私の死への見方

ルナナ

第1話 死と個人が持つ視点

 本当に唐突ですが。最近「みんなが人生の主人公だ!」みたいな言葉をめっきり聞かなくなった気がします。

 別に悪い言葉ではないような気がしますが……


 まぁ個人個人を「主人公」と断言してしまうには若干「人生」というものは重く、どうしようもなく主人公という言葉が青臭く感じます。少なくとも私は。


 正確には主人公にもモブにもなれる、というだけの事です。

 例えば、あなたが「自分は主人公なんだ!」といえるのであれば、あなたは主人公なのでしょう。






 ……次にあなたは「個人の中では、な」というでしょう。言わないかな?

 ではその個人、延いてはあなた以外にあなたは居るのでしょうか。ほかに自分は居ない、それがどうしたというのだろうか。


 そもそもフィクションを交えての話なので受け入れられないあなたもいるでしょうが。

 主人公とはお話の中心点です。たとえ周りのモブが主人公を無視し続け、主人公の蚊帳の外で事件や転移が起きたとしても、無視され続け蚊帳の中にいる存在が語り、地の文が彼に焦点を当て続けていれば、彼は主人公なのです。


 たとえ地味で普通で普通の言葉さえ見合わないような普通の人でさえ、その条件は当てはまります。

 故にこの世に脇役などいなく、等しく生きるモノ全てが主人公たり得るわけです。

 だってあなたの視点はあなただけのモノ気の合う人がいても、0~xまで全くおんなじ視点を持つ人間など存在したら怖いのだから。


 え?それって全員がモブと言ってるようなものだって?何を当たり前のことを。

 いいですか?「自分は主人公なんだ!」と言えばあなたは主人公なのです。「我々はブタから生まれた存在だ」といえばそうなるのです。

 まぁ、さすがに大げさに過ぎますしそもそもブタから生まれた、なんて公言してたら心配されること請け合いです


 つまり主人公もモブもあなたの思うまま。例えばあなたが宇宙人だと言えば宇宙人なのです。回りくどく説明してきましたが……結局は自分が思えば主人公にもモブにもなれる。それだけの事です。


 有名なラブコメもものすごく自分をモブ扱いしてますが、そもそも物語の主人公は自分が主人公などと思ってもみません。自分を主人公と自覚する小説も紡ぎ手が上手ければ面白そうですが……

 閑話休題。




 そしてここまで読んだあなたは今回の「死」要素どこだ?と疑問に思うかもしれません。

 また唐突ですが主人公が死にました。その主人公がいる物語の紡ぎ手は主人公本人です。世界はどうなりますか?

 紡ぎ手が死ぬのだから続かないですよね?これが物語の話であれば子供やら親友やら果ては知らない誰かが主人公となりお話は続くかもしれません。


 ですがここは現実。いくらあなたが主人公であろうと視点カメラを落としてしまえば誰もお話を続けてくれない。

 そう、視点カメラを持つことを許されるのは一度きり。死に、落としてしまえば物語は続かない。それを覚えて次の話へ。




 前述した視点カメラとは、「価値観」「人格」「個人」というものに捉えることができます。


 まずは価値観から紡いでいきましょう。

 私は価値観とは「経験」と「記憶」から生まれると思っています。経験は価値観の行動力を育み、記憶は価値観そのものを生み出します。


 経験は個人が持つ価値観を行動によって押し付けるとき、その経験によってどこまで押し付けていられるかを感じ、無理だと悟れば押し付けることを諦めます。


 記憶は価値観を生み出します。なぜ記憶なのか?経験ではないのか?

 では、あなたは洗脳され隣人からいじめられて居た、と記憶を植え付けられてみなさい。経験が許す限り隣人を害するかもしれません。または、法律によって禁じられていたとしていたことにより、我慢するかもしれません。

 記憶が価値観を生むとはそういう事だと私は思います。

 価値観がまっさらになれば何をしていいかわからなくなり喋る事すら億劫になる可能性があるかもなぁ……と思いますがそれはまた別の話。


 人格とはすなわち世界をとらえるだと捉えます。

 Xの体にAの人格が15歳まで宿っていたのにBの人格が宿ってしまえば、それはX個人ではない。

 Bの価値観はAとは違うのです。多重人格者がそのへんどうなのかは知りませんが。

 故に人格が世界をとらえなければ価値観は育まれない。価値観だけではまっさらのままだ。


 価値観が世界への捉え方を作り上げ、人格が見定め個人が行動に移す。

 これが私の言う視点カメラです。


 では、その世界を見ている人格が消滅してしまう、そしてもう行動を映すことも行動自体を起こすこともできない、そう死とはなんなのか?



 私は人格の消滅、そして死とは一つの世界の消失だと捉えます。

 人格が無ければ世界を見ることも叶わない。体が死んでいるため個人を起こすことも価値観を育むこともできない。それは一つの物語の主人公の死。そして物語の終わりなのです。世界が消失することに他ならない。




 約二千文字。ここまで紡いできましたが、結局死とは世界が消失することに他ならない、と言いたかっただけなんですけど。

 その世界の価値は考えたことありますか?この世界より尊いその世界を。

 誰かが愛し、誰かが育み、誰かが気にかけ、誰かが生きたその世界を。

 終わりが来るのは当たり前だ。太陽に突っ込めば等しく世界が終わる。なら、なぜ今を生きないのか、と。尊い価値観人格個人。これらを人格が価値観の思うがまま、精一杯個人を動かす事。なんと尊く嬉しくなることか。


 だからこそ誰かを害し傷つけることは悲しいことだ。今もどこかで見知らぬ人格がほかの世界を黒く染め上げる。これを読んでるあなたがそんな人格ではないことを祈ります。

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