僕から世界が消える日

浪速ゆう

死亡推定時刻

 死期が分かれば、人はより良い人生を過ごせるのだろうか。


 人はいつ死ぬかわからない。わからないからこそ無茶が出来て、わからないからこそ命を粗末にもできる。それはきっと未来はまだまだ続くものだと思っているからではないだろうか。

 婚期もそうだ。結婚へ踏み切る平均年齢が上がるのは、時間とは無限あると何処かで錯覚しているからではないだろうか。そのくせ、死ぬ間際になれば伴侶を持たなかった事、子供を作らなかった事を大多数の人が後悔し、死を迎えると聞く。けれどそれが、例えば明日死ぬとわかっているならば、ずっと想いを寄せている相手に対し、即座に行動を起こす事が出来るかもしれないというのに。

 そんな考えから開発されたのが、人の死期がわかる腕時計。人類は進化し、それと平行するように科学も進歩していった。その進歩した中のひとつがこの時計だった。

 時計は生まれた時から腕にはめられ、自分で外す事も壊す事も出来ない。伸縮性もあり、サイズがキツかったり逆にゆるかったりする事もなく、違和感を感じないほど常にピッタリのサイズをキープされている。もちろん防水で戦車に踏まれても壊れないというのがこの時計の強みでもある。

 そして、時計をつける事は国民の義務でもある。初めは反感や異論もあったが、それもここ100年のうちに消えていった。なにせ生まれた時から当たり前のようにつけている世代が増えたからだろう。

 かくいう僕もその一人だ。

 人は死期を知ると二つのパターンに分かれる。死ぬ瞬間まで一生懸命生きようとする人間と、自暴自棄になる人間。

 しかし、自暴自棄になるのも一過性のものだ。思春期の反抗期と同じようなもので、長くは続かない。最終的に頭が冷えるか残り少ない人生に焦りを感じ、馬鹿馬鹿しい行動は影を潜めてゆく。その結果を経て国はこの時計をつける事を義務としたのだ。


 死期が分かるのには理由がある。

 時計をつけている事で腕から伝わる脈拍や皮膚の状態、汗などから常に計測し、時には毛穴を伝って毛細血管に針を刺し、健康状態を確認するといった作業を行い、日々体調のバランスもみてくれる。

 もちろんそれだけじゃない。時計には生まれた時から持ち主の情報がインプットされ、過去5代先までの家族構成、病歴も含まれる。病院へ行けばそれが電波に乗って時計に送られるという仕組みだ。

 しかしそんな機能が付いているが、最終的には生まれた時に表示された死期が変動する事はほぼありえない。死期とは食べ物や生活によってそうやすやすと変わったりはしないらしく、変わっても微々たる違いだと、この時計を作った会社は謳っている。

 ただし、その理由については企業秘密だそうだが。

 一度その会社で働いていた友人に聞いた情報によると、占いの四柱推命やら前世、霊視占いなどオカルト方面やらも用いてるという。科学だけではなく、その人が持つ運命とやらも計算に入れて作られた高性能機器らしい。


「あ、あの、すみません」


 切羽詰まったようなか細い声が僕の足を引き止めた。

 声をかけてきた女性は、少し膨よかで女性らしい体格の頭の良さそうな顔立ちをしている。思わず足を止めたものの、全く見覚えのない相手に人間違いではないかと思い辺りを見渡した。しかし女性は真っすぐに僕を見つめて、再びこう言った。


「今、変な人につけられてるんです」


 そう言ってどこかおどおどとした様子だ。

 僕は人混みの中、辺りを見渡した。けれど彼女が言うような人は見当たらない。いや、飲み歩いた人間がそろそろ帰宅しようとしている時間だ、人が多くて紛れているだけかもしれないが。


「あの、一杯だけ付き合ってくださいませんか?」


 控えめな声がこのままこの女性を帰すわけにはいかないと思えてくる。もしここで僕が断った事で彼女に危険が及べば……そう考えると、今日はぐっすり眠れない気がするからだ。


「わかりました、少しだけならお付き合いいたしましょう」

「ありがとうございます」


 ほっとした表情を浮かべ、小さくお辞儀した。その時下がった髪を耳にかけながらはにかんだ笑顔を向けられ僕は不謹慎にもドキリとする。

 よくよく見てみるとちょっとした美人だった。僕の好みに当てはまる、色白で、決して大きい訳ではないくりっとした目元の女性だ。


 僕たちは近くのバーで飲む事にした。はじめて来たバーだが、店内は静かでカウンターだけの老舗の店だった。


「どうしてつけられていたのですか?」


 彼女はまだ少しおどおどとした様子だ。初めは不安と恐怖からくる振舞いなのかと思ったが、もしかしたらこれは、彼女の元々の性格からくるものなのかもしれない。


「わかりません。振り返ると、後ろから知らない人につけられていたんです。初めは気のせいかとも思ったのですが、それにしては長い間一定の距離でついて来てましたし、以前にも似たような事があったので怖くなって……」

「そうでしたか。しかしどうして僕に声を?」


 きっと誰でも良かったのだ。怖い思いをして、藁にもすがる思いで僕に声をかけてきたのだろう。答えはわかっていた。だからこそ話のネタととして聞いたつもりだった。


「なんとなくあなたなら大丈夫な気がして」

「それは、どういう?」

「すみません、変な意味ではなくって……ただ、男性に声をかけるのも勇気がいるもので、この方ならきっと変な人ではないだろうと思って」


 変な人の定義が分からず首を傾げていると、再び頭を下げられた。


「すみません。誰かにつけられていたので、声をかける相手にも少し不安があったのです」


 ああ、と思い注文したカクテルをひと口飲んだ。変な人というか、自分に対し危険を及ぼすような人ではないと判断したという事か。どこを見てそう思ったのかはわからないが、確かに僕は彼女に危害を加える気など毛頭無い。そう考えると彼女の見る目は間違っていない。

 相変わらず頭を下げるこの女性に幾分興味が出てきたのだが、それを悟られてはいらぬ不安を招きかねないと思い、僕は何気ない様子を務めた。


「そんなに謝らないでください。僕も少し飲みたいと思っていたところだったので」

「それなら良かったです」


 小さく微笑み、カクテルに口をつける横顔がとても綺麗だと思った。この女性にはなにか不思議な魅力があるのかもしれない。

 ほんのり香る甘い花の香りはきっと彼女から放たれているものだろう。家に帰るまで記憶に残る香りだと思った。


「あの、お名前はなんというのでしょうか」


 時間がいくらか経った頃、そろそろ帰ろうと言う彼女に聞いた。これも何かの縁だとでもいうように。


「真と申します」

「僕は正人と言います。あの、もし嫌でなければまたこうして一緒に飲みませんか」


 知らない人に後をつけられていたのだ。この申し出は早まったか、ともおもったが、彼女は微笑んで受け入れてくれた。


「本当ですか、私も同じことを考えていました」


 お酒の力も相まってか、思ったよりも嬉しい反応だった。彼女も幾分話して打ち解けたからか、出逢ったばかりの頃のおどおどしさは消えていた。

 あれから何度となく付き合いを重ね、やがて僕の心はどんどん彼女に惹かれていった。彼女もまんざらではないように思えていた、ある日のこと。


「真さん、僕の寿命はあと40年と2ヶ月です」


 そう言って左腕につけている時計を差し出す。今は時刻を表示しているが時計についたボタンを押せば寿命の残数が表示される仕組みになっている。年月日、そして時間までもが数字で表れる。ここに浮かび上がる数字が0になった時、僕は死ぬのだ。


「こういうものはあまり言い合うものでもないと思いますが、真さんはどうなのでしょうか」

「私は……」


 言いながら遠慮がちに、少しおどおどとした様子で同じく彼女も腕の時計を見せてくれた。そこには43年3ヶ月と記載されている。それを見て僕は内心ほっとした。


「よかった」


 思わず溢れた言葉に、彼女は小さく首を傾げながら聞き返す。


「何が、よかったのですか?」

「いえ、こちらの話です。それより真さん……僕と結婚してくれませんか」


 みるみる彼女の瞳が大きく見開かれてゆく。その様子を見て、僕は思わず微笑んでしまった。ああ、やはり僕は彼女が好きなのだ。


「お付き合い、ではなく?」

「はい。結婚してください」

「ですが、どうして? まだ知り合って間もないというのに」

「僕は自分の直感というものを信じています。直感なので上手く言葉にできませんが、初めてお会いした時から真さんが好きです。僕の残りの人生、残りの時間を真さんと過ごしたいと思ったほどに。ですが、真さんにとって付き合うという期間が必要だと言うのであればそうしましょう。どちらにせよ僕はこの先もこの気持ちは変わらないでしょうから。生涯を共に過ごす伴侶として、僕は真さんと一緒にいたいと思ったのです」


 僕は一息にそう言った。静かに聞いていた彼女の頬がほんのり高揚しているように見えるのはきっとお酒のせいだけではないだろう。


「で、ですが、それにしても突然すぎます」


 僕は一度カクテルで喉を潤してから話し始めた。


「今や運命の相手というのは機械が簡単に弾きだしてくれます。ですが僕はそんな相手ならば機械に頼らず自分の目で見た相手、話をした相手で決めたいと思っていました」

「それはどうして?」

「いくら運命の相手だと言われても、所詮は機械が計算式で弾き出したものだからです。ただ自分に合う相手だと、機械が決めた事だからです。それがいけないというわけではなく、僕は機械でなく自分の心の赴く相手と生涯を共にしたいと思」


 手に持つカクテルに視線を送る。そんな僕の横顔を覗き込むように彼女は見つめていた。


「ただ、ひとつだけ僕の中でルールがあるのです」

「ルール? それはどういったものなのでしょう?」


 僕は再び腕に付けた時計のスイッチを押し、死までの残り時間を出した。


「僕よりも先に死なない人です」

「先に死なない人、ですか……」

「はい。僕は愛する人を先に失うのが怖いのです。きっと僕には堪えられないと思うからです」

「だから私の寿命を確認したかったのですね?」


 はい、と短く返事をして頭を一度縦に振った。グラスの中に残っていたカクテルを飲み干し、トン、とテーブルに置く。そして席を立ち、狭い店内で僕はその場に膝をつき彼女の白くて柔らかな手を取った。


「真さん、僕と結婚してくださいませんか。いいえ、お付き合いからでも結構です。僕と結婚前提にお付き合いしていただけませんか」


 ここは出逢った時に行ったバーの店。カウンターだけの小さな店だが店内に客は僕たちしかいない。バーを切り盛りしているバーテンもロボットだけ。

そのロボットは僕たちに気にもとめずグラスを磨いている。

 そんな店内をオドオドとした様子で見渡し、やがて遠慮がちに僕へ視線を向ける。その瞳は熱を帯び、頬は高揚していた。


「……よろしくお願いいたします」


 僕は空いたもう一方の手で彼女に気づかれない程度に小さくガッツポーズをした。

 そうして僕たちは付き合いを重ねた。ずっと結婚を拒んでいた彼女だが僕に根負けしたのか結婚も承諾してくれた。全てが順風満帆だった。

 ただし子づくりだけは上手くいかなかった。彼女の強い希望により体外受精も行ったがやはり上手くいかなかった。


「……ごめんなさい」


 彼女は涙目でそう言った。


「いいさ。僕には君さえいればそれでいいんだから」


 そう言って彼女の瞼に口づけをする。けれど彼女はなおも僕に謝り続ける。子供なんていなくても僕には君がいればそれで良かった。それだけで十分だった。

 僕の愛は冷めるどころか増すばかりで、どうしてこんなに好きなのだろうと思うほど彼女の事で頭がいっぱいだった。彼女は僕の一部であると本気で思えるほどに愛おしかった。

 この幸せはあと30年は続くのだ。僕がこの世を去るまで。彼女が僕の最後を看取るその時まで。そう思って疑う事など何一つなかった。


 そんな中で、異変は突然現れた。

 いつものように彼女と一緒にベッドで眠りに落ちようとしていた時、彼女が僕の腕の中ですすり泣いていた。


「どうして泣いているんだい?」

「……」

「さぁ話してごらん、君が泣いている理由を。何が悲しいんだい? 僕が何かしたのかな」

「ごめんなさい」

「何がだい?」


 彼女の瞳から溢れ出す真珠の涙を指の腹で優しく拭い、そっと彼女を抱きしめた。

 彼女は一体何をそんなに悲しんでいるのだろうか。何をそんなに苦しんでいるのだろうか。何に対して謝っているのだろうか。そう思いつつ、背中を優しく撫でてやる。それでも彼女は泣き止まない。むしろどんどん激しくなる一方だ。


「教えてくれないか。君が何に苦しんでいるのかを僕は知りたいんだ」

「私は、嘘をついたの」

「嘘?」


 どんな嘘だろう、と頭を捻って考えてみる。けれどどんな嘘であろうと僕は彼女の事を愛している。その事になんら変わりがなければ何も問題はない。例えどんな嘘であろうとも、僕の愛が揺らぐ事はないだろう。


「私は……もうすぐ死ぬの」


 なんて可愛い嘘をつくのだろうか。そんな訳はない事くらい僕だって知っている。じゃあ彼女は一体何に涙を流しているのだろうか。


「本当よ、私はもうすぐ死ぬの……ごめんなさい。あなたより先に逝ってしまうと思うと涙が止まらないの……」

「そんな馬鹿な事を。君の命はまだ33年も先じゃないか」

「いいえ、そうじゃないの」


 そう言って僕の体からそっと抜け出し、自分の腕に付いている時計のボタンを押した。そこに表れた数字はやはり33年と表示されている。僕はやっぱりと思いながら、再び彼女を抱き寄せた。けれど彼女はボロボロ涙を零しながら再び腕をかざし、もう一方の手で時計の表面を捻る。

 カチリと音がした。ゼンマイでも回すような音と共に、時計の表面が薄く剥がれ落ちた。


「これが私の本当の時間なの」


 その時計に表示されていた数字は33。しかし33年ではなく……33分、だった。

 一瞬で頭の中が真っ白になった。起きてる状況が突拍子も無さすぎて、僕の脳が動きを止めてしまった。

 けれど33分と書かれた数字の隣には19、18、17……と秒が逆算されてゆき、やがて33分だった数字も32分へと溶けるように形を変えた。


「ずっと嘘をついていてごめんなさい、どうしても言えなかったの」

「どう、いうこと?」


 彼女が泣いている。愛する彼女が顔をくしゃくしゃにして泣いている。僕は彼女を抱き寄せようとするのに、その腕時計に釘付けになり動かない。

 何かの間違いだ。そうとしか考えられない。けれど一体どうやって……?


「私はずっと正人さんが好きだった。私が正人さんに声をかけたのは偶然なんかじゃなかったの」

「偶然じゃ、なかった?」

「そう、初めて会ったあの日、私が誰かに追いかけられてるという話は嘘。本当は正人さんに話す口実さえあればなんだって良かった」


 瞳を真っ赤に染め上げ、彼女はそれでも懸命に話を続ける。声も体も震えているが、言葉には芯を感じさせる何かがあった。


「私は以前友人が務める会社で運命の相手を調べてもらった事があるの。今はもう国の法律で規制されてしまい、その会社に情報を登録している方からしか調べる事ができないけれど、私は法律が規制される前に調べてもらったわ。世界中の個人情報を元に、私に最も適した好みのパートナーを。その中に正人さん、あなたがいたのよ」


 それは聞いた事があった。シングルで生活をする若者が多い為、国が認めた運命の相手を選びやすくするための恋愛相談所。以前は登録していない人でもこの時計のように全ての情報が組み込まれた機械が相手を教えてくれたという。

 僕は自分で見聞きしたものしか信用しない。だからそういうものには興味がなかった。けれど彼女はそれを利用して僕を見つけたというのか。


「街角で正人さんを見つけた時、心臓が止まるかと思った。以前調べてもらった相手が目の前にいて……私はすぐに正人さんに心惹かれたわ」


 そう言って頬を赤らめる。しかしそれはすぐに影に隠れ、再び悲しみにくれながら涙を流す。


「けれど初めは声をかけることが出来なかった。正人さんは自分より長生きする人を好んでいる事は知っていたから。だからたった数時間、たった一日だけでも良かったの。正人さんと共に過ごせればって思って……そう思った時、気づけば声をかけてしまっていたの」


 肩を揺らし、僕に背を向け、嗚咽を零しながら泣き出した。僕はそんな小さな背中をぎゅっと抱きしめてやりたかった。抱きしめて大丈夫だよ、君は死なないし、僕と一緒にこれからも過ごすんだから。そう言ってあげたかった。

 けれど僕の腕が彼女の体に触れる前に、再び話が始まった。


「正人さんを知れば知るほど、惹かれてゆく自分がいて。その気持ちに抗う事が出来なくて、そして私は嘘をついた。特殊なフィルターを使い、実際の時間が見えないよう時計に取り付け死期を偽った。人間の視覚を誤摩化すちょっとした細工を施した、子供染みた嘘で正人さんを騙したの」


 僕は彼女が外したものを目だけで確認する。それはプレパラートのような薄いガラス。何の変哲もなさそうなものだが。


「ごめんなさい……」


 消え入りそうな声が嗚咽に混じり聞こえた。

 僕は彼女を抱きしめた。抱きしめた瞬間、小さな体に電気が走ったように震え、再び謝罪の言葉が聞こえた。


「大丈夫。君はーー」


 そう言った瞬間だった。彼女は突然咽せはじめ、苦しそうに胸を抑える。


「真、真!」


 咳が止まった時、彼女の手の中は真っ赤に染まっていた。思わず背筋が凍る。

 まさか、まさか……本当に……?

 頭を過るのは不安な想像ばかり。恐怖すら覚えるほどに。

 なぜ、突然……? そう思わずにはいられない。


「真、医者に診てもらおう」

「大丈夫、ちょっと喉を切っただけだから。元々気管が弱いの」

「だめだ、見てもらおう。なに、すぐに来るさ。その間医療ロボットに健康状態を見てもらい応急処置してもらうんだ」


 彼女の時計を見ると、残り時間は10分を切っていた。僕は冷や汗が背中を流れるのを感じながら、立ち上がってベッドのそばにあるリモコンを操作する。すると扉を開けてロボットが寝室へやって来た。ロボットの動くモーターの音が静かな寝室に響く。普段は気にも止めないほどの小さな物音が今はとても耳障りだった。


「いいかい、君はここで横になってロボットの健康チェックを受け、喉の処置をしてもらうんだ。その間に僕は病院へ連絡し、先生に来てもらう。いいね」


 何か言いたげだが、僕は有無を言わさない。彼女は仕方なしに小さく頷きベッドに身を預けた。

 きっと何かの間違いだ。機械なんて誤作動だってあるはずだ。死亡推定時刻にズレがあったという例を何かで聞いた事がある。それならきっと間違いだってあるハズだ。なにせ相手は機械なのだから。完璧なものなどこの世に存在しないのだ。大丈夫、彼女は死んだりなどしない。これは何かの間違いだ。

 そう思いながら僕は隣の部屋にある大型スクリーンに電源を入れる。するとすぐに映し出されたのは看護のコスチュームに身を包んだ無機質なロボット。


「すぐに医者をよこしてくれ。緊急なんだ、急いでくれ」

「カシコマリマシタ」


 その瞬間画面がパッと切り替り、表れたのは白髪の痩せこけた老人。老人は白衣を着て画面の向こう側からこちらを見ている。


「先生、急いで来てください。妻が死ぬかもしれません……どうか助けてください」


 医者をけしかけるためとはいえ、自分の言った言葉に泣きそうになった。

 大丈夫だ、彼女は死なない。


「わかった。すぐに行く」

「お願いします」


 そう言ってスクリーンの電源は切れた。それと同時に、隣の部屋から悲鳴が上がる。声はダミ声だったが、明らかに彼女のものだ。


「真!」


 隣の部屋へと駆け込む。叫んだ声は喉がカラカラすぎて思ったより出ない。慌てて駆け込んだ隣の部屋で僕はーー戦慄を覚えた。

 彼女の喉は掻き切られ、血が噴き出している。まるで噴水のように。白い肌がどんどん血の気を失っていく。

 状況が読めなかった。意味がわからなかった。

 なぜこんな事になっているのか。そう思った時、僕は足元に落ちている銀色に輝く物に目を向けた。

 ……メス?


「……げて」


 彼女に向けてメスが飛んでいく。僕は状況が把握できずにいたが、彼女の悲痛な声に冷静さを取り戻し、その原因に目を向けた。

 医療用ロボット。それが暴走をはじめていた。

 無機質で丸いフォルムのロボット。それはクルクルと彼女のそばで狂ったように暴れている。

 僕はそれに向かって駆け出し、ロボットを蹴り飛ばす。それはいとも簡単に吹き飛び、壁に激突してすぐに動かなくなった。

 このロボットはつい先月メンテナンスをしてもらったはずなのに。その時不備や不具合など見つからなかった。それなのに。

 僕は彼女に駆け寄り、弱々しい手を握り締めた。片手は彼女が自分の切られた首を抑えている。けれど血は止まらない。どくどくと吹き上げている。

 僕はその時初めて涙が溢れている事に気がついた。

 その間に先生が部屋へ駆け込んで来る。部屋の有り様を見て驚きつつ、処置を施そうと近寄って来た。けれど妻は僕の手を離さず、僕から目を背けない。その瞳は赤く染まり、涙に濡れている。

 首の血は止まりはじめ、同時に彼女の顔から血の気は消えはじめていた。そしてーー。

 彼女は必死になって口を開く。青白い唇を震わせ、一生懸命僕に何かを伝えようとしている。


「あ……い、し……」


 けれど……彼女は最後まで言葉を発し切らずに動かなくなった。噴水のように吹き上げていた血も止まっていた。同時に彼女の腕につけている時計の時間も止まっていた。

 日付も、時間も、全てが0だった。


「うぁぁぁぁぁぁぁ」


 僕は叫び、血に濡れた彼女を抱きしめた。温もりが消えようとしている体を、人形のように動かなくなった体を、力一杯抱きしめた。大人げなく叫び続け、溢れ出る涙を止めようとも、拭おうともしない。

 この心に広がる空虚さをどうすれば消せるのか。どうすれば全身を襲う痛みを消せるのか。どうすれば彼女は目を開けてくれるのか。

 目の前は真っ暗だった。劇が終わり、緞帳が降ろされた時のように、全てが終わった気がした。僕に出来る事は何もない。きっとない。そう思ってそばに落ちていたメスを拾い、喉を掻き切ろうとした。彼女のいない世界など考えられない。僕にとって彼女とは、いつしかそういう存在になっていた。

 けれどメスが僕の首を切り裂く事はなかった。いつの間にかそばにいた先生が、慌ててそれを止めたのだ。振り解こうとしても振り解けない。弱々しそうに見えて先生は意外と力が強い。掴んでいたメスは払い落とされ、先生のポケットへと仕舞われた。

 僕は無力にその場に崩れ、先生の手が緩んだ一瞬ーー窓へと駆け出した。


「……! やめなさい!」


 そんな声が聞こえたけれど、振り向きもしなければ止まる事もしない。足は先生より早い。追いつかれる事は決してないだろう。僕は窓に体当たりし、13階の部屋から飛び出した。

 ここからなら、死ねるだろう。そう思って僕は目を閉じた。


 世界が僕から消えた。

 ならば、僕が存在しているのはおかしな話だーー。


 僕は死を受け入れた。これでもう苦しむ事も悲しむ事もない……と、そう思って。ーーけれど、僕は激痛で目が覚めた。


「起きたのか」


 目の前には弱々しいあの時の医者だ。


「君は家の下に植えられていた木に引っかかりながら落ちたお陰で、一命を取り留めたのだよ」


 ……そんな。どうか、死なせてください。そう言いたいが、言葉が出ない。


「まぁ、君の残り時間はあと30年もある。ゆっくり治していこうじゃないか。心も、体も……」


 そう言って医者は僕の腕を少し持ち上げ、腕時計を見せた。時計は何事もないように、30年という時間を記載している。それを確認した僕は、絶望に涙した。

 ああ……あと30年も君がいない世界で生きねばならないのかーーと。


 ***


 ーー時計メーカーのある一室。一人の男が部屋の巨大スクリーンに向かってこう言った。


「総理、今年は何人の人口をコントロール致しましょうか」

「そうだな、去年の出生率から考え、今年は1%抑えよう。ただし、子供を作れぬ遺伝子を持つ者を除いて、だ。あと、そろそろ今年は大量に人が消えるシーズンだったな」

「はい、そのように死亡推定時刻を今年86歳になった人や関西エリアに住んでる人をターゲットに設定しております」

「では、気象庁に連絡し、それとなく自然災害を装って事故が起こるよう手はずを整えておかねばならぬか」

「では私の方からはいつも通り医師、医療ロボットメーカーに指示をかけておきます」

「ああ、よろしく頼む」


 そう言って、テレビの画面はプツリと切れた。それと同時に、男は背もたれに背中をあずけ、ポツリとこう言った。


「これも、世界の秩序のためにーー」

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僕から世界が消える日 浪速ゆう @728

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