第36話 殺意
ミリオン内部に光が満ちているのは、保安上の当然である。
闇が、警察と泥棒のどちらを利するかは、議論を待たない。
警備に当たって、町村市警は、ミリオン内部に設置されている全ての照明機器をオンにしていた。
俺のいる29F休憩スペースも、強力なLED照明に、
それほど良好な視界にありながら、俺は、敵の姿を度々見失っていた。
(ど、どういうスピード!?)
最高速度、加速度、軌道変更時の速度。
速度と名のつく全てのものが、黒衣の男はズバ抜けている。
まるで、チーターと追いかけっこをしているかのよう。
俺を翻弄しつづける男が、元から低い体勢を、一段と低くした。
「!?」
その黒い姿が、一瞬、ソファの陰に完全に隠れた。
直後、男が、俺の死角にて動線を直角に変え、ソファの背もたれの上から飛び出してきた。
「わっ!?」
見事に虚をつかれる。
空中から俺の間合いに侵入し、そのまま必殺の飛翔斬りが見舞われる。
今日一番の金属音が響き渡った。
俺は、剣の峰に手を押し当て、受け太刀をどうにかこなしていた。
だが、全体重を載せられた一撃を、完全には受けきれない。
「うわわっ」
俺の身体はたたらを踏んで退がり、背中から壁に激突した。
「がはっ」
背中の真ん中を痛打し、息が一瞬止まる。
間髪入れずに、パァン、と、膝に鋭い衝撃が走った。
「ぐっ!?」
剣刃重ねた密着体勢では、相手の下半身など目視できないが、(ロ、ローキック?)と考えざるを得ない。
膝関節から力が脱け、俺の身体がガクンと落ちる。
瞬時に、黒衣の男が半歩退いて、攻撃用の間合いを確保。
素早い振りかぶりからの、上段斬りが、俺の脳天めがけて放たれた。
白い糸みたいな剣刃が、まっすぐ落ちてくる。
(体勢を立て直そうとしたら、そのタイミングで頭をカチ割られる)
本能的に理解した。
俺は、体勢の崩れをむしろ助長する。
そのまま素早く地面に倒れ伏し、勢いのまま横に転がる。
「ちぃ」
しゃがみ立ちの体勢で、再び向き合った男の眼前には、深い裂傷が刻まれた壁があった。
男が、ふわりと、俺から跳び離れると、再びめまぐるしく動き出して、俺をかく乱しだした。
男の戦術はここまで一貫していた。
(俺が隙を見せたら、素早くイン。一撃浴びせたら素早くアウト)
アウトボクサーさながらのスタイルは、スピードに恵まれ、パワーに乏しい男には、もってこいだった。そしてここまで、俺はその戦術に良いようにやられている。
(今の打ち合いで9、いや、ちょうど10合目か)
もうずいぶんな回数、剣を交えた。
時間の間隔は全くない。五分と経っていないのか、一時間以上もこうしているのか?
頭上からは、未だ戦いの音が降り続いているから、まだ時間切れではないようだ。
(だが、つかんだ!)
俺はひとり高揚を覚えていた。
七合目あたりで薄ら感じていたことが、この十合目にして確信に変わった。
(こいつの弱点が今はっきりと見えた)
俺は、黒衣の男から視線を切って、別の方角へと歩き出す。
「むっ?」
男が警戒感を強めた目になるが、俺は取り合わない。
ところで、ここ休憩スペースには、多数の備品が取りそろえられている。
来客が腰を落ち着けるためのソファが4脚。
その間に、木製のテーブルが一台。
自動販売機とウォーターサーバーが一つずつ。
多様な雑誌類が収められたマガジンラック。さらにさらに――
どの品からも『より快適な休憩時間』というテーマが感じられ、この〈ミリオン〉という施設に対する、町村市の情熱がほの見える。
「……」
俺は無言で、ソファの一脚に近づいた。
ぽんぽん、と柔らかい背もたれに手をついて、「ふう」と一息入れた。
「おい、お前!」戦いが始まってからはじめて、男が言葉を発した。「いったいなんの真似だ。俺をからかうつもりか!」
俺は何も応えない。
「……」
ぼんやりと天井の照明を見上げる。
「おいっ――」
男が不用意に前に出る。
同時に俺は、ソファのせもたれを握りしめた。
ソファを、男めがけて投げつける。
『魔法戦士』のパワー補正はけして大きくは無いが、ソファ程度の重量物ならば、時速100キロ以上で放り投げられる。
「~~~っ」
男が横っ飛びで、どうにか避ける。
男のすぐ脇を通り過ぎていったソファが、激しい音を立てて、壁に大きな打痕を刻み込んだ。
俺の手はもう次のソファに伸びている。
「ち、ちょっ――」
動転する男めがけて、次々と休憩室の設備を投げつけた。
ソファ。テーブル。マガジンラック。
スピードに秀でた男は、そのどれもをかわしきる。
しかし、一つ備品をかわすたび、男の姿勢が崩れていく。
投擲の順番をあらかじめ計画していた俺は、遅滞なく攻撃をつづけた。
最後に、自動販売機を抱きかかえる。
「ま、待て。それはシャレになってな――」
「でやあああっ」
相撲の上手投げの要領で、巨大な金属の塊を、男めがけて飛ばせる。
ギリギリの回避をつづけた男の体勢に、もう余力はない。
「わああああっ」
自動販売機が轟音と共に、壁にめり込む。
壁一面に亀裂が走り、壁材がいっせいに剥がれ落ちた。壁内部から、一斉に粉塵が噴き上がる。
褐色の煙が視界を遮るも、俺は、黒い男を見失ってはいない。
自動販売機を間一髪でかわした男は、床に尻餅をつき、無防備な姿をさらしていた。
俺は全力で駆け出す。
「はっ」
男が放心状態から立ち直る。腰を素早く持ち上げて、両足をそろえる。そのまま例の無重力のジャンプでいったん距離をとろうと――
「ああああああああああっ」
俺が咆えた。
我ながら、人間とは到底思われない声。
男が反射的にこちらを見る。
黒いレンズ越しに、目と目が合ったのを感じる。
俺はあらんかぎりの殺意を、男の目にたたき込んだ。
――生きたければ殺せ。
GAE《ゴッド・アンド・エビル》の世界で学ばされた、残酷な世界の真理。
びくん、と男の身体が震えた。
俺の間合いに入った。
左足の外側面を相手に向けて、地面を滑らせるように踏み込む。腰を大きく捻って、背中の筋肉を総動員させる。
それは水平斬りと呼ぶよりは、バッティングに分類されるモノだったかも知れない。
男がギリギリのところで半剣で受ける。だが、勢いは全く殺しきれない。
俺が剣を振ったのと同じ速度で、真後ろにぶっ飛んでいく。
自動販売機に負けない音を立てて、男の身体が、壁に突っ込む。部屋全体が激しく揺れた。男の身体が静かにずり落ち、床に投げ出される。
(勝った)
剣柄から伝わってくる手応えからして、男が意識を保っている可能性はゼロだ。
(こいつの敗因は一つだ)
経験不足。
それは、ゲームで言うところの経験値が足りないという意味では無い。
単純なレベルを比べるのならば、男は間違いなく俺より格上だった。
ゲームでの戦闘時間も、それとおそらく現実での戦闘経験も、上だったに違いない。
(ただ、経験の質だけは俺の方が勝っていた)
俺がGAEの世界に入り込んでから、どれほど酷い目に遭ったか。
そうそうたる怪物たちに揉まれ、何度も死を覚悟させられた。
男からはそういう土壇場をくぐった気配が全く感じられなかった。攻撃は鋭く巧みだったが、背筋を凍らせるような殺気が、これっぽちも感じられなかった。
(多分、さほど危険のないモンスターとの戦闘を繰り返してレベルを上げたんだろうな)
俺の想像が当たっているかどうかは、今更確認の仕様も無い。
ちなみに、男が殺気を身につけていないことは、なんら糾弾に値しない。それどころか、人間としては褒められるべき事である。
(本気の殺意を抱ける人間なんて、現代では物騒極まりない。殺らなきゃ殺られるような経験なんて、一度もせずに終わった方が、人生よほどハッピーだ)
俺は心からそう思っていた。
「おっといけない。考え事なんてしてる場合じゃ無かった」
頭上からはまだ戦いの音が降り注ぐ。一刻も早く、ユウ君たちと合流しなくては。
展望台へと向かおうとした俺を、
「ま、待ちやがれ」
引き留める声があった。
「!?!」
とっさに、俺は大きく後ろに跳んでいた。
声を発したのは、もちろん、眼前の男に他ならない。
(な、なんで? どうして!?)
俺は軽いパニック状態にあった。
(か、会心の手応えだった。あれで意識を保てるだなんて、絶対にあり得ない)
ゆっくりと起き上がろうとする男は、俺にとってはゾンビか幽霊の類いである。
「!?」
ふと、男の周囲が水浸しなのに気がついた。
「そ、そうか。ウォーターサーバー!」
男が壁に激突した位置は、幸運にも、ウォーターサーバーの設置箇所であった。
水を満載した大型のPETタンクが、クッションの役割を果たしたのだと理解する。
思えば、攻撃の瞬間、部屋は褐色の粉塵に包まれていて、周囲を正確に目視できていない。
単なる運と言えばそれだけだが、それだけに怖いとも言える。
立ち上がった男が、ふらつきながら、こちらに近づいてくる。
「よくもやってくれたな」
男がボソリと呟く。
うつむいたまま、ゆっくりとゆっくりと、歩を進めてくる。
先ほどの速度は見る影も無い。
だが、先ほどの倍も恐ろしい。
(な、なんだ、この感覚は?)
背高亜人からも、妖樹王からも、死神蜂からも、こんな気配は感じたことは無い。
(透明な魔女の指に、首をなでまわされているような?)
あまりの息苦しさに、俺はマスクを衝動的に外しかけた。
――対人戦初心者の俺には知るよしも無い。
これこそが人間特有の殺気。
モンスターや動物が放つ、灼熱の炎のようなそれとはまるで異なる。
捻れていて、湿り気を帯び、そしてどこまでも昏い。
部屋に立ちこめた粉塵に、LEDの光が乱反射し、そこを漆黒の男が、幽鬼の足取りで歩く。
ミリオン29Fに突如出現した異空間に、俺はただ冷たい汗を流しつづけた。
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