の石畳にも雑草が増え始めた。これからは、ちょっと油断は出来ない。小物だが、悪鬼ゴブリンの類が、おれの背負っている薬草を狙って襲い掛かってくることがあるのだ。

 ギルドでおれに蔑みの目線を向けた輩は、このリスクを知らない。安定した報酬が保養されるとはいえ、リスクを知っている者は、その割の合わなさから最初からこの仕事を引き受けたりしない。やったとしても滋養強壮剤配りだ。小瓶のポーション故に重量がかさむという事で、比較的市街地の祠に納められる。御加護を受けられるのは、初級冒険者のみという制約付きの為、妖獣モンスターに出くわさなくて済む場所がメインなのだ。

 それ故に、薬草運びには、薬草運びなりの誇りがある。

 だが今日に限っては、何故か二時間ほど歩き続けても妖獣モンスターは一匹もおれの前に現れない。珍しいこともあるものだ。大抵、数回はは悪鬼ゴブリン妖鼠バグマウスに遭遇するのだが。

 これくらい平和過ぎると、何となくつまらない気もする。

「ん?」

 おれは足を止めた。

 地面が揺れている。

 地震ではない。規則的且つ不協和音を奏でる無数の打音。

 おれは跪くと、耳を赤土の路面に押し当てた。

 足音だ。それも半端ない数の。

 やばい。流石にちょっとやばいぞおっ。

 平和呆けしたおれの意識にただならぬ緊張が走る。

 周囲は木々がまばらに生えている程度で身を隠せるほどのものじゃない。もう少し行けば森に入るが、いかんせん、その足音ってのが、もろそっち方向から近付いて来るのだ。

 何の群れだ? 黒魔山羊デビルゴウトか? それとも大角猪オオツノか?

 違うな。

 この辺りじゃ余り聞かない足音だ。

 足音は確実に、それもかなりの速さで近付いて来る。

 まずいな。逃げるにしろ、身を隠せる場所がない。

 おれは唇を待むと、近付きつつある足音の正体を細くすべく目を見開いた。

 これはきっと罰が当たったのだ。平和がつまらんなんて思ったから、神がおれに七難八苦を与えた給うたか。

 仕方あるまい。

 おれはナイフの柄に手を掛けた。

 来るぞ。

 呼吸を整え、ナイフを抜くと、意識を前方に集中する。

 森の入り口から数匹の巨大な影が飛び出して来る。

 見えた。

 何だありゃ。二階建ての家位の高さは優にある無数の赤紫色の影。威嚇しているのか、巨大な鎌を大きく振り上げている。

 風貌は蛙だが、腕を大きく振って二足で走行する様は、陸上競技の短距離ランナーを彷彿させる妙に人間臭い動作が特徴的な妖獣――げっ! 大鎌蛙シックルフロッグじゃねえかっ!

 全身に鳥肌が立つ。妙だ。ここは生息地じゃないはずだぞ。それもデカ過ぎ。通常の十倍以上の体躯だ。おまけに本来黄緑色の体色なのだが、奴らは紫と赤のマーブル模様といった毒々しいものに変化している。

 変異体バグタイプか。前にギルドで聞いたことがある。

 超弱の妖獣や悪鬼の類でも、稀に出現する特異体だと本来の弱点を責めても効果が無く、属性そのものが根本から変わっていることが多いらしい。

 しかもその稀な輩が一、二、三――全部で六体もいるってのは超レア。

 厄介なのはそれだけにあらず。人が奴らに追われているのだ。

 皮の兜、鎖帷子に皮のミニスカートと皮のブーツ。剣は腰に差しているが、抜く余裕はないようだ。初級の冒険者か魔道剣士ってとこか。女のようだが、リアルがどうかを考えると、妙に冷めた目付きで見てしまう。ギルド情報では、リアルと性別が一致する確率は五十パーセントに満たないらしい。こちらの世界で美少女の妖精エルフが、リアルではポッコリ腹が出たあんちゃんだったりするのだ。

 いかんいかん。余計な詮索はするもんじゃない。とにかく、彼女を助けないと。

「ナイフじゃ駄目だな」

 おれはナイフを鞘に納めると、リュックを降ろし、中から薬草を引っ張り出すと上着とズボンのポケットに入るだけ捻じ込み、更には両手にも握れるだけ握った。

「よしっ」

 おれは迫り来る脅威に向かって駆けだした。彼女もおれに気付いたらしく、すがるような目線でこっちを見つめている。

「動くなっ! じっとしてろっ!」

 聞こえたかどうかは分からない。だがおれはそう叫びながら、彼女の傍らを通り過ぎる。

 刹那、彼女の姿が消えた。

 移動か回避の術でも使ったか?

 違った。座り込んでる。おれの声が聞こえた様だ。奴らは静止しているものより動いているものに反応する。故に、下手に動かない方が走って逃げるよりも生き残る確率は高い。

 魚が腐ったような濃厚な生臭い匂いが鼻腔をつく。この匂いは大鎌蛙シックルフロッグ特有の体臭で、奴らの体表にある皮脂腺から分泌される粘液の酵素が、空気中の酸素に触れて化学反応を起こしているのだ。厄介なのは臭いだけじゃない。粘液には脂が含まれており、更に全身の発達した筋肉はそれ自体が鎧の様に固く、刃物を突き立てても滑って刺さらないのだ。

 こいつの唯一の弱点は、火。火炎系の念術か松明を投げつけるだけで、奴らの身体は一気に燃え上がる。

 だが、迫り来る奴らは明らかに特異体バグタイプ。この手の輩は弱点までもが変異している場合があり、上っ面の知識だけで戦いに挑んだら取り返しのつかないことになる。

 大鎌蛙シックルフロッグは新たな獲物であるおれに気付くと、眼をぎょろりと動かしながら、大口を開けてくわっくわっと雄叫びを上げた。

 生臭い臭気を巻きながら、奴の巨大鎌が空を裂く。 

 おれは身を反転させてそれを交わすと、奴の懐に飛び込んだ。おれが今まで無傷で生き延びてこられたのは群を抜いて発達した敏捷性のおかげだ。腕力も剣技も人並みだが、すばしっこさだけは誰にも負けないと自負している。以前、付き合いのある剣士から盗賊に転職したほうがいいんじゃないかと言われた事がある位だ。

「これでも食っとけっ!」

 間近に迫る大口に、薬草を一束放り込む。

 奴は躊躇いもせずに飲み込むと、再び大鎌を振り回す。

 後方に飛んでそれを交わす。と同時に、背後から忍び寄ってきたもう一匹の口にも薬草を投げ入れる。

 残りの四匹も、俺の動きにつられて鎌を振り回しながら急接近して来る。

 俺は小刻みに方向転換を繰り返し、奴らの動きを翻弄すると、だらしなくおっぴろげた大口に薬草を放りこんでいく。

 そろそろか。

 おれは、身じろぎ一つしない冒険者から奴らを少しでも引き離そうと、跳躍と急旋回を繰り返しながら、刻々と過ぎ去っていく時合いを読んだ。

 一匹の大鎌蛙シックルフロッグの動きが止まった。更にもう一匹、そして残りの奴らも次々に動きを止めると、苦し気に顔を歪めながら昏倒し、全身がぴくぴくと痙攣し始めた。

 薬草の効き目が出て来たらしい。ここまでくれば、奴らに死が訪れるのも、もはや時間の問題だ。

 おれは座り込んだままの魔道剣士に駆け寄った。

「大丈夫か?」

「有難う……ございます」

 おれの問い掛けに、彼女は震える唇をかろうじて開きながら言葉を綴った。

「すぐそばに祠がある。そこに避難しよう。立てるか?」

「……」

 彼女は顔を赤らめると、黙って顔を伏せた。見ると、ぺたんと足を広げて座り込んでいる膝と膝の間の地面に、小さな水溜まりが出来ている。

「肩を貸す。掴まれ」

 おれは彼女を無理矢理立たすと、祠に向かって歩き出した。

 祠は街道から右手に少しそれた所にある。もう何度も薬草を納めに立ち寄っている所だから、ここからだと目をつぶっていてもたどり着ける。

 幾何もたたないうちに、俺達は木々の間に鎮座する白い建造物の前に到着した。

 ここが目的地の祠だ。聖樹と呼ばれる白亜樫で出来た立方体の建造物は、冒険者の休憩場所も兼ねているため、四人組のパーティーなら余裕で寝泊まりできる広さになっている。周囲は結界が張ってあり、この界隈の妖獣モンスターの輩は一切侵入することは出来ない。

 重い扉を開け、中に入る。正面にはこの地を守護する龍神が祭られており、祭壇を挟むように天井から下げられた二つのランタンで、夜は明かりがとれる。祭壇の左奥には、裏に通じる扉がある。そこを抜けると、滾々と湧水が湧き出ている聖泉があり、ちょっとした炊事場や沐浴出来る場所がある。のどを潤したり、身を清めたり出来るのだ。右奥はおれが運んできた薬草の収納棚やら簡易ベッドやらが設営されており、ぶっちゃけ言ってしまえばタダで泊まれるコテージみたいなものだ。ゆえに駆け出しの冒険者の中には、祠を拠点にして、こつこつとスキルアップに努めるものもいるくらいだ。

 俺はリュックに縛り付けていた野営用のケープを彼女に渡した。

「この裏に聖泉がある。桶もあるから洗濯も出来るし、水は神気が宿っているから飲めば体力を回復してくれる」

 彼女は黙って頷くと、おれからケープを受け取り、祠の裏に消えた。

 おれは彼女の後姿を見届けると、祠を出た。先程倒した大鎌蛙シックルフロッグの様子を見に森の入り口まで偵察に向かう。

 蛙どもは口から泡を吹きながら既に息絶えており、紫色の毒々しい色の皮膚でで覆われた腹を向けてぶっ倒れている。

 おれは大鎌蛙シックルフロッグの躯に近寄ると、鎌の刃にあたる部分を根元からナイフできこきこと切り落とした。正確には中指の爪。奴らの手足には鋭い爪が生えており、獲物を見つけて興奮すると、普通の蛙の様に水掻きの付いた指を器用に重ねて名の由縁通り大鎌に擬態するのだが、中指の爪だけが、極端に発達している。これを両手分切り取ってギルドに持っていけば、ノーマルタイプで金貨一枚の報酬が得られるのだ。奴らの様な特異体バグタイプだと、恐らくはもっと値がはるに違いない。爪はギルドから薬師に転売され、何かしらの秘薬になるらしいが、よく分からん。

 祠に供給する薬草が多少減ったが、ギルドの受付嬢には、この爪を見せればきっと納得してくれるだろう。

 祠に戻ると、彼女はケープを纏い、おどおどとした目つきでおれを見つめながら、部屋の片隅でじっと蹲っていた。

「大丈夫か? 蛙共は全員絶命したよ」

「助けて頂いて有難うございます」

 声を掛けると、彼女は三つ指ついて俺に深々と頭を下げた。ケープの前がはだけて、白い膝小僧が顔を出す。

「どうやって、あいつらを倒したんですか?」

 彼女は瞳を落ち着きなく揺らめかせながら、恐る恐るおれに尋ねて来る。

「勉強熱心だな、冒険者殿。名を名乗る前に攻略法を問うて来るとはな」

「あ、ごめんなさい。リイナと言います。職業は、魔導剣士です。まだ初級ですけど」

 リイナはおどおどした口調でたどたどしく答えると、覗いた膝小僧に気付き、慌ててケープの下に隠した。

「ひょっとして、リアルも女の子なのか?」

「え、そうですけど……何でわかったんですか? 名前も、リアルイコールです」

 俺の問い掛けに、リイナは訝し気に首を傾げた。

「今の仕草だよ。膝が出ているのは恥ずかしそうに隠しただろ。リアルが男なら、まずそんな事しないし。でも珍しいな、性別も名前もリアルイコールなんて」

「そうなんですか?、私、この手のゲーム、やったことが無くてよく分からなくて」

 リイナは瞳を大きく開くと、身を前にのり出した。肩に掛かっていた長い髪が、さらりと前に落ちる。

 ふわっと薫る甘酸っぱい匂い。

「この世界は年齢も性別も自分の意思で選べるだろ。だから美少女魔導士がリアルでは脂ぎったオヤジだったってよくある話だ」

「ひょっとして、あなたは男じゃないの……?」

 リイナは訝し気な表情を浮かべながらおれを見た。

「残念ながら、男だよ。てより、残念な男だよ」

「おじさん?」

 リイナは訝し気に眉間に皺を寄せた。

「おいおい、おじさんイコール残念てのはセクハラだろ」

「やっぱおじさんなんですか」

 リイナは両手を抱えて胸を隠すと、警戒色ありありの探るような目つきでおれをねめつける。

 何て子だよ。確実にハラスメントだろ。

「あんまりこの世界でリアルの情報は語りたくないんだけどな。まあ、特別に許そう。まだ高二だよ」

「タメだよう。私も高二だよう」

 リイナの表情がふっと緩む。同い年と聞いて、気が抜けたのか、さっきまでの警戒心と緊張が一気にほころぶ。

「にしては、老けてる」

 リイナが、おれの姿をを上から下へとなめるように見つめた。実際に舐めてもらっても構わんのだけど、それを言うと軽蔑されそうなんでやめておく。

「この世界では設定年齢を二十五歳にしている」

「微妙な設定」

 まあ、確かに。言われてみればそうかもしれん。

「誰とパーティー組んでたんだ?」

「パーティーは組んでない。周りの人達はみんな中級以上だったので。御一緒させてもらえなくて。勝手に後ろにくっついていた」

 リイナは悲しそうに吐息をついた。

「そりゃないな。階級の低い者を同伴させて育てるのも冒険の醍醐味なんだけどな」

 おれは味気無い現実を咀嚼しながら彼女を慰める。若輩者教育も冒険者の階級決定評価の一つにはなっているが、点数配分的にたいして占めていない為、多くの冒険者やハンター達は軽視しているのが事実だった。

「大鎌蛙に追われていたってことは、ひょっとして曼荼羅池がらみか」

「うん。お金、全然なかったから。手っ取り早く稼ぐのはこれしかないかなと思って」

 リイナは、いたって真顔で答えた。

「無謀過ぎる。初級って言ってたよな。それもまだ初めて日が浅いと見た」

「もう三日たってる」

「まだ三日かよ。尚更無茶だ」

 俺の駄目出しに、彼女はぶすっとした表情で俯いた。

「だってさ、装備揃えたかったしい」

 床を人差し指でいじいじしながら、リイナは口惜しそうに呟いた。

「あの変異体バグタイプ相手だと、中級でも大変だぞ」

 おれがそう窘めると、リイナの表情が恐怖にひきつった。

「ええ。中級でも全然歯が立たなかった。奴らって火が苦手のはずでしょ。なのに、火炎系の呪詛を使う魔導士や火の属性を持つ剣や火矢を放つ者もいたけど、何のダメージを与えられなかった。討伐隊は数十名いたのに、逃げ延びたのはたぶん何人もいないと思う」

 リイナは蒼ざめた表情でしゃべり続けた。気が昂っているんじゃない。蘇る恐怖の記憶を紛らわそうとしているのだ。

「中級クラスがごっそりやられちまったのか。とんだ番狂わせだな」

「彼らは復活しないの?」

「完全に殺されちまえばアウトだな。大治癒の呪文の使い手や賢者の石でも持ってれば別だけどな。まあ、どちらも滅多にお目に掛かれないから」

「厳しいルールね」

 リイナは悲しそうに乾いた吐息をついた。無理もない。力も装備も無く、死を常に意識しながら冒険を続ける初級の頃は、誰もがそう思うんだよな。特にこの世界は。

「まあな。よりリアル感を出す為に、この世界の創造神がかくの如き設定にしたんだ。だから、ここじゃあ大抵の奴がくたばったらまた一から出直しで、それも違う名前でこの世界に舞い戻って来る。それでも、今までの経験と下積みがあるから、すぐに元のランクまで上がって来るけどね」

「そうなんだ。途中で刻録セーブすれば復活できると思ってた」

 リイナはつまらなそうに呟いた。この娘、ひょっとして手引書を見ずにこの世界に飛び込んできたのか? そこいらのRPGと同じつもりでいたら大間違いだぞ。

「ちょっと癖のある世界だからな。でもそうだからこそ人気もあるんだろ。ギルドにいると新顔が続々やって来る。リターンマッチの奴もごろごろいるけど」

 おれはリュックの紐を緩めると、中から薬草の束を取り出した。乾燥してはいるがしなやかでぱりぱりと砕けたりしはない。『蘇命ヨモギ』と呼ばれる一般的な万能薬で、都市部近郊で栽培されている。

「それは……?」

 リイナが、食い入るように俺の手元を凝視した。

「薬草だ」

「何の薬草? さっき大鎌蛙シックルフロッグの口に投げてたやつでしょ? ひょっとして毒薬?」

「普通の薬草。一束銅貨一枚で買えるやつ」

 取り出した薬草を保管用の棚に納めていく。一週間前に納めたばかりなのに、中は空っぽになっていた。ここ何日間かギルドを訪れる初級冒険者の数が増えていたからか。イコール利用者増って事だろう。

「何してるの?」

「見ての通り、薬草の納品」

「あなた、薬草屋さん?」

「違う。運びポーターだ」

 彼女が首を傾げる。恐らく、この世界を訪れた時にギルドで渡される職業リストに掲載されていないからだろう。そりゃそうだ。定職じゃないからな。

「薬草が大鎌蛙シックルフロッグの弱点なんて、冒険の手引書には載っていなかった」

 彼女は猜疑心ありありの低い声で呟いた。

変異体バグタイプに手引書の常識は通用しない」

「じゃあ、あなたはどうして知ってたの?」

「ギルドの酒場で知った」

「酒場で?」

「南西部の沼地で、大鎌蛙シックルフロッグ変異体バグタイプに襲われた剣士がいた。今回の奴と同じ体色の奴だ。そいつは手持ちの武器を色々試したが駄目で、いちかばちか薬草を投げ込んだら効果覿面だったらしい。同じパーティーの魔導士とハーフエルフのねーちゃんも、別の日に同じこと言ってたから、ガセじゃないと確信した」

 リイナは半信半疑の表情で、おれの話に耳を傾けていた。ギルドの手引書が完全なものではないとは信じがたいかもしれないが、事実は事実。この世界の創造神の気紛れなのか、あるいは自己拡大していくこの世界で、生息している生物達もこの世界同様に徐々に進化し続けているのか。答えはまだ見えていない。

「あそこにいれば、いろんな情報が入って来る。眉唾な話もあるけどな。知識量で言えば賢者以上さ。まあ、実際役に立つのは余りないけど」

「あなた、何者?」

 リイナがじっとおれをガン見する。「探索サーチ」の呪文は使っていないようだが、意思を持った視線がおれの意識に首を突っ込もうとしていた。

「ギルド難民だよ。聞いたことないか?」

 今度はおれが彼女の思考に探りを入れた。

 他の冒険者から、無気力集団とか人生の負け犬とか愚かで歪み切った蔑みの情報を植え付けられていたら、恐らく彼女の態度は一変するだろう。

「この世界の雰囲気を楽しんでいる人々。中にはいろんなことを言う人もいますけど、私はそれはそれで有りかと思う」

 おれの予想に反して、彼女は衝撃的な台詞をさらっと綴った。

「珍しいな、おれの生きざまを肯定してくれる人なんて」

 驚きだった。おれを真っ直ぐ射貫く眼に侮蔑の色はなく、その言葉に偽りはないものと認識した。

「もっと困った人がいますから」

 リイナの表情が曇った。伏目気味の目線は、ただ悪戯に床板の木目を見つめている。

「どういう意味、それ?」

闇蠢者ダークウォーカー

 リイナは吐息をつくと、中空に目線を泳がせた。明らかに意味深な態度。こういった態度をとる場合には二つの理由が考えられる。一つは、その存在を心底軽蔑なり嫌悪している場合。もう一つは、身近な者の中にその対象者がいる場合だ。

闇蠢者ダークウォーカーか……」 

 おれは彼女の表情を具に観察しながらつぶやいた。だが、おれから目線を逸らしたまま、何処か遠くを見つめる彼女の表情からは、何一つ読み取れなかった。

 彼女は心に厚いシールドを張っていた。無意識のうちなのか、それとも意識的なのか、そこまではおれには分からない。これ以上の詮索が無駄であることは、何となく推測できた。

 おれは無言のまま、彼女の発した語彙に思いを巡らせていた。

 闇蠢者ダークウォーカーーーその名がまことしやかに語られ始めたのは、ほんの数か月ほど前からだ。

 この世界に魅入られ、リアル世界への帰還を拒み続けた挙句、変異体バグタイプと化して時空の隙間に身を寄せる者を言う。。

 その存在の有無は誰も知らない。

 ただ、そういった何かしらの存在がいる事は確かだ。自らの存在意義をこの世界に見出す為、あらゆる欲望にかられながら、決して満たされることのない乾いた魂を掲げ、この世界に息づく異端の者。

 おれ達ギルド難民も似たようなものだが、大それた思想や野心は一切持ち合わせていないので、対極する位置づけにあると言っていい。

「ここ、刻録セーブ出来るよね?」

 リイナは徐に頭髪を搔き上げると、天井を見上げた。リアルが同学年と知ってから何だか態度がでかい。

「ああ」

 面倒くさいので超短縮バージョンの返事で返す。

「ギル」

「ギルって。え! おれ?」

 真顔で涼し気な愛想笑いを浮かべる真魚に疑問符のブリザードを御見舞する。

「そ、ギルド難民だから、略してギル」

 あっけらんと言い切るリイナの一言は、おれの思考に快心の一撃をぶちかましていた。

「おれの名前はなあ――」

「あ、言わんでいいよ。ギルでいいよね。リアル知り過ぎると面倒なことになっちまうしさ。この世界とリアルは分けなきゃね」

 何言ってんだ、こいつ。おれが言おうとしたのはこの世界での名だぞ。自分はリアルネームをカミングアウトしておきながら。おれと距離をとろうとしてやがる。ひょっとして、おれを警戒しているのか? おれ、そんなに怪しいか? 確かに、装備はみすぼらしいけど。

「ま、良いけど。んで、何だ?」

「あの、この世界でね。そのお、不測の事態が起きちゃった場合、リアルではどうなってんのかなあって」

 リイナは恥ずかしそうに俯くと、聞こえるか聞こえないかくらいの消え入るような小さな声で呟いた。

「不測の事態って、あ」

 無意識のうちに彼女の下半身に視線が泳ぐ。察したのかどうかは分からないが、ケープの裾を押さえる彼女の手に、きゅっと力が入った。

「前にギルドの酒場で聞いた話だが、大酒呑んで酔いつぶれて噴水みたいにゲロッてた宮殿舞闘士が、リアルに戻ったら寝ゲロ状態だったそうだ」

「そんなあ、ゲームの世界の出来事なのに?」

 リイナが悲しそうに眉を顰め乍ら、おれに切なげに訴えて来る。そんなのおれに言われたって、どうにもならん。創造神じゃあねえし。

「元々設定されて無いんじゃないかな。反対に怪我やぶっ殺されてもそれは想定内の現象という事でリアルには影響でないだろ?」

 慰めにもならない諦め促進の回答を、おれはリイナにやさしく捧げた。

「はあああ、参ったなあ……高二でおねしょかよう……」

 リイナは切なさ壱百パーセントの重い吐息をエクトプラズムのように吐き出すと、悲しそうに天井を仰いだ。この手の疑似体験型ゲームは、リアルではベッドに横たわった状態になっているから、最悪の事態を想定すると、さもありなん。

「まあ、絶対そうなるとは限らないから。心配なら早くリアルに戻った方がいい」

「うん、そうする」

 彼女は暗い陰影を顔に浮かべながら、ドーンと重い空気の淵に沈んだ。

 おれは苦笑を浮かべると、彼女が刻録セーブ記録出来る様、簡易ベッドを納屋から引っ張り出して組立始めた。

 この世界での経験を記録し、リアルに戻る方法は睡眠だ。かといって、何処でも出来るって訳じゃない。

 宿屋や民家、神殿や祠はOKだが、野営をするには、龍線上の決まった場所でないと、寝ているうちに妖魔や鬼獣の餌食になってしまう。

「準備出来たよ。おれは荷物の整理があるからまだ寝ないけど」

「ありがと」

 リイナはこくりと頷くと、ゆっくりと膝を床について立ち上がった。流石にリアルな女子だけあって、恥じらう仕草がごく自然に身についている。これが偽女子キャラなら、おまたくわぱああって感じで立ち上がっていただろな。

「ん?」

 おれはリュックに手を掛けたまま聞き耳を立てた。

「どうしたの?」

 リイナが頬を強張らせながら、訝し気におれを見つめた。

「足音が近づいて来る。三名位かな……妖魔じゃない、人間だ」

 不意に、祠のドアが勢いよく開く。

「お、先客がいたか」

 セラミック製の防具で身を固めた長身の青年が、身をかがめながら入って来る。がっちりした剣闘士タイプではない。細マッチョの剣士だ。

 引き締まった体躯に、ほりの深い爽やかなイケメン面。とはいえ、この世界を訪れるビジターのほとんどの連中がイケメンフェイスをセレクトするから、街に行けばこのレベルはありふれていると言っていい。

 その背後に二つの人影が続く。一人は人間。漆黒のケープを纏い、フードを深々と被った性別不明年齢不詳の黒魔導士だ。もう一人は超スリムな体躯に黒い革製の甲冑を付けたダークエルフの男。どちらかというと、こちらの男の方が年齢不詳だろう。紫色の長い髪の間から、エルフ特有の長い外耳が突き出ており、ミノスシェルの殻を磨き上げて作ったピアスをいくつもつけている。

 一見、攻撃重視のパーティーのようだが、何かが欠けている。

 そうか、防御や治癒担当が一人もいないのだ。こんなバランスの悪いパーティーは滅多に見た事が無い。

「悪いな、邪魔するぜ」

 剣士はにやりと笑みを浮かべると、まっすぐ薬棚に向かった。

「今日はたっぷりあるな」

 剣士は背中にしょっていたリュックを下ろすと、薬草を片っ端から突っ込み始めた。

「おい、待て。薬草は一人一束までだ」

 おれは、あくまでも紳士的に剣士を窘めた。

「あーん? そんな決まり、聞いたこたあねえぞ」

 剣士はおれに一瞥をくれると、再び薬草に手を伸ばした。

「身分登録をした時、ギルドで冒険者法規の書を貰ったろ。あれの三十二ページ目に書いてある」

「うっせえな。知らねえよ」

 おれの忠告を二度にわたって無視しやがった。腹が立つというより、呆れて仕方がない。こいつ、祠での禁忌とか、全く把握していないようだ。

 やれやれ。

 ここの祠、馬鹿に薬草の減りが早いと思ったら、こいつの仕業だったのか。パーティーに治癒術師ヒーラーがいない分を薬草で穴埋めをしていたのだ。しかもただで貰える薬草でときた。

「おまえは聖なる守護女神の御前で禁忌の罪を犯した。よって施しを受ける資格に値しない。リュックに詰めた薬草を全て戻し、ここを立ち去れ」

「あーうぜえっ!」

 剣士は忌々し気に立ち上がると、いきなりおれの襟元を引っ掴んだ。

「御託並べんじゃねえよっ!」

 凄まじい憤怒の形相で、剣士はおれの顔をねめつけた。

「貴様、どこかで見たことがあるぜ。そうだ、酒場の席の奥で安酒煽っていた奴だ。そうかあんた、ギルド難民だろ?」

「ああ」

「何の役にも立たない糞野郎が、偉そうな口利くんじゃねえっ!」

 剣士は眼をぎろっと細めると、お決まりの重低音ボイスでおれを罵倒した。

「その何の役にも立たない糞野郎が運んだ薬草を、嬉しそうに持って行くのは如何なものかな。役に立つから持って行くんだろ?」

「うるせええっ!」

 奴はブチ切れた。

 左手でおれを吊るしたまま、右拳を固めると大きく振りかぶる。どうやら、火に油どころか火薬を注いでしまったようだ。

「んああああああああああっ!」

 絶叫が、祠の分厚い壁をびりびりと震わせる。

 声の主はおれじゃない。剣士殿だ。

 奴の金髪は生育の良いもやしのように直立し、全身からは白い光のプロミネンスを不規則に放ちながら、身体をこきざみにふるわせている。

 俺の襟首を掴んでいた指が、するりと解けた。おれはそのままの姿勢てすとんと着地。奴はそのままの姿勢で、コンパスで弧を描くようにゆっくりと後方に沈んだ。

「雷撃か!」

 ダークエルフの喉から驚愕の叫びが迸る。奴は即座に矢を弓に番うと、躊躇せずにそれを放った。

 空を裂き、真っ直ぐ俺の胸元を狙う矢。おれはそれを右手で受け止めると、間髪を入れずに投げ返す。

 矢は弓に番えられた二本目の矢じりを砕き、柄を真っ二つ裂くと風切り羽もろとも弦を断った。

 黒魔導士が印を結びながら呪の秘文を唱える。引き金となるスペルを綴る寸前、おれは足元のリュックから薬草を一束取り出し、黒魔導士目掛けて投げ付ける。

 薬草は秘文の完成を待たずして黒魔導士の口にすっぽりホールインワン。

 黒魔導士は何が起こったのか分からないのか、じたばたともがき始めた。フードが不城にずれ、銀髪のロングヘヤーがあふれ出る。

 女だ。狐目の、見るからに気の強そうなエキゾチックねえちゃんが、硬直した表情でダークエルフに救いを乞うた。

 が、ダークエルフは愕然としたまま燃え尽きていた。至近距離で矢を放ったにもかかわらず、瞬時にしてそれをかわされただけじゃなく、武器そのものに致命的なダメージを負わされたのだ。それも、素性の知れないギルド難民のこのおれに。そりゃあ、ショックを受けない訳が無い。

「おい、そこの二人。これ以上争いごとを起こそうものなら、聖なる女神の逆鱗に触れるぞ。祠での禁忌事項、まさか知らない訳ないよな?」

 おれの問い掛けに、二人は眼を見開くと、互いに顔を見合わせた。こいつら、初歩的なルールすら頭に入ってないのか。呆れた奴らだ。

「剣士殿を連れて、早々に立ち去れ。安心しろ、手加減しておいた。そいつは気を失っているだけだ。黒魔導士殿が咥えている薬草を絞って汁を飲ませれば、すぐに目を覚ます」

 黒魔導士は慌てて口から薬草を引っこ抜くと、それをぶっ倒れている剣士の口の上に持っていく。黒いマニキュアが怪しげな光沢を放つネイルを薬草の緑葉に食い込ませながら、か細い指でぐいぐいと締め付ける。

 やがて、彼女の白い指の間から、どろりとした葉汁が流れ落ち、僅かに開いた唇の間に注がれていく。この薬草、運搬時は乾燥しているが、祠に持ち込むと神気を吸ってみずみずさを取り戻す不思議な特性を兼ね備えている。万能薬たる所以は神の御利益にあると言っていい。

「ぐふっ」

 剣士は顔をしかめながら激しくむせると、ゆっくり眼を開いた。まだ思考が跳んでいるのか、視線を泳がしたまま周囲をぼんやり見渡している。

「気が付いたか」

 おれの呼び掛けに、剣士はびくっと身体を痙攣させると、慌てて上体を起こした。

「貴様、何者?」

 奴は、さっきまでとは打って変わって、頬を硬く強張らせながら、怯え切った眼で俺を凝視した。

「ギルド難民さ」

 奴はおれから目線を逸らすと、リュックの中身を床にぶちまけ、よろよろとした足取りで扉に向かって歩き出した。その後を、二人の仲間が慌てて後を追う。

 三人が退出したのを確認すると、おれは扉に太い閂を掛けた。悪しき者を拒み、良き者が訪れれば自然に開いて招き入れる神気が込められている。さっきもこれを掛けてれば、面倒は起きなかったのだが。まあ、奴らにはいい薬になっただろう。

「騒がせてすまん」

 おれは、さっきから一言も発していないリイナが気になり、声を掛けた。

 リイナは、気の抜けた炭酸水の様な呆けた表情でおれを見上げながら、床にへたり込んでいた。

 ハの字に開かれた膝と膝の間に、小さな水溜りが出来上がっている。

 やれやれ、次は床掃除かよ。

 おれは大きく吐息をつくと、微動だにしないリイナに優しく声を掛けた。

「ケープは洗って返せよ」

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