工房の悪魔

夕辺歩

第1話 所業

 怒鳴られる怖さに身構えて縮こまった心で、僕はこれから一体どんな絵を描こうというのだろう――。

 生真面目きまじめなエルネストは、そんな疑問を抱いたことをすぐに後悔しました。見習いには分不相応ぶんふそうおうな、それでいて捨て置けない問いだと直感したからです。

 実際、このたぐいの問いはその後も折に触れて彼の脳裏をよぎり、心を締め付け、見習い暮らしに暗い影を投げかけ続けました。

 ミラノに絵画工房は数あれど、こんな青臭い悩みを抱えたまま絵の具を溶いている阿呆は自分くらいのものだろう。そう思うと余計にむなしく、情けなく、気落ちすればおのずと作業の手はおろそかになり、疎かになればすぐさま叱責しっせきが飛んでくるのでした。

「この野郎、エルネスト! 何ちんたらしてやがる!」

 リカルド工房の助手の一人、ガルティエロの怒鳴り声が今日も建物をふるわせます。

 またか、という兄弟子たちの溜息。ああはなるまい、という同輩たちの憫笑びんしょう。恐ろしさと恥ずかしさにエルネストの手は震え、その震えによる手元の狂いがまた大喝だいかつを招いてしまう。彼は紛れもない悪循環に陥っていました。


 この工房には生贄いけにえが要るのさ。

 兄弟子のヴィットリオはそう肩をすくめたものです。

「悪魔の生贄がね。前のは辞めたよ。君もいつまでつか」

 悪魔とはもちろんガルティエロのことです。

 つじで出くわせば泣かない子供はいないだろう獣人めいた髭面ひげづらにもまして、彼はその性状において疑いようもなく悪魔でした。

 目下相手には無論のこと強く、噛み付けると見ればたとえ相手が目上であっても平気で噛み付いてはばからない。己の失敗は必ず棚に上げて笑い飛ばし、他人に落ち度があれば口を極めてののしり倒す。

 その場にいる者もいない者も、ガルティエロにかかっては嫌味とこすりの的でした。相手をくさし、けなし、ろし、吝嗇けちを付けるほどに暗い熱を帯びていくあの瞳を、エルネストは毎晩のように夢に見てうなされます。

 誰か一人がガルティエロの犠牲になっている間、他の面々は安堵あんどの息をける。その意味で、まさに今エルネストは悪魔の生贄なのでした。


「あれで無能なら叩き出せたのにな」

 助手の一人、ウーゴのぼやきは皆のぼやきでした。

「変にさばけるから厄介だ。何かこう、あいつがく毒のせいで工房が腐っていく気がするんだ俺は」

 エルネストは黙ってうなずきました。あると知りながら取り除けない病巣のようですよね、という返事は舌禍ぜっかを恐れて心にとどめました。

 ガルティエロの存在ゆえに、工房は年中止むことのない陰口の叩き合いの場となり、より大きな声で先に吠えた者勝ちの、野犬の群れじみた低俗な集まりとなりつつありました。愛想が良いと必ずめてかかられ、露骨ないじめは見過ごされ、弱い者へのしわ寄せは黙認され、真面目なばかりでは馬鹿を見るという考えが黒い霧のように蔓延まんえんしました。

 目上を目上とも思わないガルティエロの傲慢ごうまんさにみ果てた年長者たちが少しも言い返したりたしなめたりしなくなってからは、強い者にならわなければ損をするとでも思うのでしょうか、尊敬すべきリカルド親方の指示にまで面と向かって逆らうような、そんな勘違いも甚だしい便乗者まで現れ始めました。

 当然、人は雇い入れた端から辞めて行きました。下塗り、背景、小物や人物の描画、また画材の調達や清掃、食事の手配や賃金の支払い等々、万事ばんじが分業で成り立つ絵画工房にあっては何よりもありがたくない『不和ふわ』をもたらす存在。誇張こちょうでも何でもなく、ガルティエロは工房のがんだったのです。

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