第82話 81、エピローグ
<< 81、エピローグ >>
ある日曜日、イスマイルと乙女はシークレットを伴って乙女号で軍事衛星に行った。
宇宙空間に浮かんで星々や地球や月を眺めながらコーヒーを飲むためだ。
それはイスマイルの長年の夢だった。
シークレットは衛星を警護しているグリーン大隊司令官との連絡に便利だった。
シークレットは通常は乙女号の無線を使うが、独自の連絡方法も持っているらしい。
イスマイル達の乗った乙女号は衛星の内部のステーションに隣接した円筒形の格納庫に入り、艦橋を艦橋に伸びる桟橋に接続して止まった。
格納庫の入り口が閉じられると格納庫には空気が満たされた。
「さて乙女さん、周囲は空気で満たされた。ステーションに行くのには3つの方法がある。一つは桟橋を空中遊泳してステーションの中に入る。一つは桟橋の横に付いているキャリヤーに乗ってステーションの中に入る。一つはワンボックス車に乗ってステーションに入る。どれがいい。乙女号は宇宙に行くことが頻繁になったので乙女号の車庫は与圧できるように改良してある。宇宙空間で凍ることはないんだ。」
「そうねえ、宇宙遊泳は怖そうだからキャリヤーにしようかしら。」
「了解。最初にデッキにでるよ。」
二人が気閘(エアロック)に乗って艦橋に出るとシークレットはハッチを素早く通って二人を待っていた。
艦橋からデッキに出るとデッキの柵には透明な天蓋が開いたジェットコースターのような乗り物が横付けされていた。
「乙女さん、これがキャリヤーだよ。最前列に乗り込んで青いボタンを押せば動き出すし、赤いボタンを押せば停止する。スピードは遅い。天蓋は自動的に開閉する。」
イスマイルはそう言って最前列に乗り込み、乙女が横に座るとイスマイルは安全バーを下げてから青ボタンを押した。
キャリヤーはジェットコースターと同じような形だったがその動きは自転車並みだった。
シークレットはキャリヤーの横をキャリヤーに合わせて飛んでいた。
ステーションに着くとイスマイルはその位置で言った。
「乙女さん、最初に宇宙でコーヒーを飲むかい。それともトーラスに入るかい。」
「トーラスは前と同じでしょ。最初にダーリンと星を見ながらコーヒーを飲みたいわ。それにしても空気ってありがたいわね。」
「そうだね。本当はここにも重力があればもっといいのだけど僕にはその技術がまだないんだ。シークレット、ぼくらを展望台行きテンダーのエアロックまで連れて行ってくれ。」
「承知しました、イスマイル様。」
シークレットは刎ね上げられた安全バーにつかまっていた二人の手を取りゆっくりと空中を後ろ向きで進みエアロックの中に入った。
エアロックの中にはキャリヤーより少し大きめで、上部の半分が透明な円筒形のテンダーが固定されていた。
三人がテンダーに入って扉が閉じられるとイスマイルが言った。
「乙女さん、これが展望室行きのテンダーだよ。運転はキャリヤーと同じで青いボタンを押せば自動的にスタートして展望室に行ける。赤ボタンは非常ボタンで出発点に自動的に戻る。忘れ物をした時には押せばいい。」
そう言ってイスマイルは青ボタンを押した。
外の状況はテンダーの上半分を覆う透明なキャノピーから全て見えた。
最初に後方のエアロックの扉が閉じ、エアロックが脱気されて行く様子が気圧計で分かり、前方の扉が開くとテンダーの固定は解かれて衛星内部の光の中にゆっくりと飛び出した。
衛星の内部は戦闘機が衛星上部の入口まで1列に並び、戦闘機の上にはヘルメットと軽装甲ボディーアーマーを着けたロボット兵が立って直立していた。
自分たちを作ったイスマイルとその妻乙女への感謝だった。
テンダーは衛星上部の入り口を出て展望室に向かい展望室のエアロックに入った。
エアロックに空気が満たされるとイスマイルが言った。
「乙女さん、ここが展望室のエアロックだ。ここから展望室に行くのに2つの方法がある。一つはこの状態で重力を発生させて展望室には階段で降りるか、無重力で展望室に行って椅子に座ってから重力をかけるかだ。どちらがいい。」
「そうねえ、両方かな。最初は3分の1くらいの重力をかけて。星々が足元を流れる中を透明な階段を歩いて降りて椅子に座るの。それから半分の重力にして二人でコーヒーを飲みましょう。コーヒーを飲み終えたら地球が見える位置で止めて無重力にして。浮かんで地球を見たいわ。それが終わったら重力を地球と同じに、・・・いいえ90%くらいにしてね。イスマイルさん、ここに音楽はあるの。」
「もちろんあるさ。」
「そしたらルンバをかけて。二人でルンバを踊りましょう。」
「了解。楽しそうだ。」
その日、二人は地球を見ながらコーヒーを飲んだ。
そして、少し軽くなった身でルンバを踊った。
それから16年後の2203年、乙女は66歳で退官し多倍体細胞生物講座を育てた弟子に継がせた。
多倍体細胞生物講座はもう少し存続することになる。
乙女は退官後、川本研究所で過ごし、しばしの静かな生活を楽しんだが、やがて執筆活動に入った。
川本五郎が退官後に自叙伝もどきの小説を書いたように乙女はイスマイルの青年時代の物語を書き始めたのだ。
足りない部分はイスマイルが乙女に語り、乙女がその話を脚色した。
「ダーリン、私って幸運な青春時代を過ごしたのね。」
小説を書き終えた乙女がイスマイルに言った。
「そうかもしれない。みんなはどうしているのかね。」
「物語を書くのでいろいろ調べたわ。最初はイスマイルさんから重力遮断ペンダントをもらった中島美雪先生。中島先生は私と同じように固体物性講座の教授になっていたわ。ずっと独身を貫いて、かなり前に退官されたわ。同じようにイスマイルさんがペンダントをプレゼントした青石薫さんは京都大学の教授になっていたわ。青石さんは学生時代に知り合った同じ講座の先輩と結婚されて今はお孫さんもいるみたい。しばらく別居していたみたいね。重力遮断の論文を出しているわ。ノーベル賞候補の一人よ。ノーベル賞と言えばダン研の4年目の時のパートナーだった早乙女忍さんね、あの娘もマスコミ的には有名な教授になってるわ。イスマイルさんのロボットが優秀だったせいか政府も人工知能に力を入れているの。早乙女忍教授も人工知能を研究しているのだけど成果は芳(かんば)しくないわ。有名なのだけどね。私ね、思うんだけど研究には兵隊を集めれば進む研究と優れた一人が進める研究があるのだと思うわ。私の講座の多倍体細胞生物の研究は学生や助手がたくさん居ればたくさんの情報が得られて一人でやるより研究は格段と進むの。でも人工知能の研究はいくらたくさんの学生が一つの目標を目指して研究したとしてもなかなかまとまらないのだと思うわ。ダーリンのロボットの人工知能はイスマイル・イルマズ一人がアルゴリズムを考えたのでしょ。まとまるのは当たり前ね。10人のイスマイル・イルマズが集まって優れた人工頭脳を作ろうとしたらまとまらないような気がするわ。」
「僕のアルゴリズムを知りたければ僕に聞けばいいのに。僕は人工頭脳のアルゴリズムを論文で発表していないから誰も知らない。ロボットを捕まえて解体して人工頭脳を取り出すのは物理的に難しいからね。早乙女さんなら教えてあげるのに。僕が戦闘機の人工頭脳を作ろうと思ったのは早乙女さんがきっかけだったんだ。早乙女さんが電子工学科に行って人工頭脳を作りたいって言ったので戦闘機に人工頭脳を載せたら便利だなって思ったんだ。それまでは戦闘機は人間が操縦するように製造していたからね。」
「優しいのね。でも早乙女教授は聞かないと思うわ。大人になってプライドもあるしね。・・・プライドって言えばプライドの高そうな藤井不死也さんは消息不明。いくら調査しても分からないの。私の力では調べることができなかった。」
「藤井さんの消息を知りたいかい。僕なら調べることができるよ。」
「それはいいわ。消息不明のままでいい。藤井さんらしいわ。・・・それから自衛官だった才賀未知さんね。あの方は女性の身で2等海佐になっていたわ。軍艦の艦長さん。そろそろ退官かしら。歳は忘れてしまった。」
「たいしたものだ。まさか潜水艦ではないよね。」
「海上艦だそうよ。そうそう、言い忘れていた。ダン研の武川武蔵君ね。武川君は酒屋のご主人になっていたわ。大学を卒業してすぐに実家の酒屋を手伝い始めたのだって。黒川君が教えてくれた。武川君はダンスのパートナーとは結婚しないで下宿のお嬢さんと結婚したのだって。」
「色々あったんだろうね。」
「男女の恋愛というのはいつまでたってもわからないわ。恋愛といえば好色漢イスマイル・イルマズが処女を奪ったパティー・パルドン教授とキャシー・サンブライズイーグルさんについて知りたい。」
「あれはなり行きだよ。強硬に頼まれたんだ。」
「今は分かるわ。パルドン教授は勇気のある方だったのね。パルドン教授はだいぶ前に亡くなっているわ。この方も生涯独身だったみたいだけどあまりよく分からないの。・・・サンブライズイーグルさんは幸運な方なのね。パルドン教授の後を継いでオックスフォード大学の教授になっていた。そろそろ定年ね。」
「あの娘は大胆だったからね。」
「まあ。・・・でもダーリンは私のもの。幸せよ。」
「それは良かった。」
「書き終わった小説ね、私の好みでダーリンとの新婚旅行を詳細に長々と書かせてもらったの。新婚旅行はほんとに楽しかった。」
「どこが一番良かった。」
「そうねえ、月夜の海の上も良かったけど、やはり月夜のアマゾンの樹冠の上かな。樹海の樹冠の上なんて初めての経験だったし、月光を反射している樹海が綺麗だったし、色々な声や音が聞こえたし、そして何よりも安全で安心だったわ。」
「うん、あそこは良かったね。ジャングルの匂いが強烈だった。」
「いつかまた行って見ましょう。」
「そうだね。」
2211年の4月、イスマイルと乙女は乙女号でブラジル連邦共和国のアマゾンに行った。
月夜のアマゾンジャングルの樹海の樹冠の上でコーヒーを飲むためだった。
旅行にはブラック大隊の戦闘機10機が護衛した。
到着した赤道上のアマゾンは雨だったので二人は2日間をアマゾンの上空を飛行しながら乙女号で過ごす羽目になった。
3日目。
雨は止み、樹冠の若葉に残った水滴が月光にきらめく月夜となった。
イスマイルと乙女は乙女号のデッキに椅子とテーブルを出し、月光に輝く樹海を眺めながらコーヒーを飲んだ。
新婚旅行の時と同じようなおいしいコーヒーだった。
二人は夜半まで楽しい時を過ごした後、イスマイルは乙女号を高速で川本研究所に戻し、二人で軽い夜食を取ってから就寝した。
翌朝、乙女はベッドから出て来なかった。
乙女は眠るように死んでいた。
乙女は74歳の生涯を閉じた。
原因は不明だった。
アマゾンに住む病原菌だったのかもしれなかった。
イスマイルは乙女の死を自身が納得するまで待ってから川本研究所の山に面する庭の隅に乙女を埋めた。
そこには川本三郎と川本五郎とアン・シャーリーの墓が並んで立っていた。
イスマイルは乙女をアン・シャーリーの隣に埋め、アン・シャーリーと同じような墓を建てた。
それらの墓はアンカラにあるイルマズ家の廟よりはずっと見窄(みすぼ)らしかった。
イスマイルは乙女の姻戚には乙女の死を伝えなかった。
乙女は親戚とは絶縁状態になっていたのだ。
乙女が書いた物語に乙女の親族が記述されなかったのはそのためだったのかもしれなかった。
乙女が74歳で死んだ時、イスマイルは160歳になっていた。
その肉体はまだ26歳だった。
今後イスマイルは数百年を生きなければならない。
それはイスマイルにとっては別の人生になるのかもしれない。
乙女が書いた物語はここで終わる。
2020・1・26 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます