落とし物

遊行 晶

落とし物

 前職の会社で同僚だったK子が、私の向かいのソファで話している。冬の夕刻のコーヒーショップで、我々の前にはそれぞれのマグカップがある。私は半年前に転職したので今の職場は別々だが、彼女とは同僚時代から妙に気が合い、こうしてたまに仕事の情報交換や互いの近況報告などしている。

 K子も私も未婚のアラフォーだが、私は彼女に対して特に色気を感じず恋愛感情も持たないので、男女としての余計な駆け引きは不要で、却って気楽に会話しやすい。彼女のほうも同じなのだろう。(K子の名誉のために断っておくと、彼女は決して不美人ではなく、社交的で明るい)

 平日であり、大方の会社の終業時間前後なので、店内は混んでいる。K子も私も適当な理由をつけて定時より少し早めにそれぞれの会社を後にし、店に入ったのは正解だった。外は寒いが、冬至の頃よりいくらか日が延びた。店の窓から見える通りには街灯がともり、完全に夜の景色だが、ビルの間に覗く彼方の空にはまだ僅かに明るさが残っている。


 「この間、G社の〇〇部長ったらさあ…」とか「ウチの役員連中ときたら、相変わらず…」といった世間話がひとしきり済んだところで、K子が窓越しの空を見やり、何かを思い出したようにそれまでより少し真顔になって言った。

「そういえば、この前の週末さ、ちょっと不思議な事があったんだよね」

 話によると、週末の夕暮れ時(だから彼女は夕空を見て思い出したのかもしれない)、彼女はウィンドウショッピングでもしつつ帰りに食材の買い出しもしようかと、自宅の最寄りの駅前商店街ではなく、電車で数駅のより大きな街に向かった。週末夕方の私鉄の車内は空いていて、座席には結構空きがあっが、彼女は車両の乗降口の脇に立って車窓の街並みや夕空、車内の人々などを見るとはなしに見ていた。

 途中駅に到着して(K子が降りる駅はまだ二つ先だ)K子が立っているのとは反対側の乗降口の扉が開いた時、座席に座っていた二十代と思しき女性が立ち上がって降りていった。車両から出る直前、その女性のショルダーバッグから何か白いものが床に滑り落ちるのを、K子は目の端で捉えた。マフラーだった。K子は反射的にそれを拾い上げながら、ホーム上を遠ざかる落とし主の背中に声を掛けた。

「あの、これ」

 その瞬間、扉が閉まった。声を掛けられた女性も、扉が閉まる直前の一瞬、振り向くと同時にマフラーを目にし、「あ」と声を上げたものの、時すでに遅かった。


 「じゃあ、渡せなかったわけだ」と私はコーヒーショップのソファに深く座り直しながら言った。

「その時はね。それで、私、自分が降りる駅の事務室に届けようと思ったんだけど」と言いながら、K子の顔が真剣味を増した。私は、今しがた深く座り直したのに、無意識に再び少し身を乗り出してしまう。

 彼女は、拾ったマフラーを落とし物として届けようと、軽く畳んで体の前に持ち、電車に揺られていた。駅に届ける際には、落とした女性が降りた駅名や状況なども話そうと思っていた。電車が次の駅に滑り込む。そこではまだK子は降りないので、乗降口の脇に寄っていた。扉が開いた瞬間、先ほどのあの女性が目の前に立っていた。

 「あれ?」とK子はまず感じたという。ああ、マフラーを取りに来てくれたのね。落とした事には気付いたのだから、普通の事か。でも、何かがおかしくない? 何かって、何が? それとも、私の気のせい?

 一瞬のうちに、それらの思いがないまぜになって、あれ?と感じた。

 乗降客はいなかった。K子の目の前に立つ若い女性が、安堵の微笑を湛えながら、「さっきはすみません、ありがとうございました」と軽く頭を下げる。

 やっぱりこれはおかしいのだ、とK子は確信した。

「ああ、いいえ」とK子もマフラーを差し出すが、その動作は戸惑いで少しぎこちなかったかもしれない。マフラーが戻った女性の後ろ姿はもう、改札に繋がる階段のほうへ遠ざかっていく。

 扉が閉まり電車が再び動き出しても、ふわふわした白いマフラーの感触がまだK子の掌に残っていた。


「ええ、何それ? どうやってその女の人は先回りしたのさ」と私。

「分からないよ。だから不思議だって言ってるじゃん」

「ありえないよ。物理学がひっくり返るよ。何かの勘違いじゃないの」

 K子には確かに少しおっちょこちょいな面がある。基本的には優秀だが、人の話を最後までちゃんと聞かないで見当違いな理解をしていたり、話を整理する前にしゃべり始めて相手を困惑させたり、といった類だ。だが大抵は笑い話の域であり、本人も自覚があるので仕事では意識的に慎重になるし、あくまでも重大事ではない場面での話だ。そもそも正直であり、嘘をつけるタイプではない。

 私は、「実はその女の人が降りたというのはK子の記憶違いで、実際は降りていなくて、電車の中でマフラーを返した、とか」と言ってみた。

「違うってば。つい先週末だし、記憶もはっきりしてるし」とK子は笑いながらも本気で否定する。

「じゃあ、すぐに特急に乗り換えて次の駅に先に着いた、とか。あ、じゃあ、こういうのは? 急いでタクシーを拾って次の駅に先回りしてきた」

 どれも確実に違うな、と私は知りつつも、理解の埒外の現象を受け止めきれず、適当な仮説を列挙する事で軽い話にしようとしている。「あ、電車の車体の外側にしがみついて、次の駅まで耐えた、とか」

 これは「仮説」ですらなく、ちょっとふざけ過ぎだ。

「マンガじゃないんだから」

「もはやホラーだね」

「今の季節じゃ寒すぎるでしょ」

「寒いとかの前に、振り落とされるだろ」

 怖い話なのか、可笑しい話なのか、よく分からないまま、「そろそろ帰ろうか」という事になった。


 K子と別れた私は、一人で自宅に向かう電車に揺られている。K子が体験した話について、割り切れない気持ちの悪さを感じながら、まだ考え続けている。

 K子と私の心情は、「恐怖」とは少し違うと思う。説明がつかない事による気持ちの落ち着かなさだ。でも、K子も同じだろうか? 最後は笑って帰路に就いたが、自身が直接体験したぶん、私よりも「怖さ」を感じているだろうか。

 こういうのはどうだろうか? 実はテレビ局が仕掛けたドッキリで、K子は秘密裡に撮影されていた。仕掛け人である、全く同じ服装をした双子の姉妹の姉が、K子の前でわざとマフラーを落とす。次の駅で、妹が既に準備して待っている…

 私は、何とか説明をつけてすっきりした気持ちになりたいのだ。これは、うん、我ながら良い説明だ。


 それでも、自分の目の前で落とし物をする若い女性がいないか、つい気になってしまう。K子のときとは状況が違い、今は帰宅ラッシュ時間で車内が混み合っている事に安心する。

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