一巡りのシエル
『思井根シエルは名前を変えたい。
思井根シエルはルールを重んじる国に住みたい。
思井根シエルは優しさが滲み出ている国に住みたい』
バシャバシャと波立つ地底川をいつまで見つめていても仕方がないので、見送って立ち上がる。ブラシで簡単に毛を取り、着崩れを直すといつもより大きなカバンをコロコロと転がして歩き出す。
総合受付に行くといつもの女性が居た。
「あ、シエルさん。出国ですねぇ? またお待ちしてまぁす」
シェルターで言う出国とは国を出る事ではなく、国へ出る事だ。
「私もまた戻ってくる気がしますよ」
土壁しか見えない列車にほぼ一日も揺られる事になるので寝台を取っておいた。仕事は決まっていないが、部屋は脱シェルター支援寮があるらしいので問題ない。
日本に愛想を尽かして四年ほど。大国から小国まで色々な国に住んでみたが未だに私の思想に合致する国には出会えていない。一番よかったのは海と山ばかりの小さな島々からなる国だ。問題は体力のない余所者にはココヤシなどの配当が厳しい事だった。
私はダラダラとシェルター生活をしているわけではない。将来について考え、行動もしている。でも何かが足りない。
物ではないのだ。それは考え方や想いのような見えない何かな気がしている。
綺麗に整えられたベッドに入ると、掛布団だと思っていたものはカバーだけだった感じだ。
私はカバーの中身を探している。
命を隠した茶色の土壁がただ流れて行くのが心地よくてつい見入ってしまう。
壁の向こうからドン! と蹴られて布団の中で目を覚ますと、足元でスマホの目覚ましが鳴り響いていた。手早く降りる準備をしてから隣の人に謝りに行くと「うるさい」と気怠そうに言われる。
シェルター構内を出ると新しい町は賑やかだ。シェルターから出てきた私をチラと見ても、あからさまに嫌な顔をする人は居ない。
今は昼休憩なのか、店先にはたくさんの果実や布が並ぶのに店主はいない。クラシック音楽のような雰囲気がした。石造りの建物が混雑しており、無数に伸びる路地が絵画のようだ。
地下にいると季節など忘れてしまうけれど、陽射しが肌を焼く。百合に似た赤い花が咲き、一色に塗られた空はどこまでも高い。屋根の上から余所者の様子を窺う鷹を見た。
私は地図を片手に若干の車が通る道に出た。
木々が行儀よくコンクリートの合間に建っている。この絵画の町は都会と大きな道を隔てたすぐの場所だった。
少し歩くと思想相談窓口の大きな建物を見つけた。中は待合が異様に広いが、空席は見当たらない。
「すみません。先ほどシェルターから出国してきました」
ニコリともしない案内係の女性が廊下の奥を指し示す。
「ようこそガーデン国へ。出国者の受付はすぐにお呼びできますので、このまま第三ルームに行ってください」
たいした案内もされないまま看板にしたがって第三ルームへ辿り着くと、缶ジュースを持った若い男が入るところだった。
「あれ? もしかして出国の人? それなら入って、入って」
缶ジュースの男はペットのポチのような懐っこさで私を招き入れると、自分はカウンターの向こうへ座る。
「なんでシェルターに入ったの? 出身どこ? んん? あぁ、この書類だな。思井根シエルさんで合ってる? そうか、日本人かぁ。なんで? いい国でしょ? 少なくともウチよりは平和だと思うけどねぇ」
「私は日本でサラリーマンをしておりまして……」
缶ジュースの男は私の返事を待たずにどんどん話す。いくら英語が話せても、こんな勢いでは理解が追い付かない。まぁ聞き取れないと訴える隙も無いのだけれど。
ひと通りの書類にサインをしたところで、缶ジュースの男が聞き捨てならない事を言う。
「それでね、今ちょっと支援寮の空きがないんで。大丈夫だよね? 漫画喫茶もあるしカプセルホテルもあるんで、開いたら連絡しますわ」
「シェルターからあらかじめ連絡があったはずですが?」
「なんか就職して出るはずだった人が、直前で通り消されたみたいで。可哀想だよね。だから居させてやってよ。シエルさん何とかなるでしょ?」
「しかし仕事も決まっていないので困りますよ」
「あ! 仕事ね。仕事なら今日の夜すぐのがあるよ! イベントの手伝いなんだけど、料理出したりテーブル片づけたり。いい? じゃあ決まりで! いやぁ、助かるなぁ」
そう言って私の目の前でどこかに電話をし始めた。その言葉は英語ではなくて聞き取れないけれど、陽気に話している。
もう、ここまで雑な対応をされると怒りすら湧いてこない。湧き上がるのは寝床の心配だけだ。
缶ジュースの男が電話を切り、私に向き直る。
「五時には着いてほしいって」
「分かりました。しかし私はデスクワークしかした事が……」
「いいの、いいの! 人間チャレンジ精神が大事だよ!」
「そうですか。服装はスー……」
「そのスーツでいいよ。エプロンは向こうでくれるでしょ」
「あと、この変な名前を変え……」
「え? ぜんぜん変じゃないよ。シエルさんってよく居るし。大丈夫、大丈夫」
その後も会話はそんな調子で進み、頭が怠くなってきたので切り上げて外に出る。
どこの国にも変な人はいるものだ。
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