第21話 20、多倍体細胞生物講座
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イスマイルが翌日の月曜日に研究所の講座の大学院生室に入るとすぐに吾郷麻子は椅子を壁まで引いて待ち構えていたように言った。
「おめでとう、イスマイル君。見に行った。日本一よ。にっぽんいち。」
「おはようございます、吾郷さん。見に来てくれたのですか。いまだに信じられない結果でした。」
「私はダンスはほとんど知らないけどイスマイル組が一番うまいってのは直ぐに分かった。イスマイル君のカップルが一番目立っていたし、落ち着いて見ることができた。他のペアは何を踊っているのか分からなかったわ。イスマイル君達の踊りはワルツとタンゴとスローなんとかとクイックステップ、それから・・・んー、なんとかワルツだってすぐに分かった。」
「ベーシックをたくさん入れましたから。」
「それでトロフィーと賞状の他には何をもらったの。」
「アマチュアですからそれだけです。」
「そうね。アマチュアだものね。得たのは名誉だけか。・・・ダン研はどうするの。」
「4年目までがんばるつもりです。」
昼休みにイスマイルは乙女といつものように教習所に行った。
蒲田先生は破顔して二人に言った。
「おめでとう。凄いダンスだったな。ファイナルの評価を見たか。全員が1位に選んでいた。」
「二人で作戦を立てましたから。」
「どんな作戦だ。」
「審査員に見せるダンスではなく踊るのが楽しいダンスにしようとしました。そうすれば同じようなダンスに見飽きていた審査員に新しい感動を生むかもしれないと考えました。だから落ちるかもしれないとは思っていました。」
「計画通り、審査員に感動を生んだわけだ。だが、あんなダンスはだれにもできんぞ。ワシだって晶子にだってできない。」
「我々は特に強い筋力を持っているようです。」
「それは分かる。とにかく動いている途中が全く見えなかった。」
「秘密特訓の成果です。フィンガースナップの速さで動こうと訓練しました。」
「この速度か。」
そう言って蒲田先生は右手でフンガースナップの破裂音を出した。
「はい。動いている指は見えません。」
「分かった。まだここに通うのか。」
「よろしくお願いします。」
「OK。少しラテンを教えてやるか。」
火曜日の夕方、イスマイルがいつものようにダン研の例会に行くと雰囲気がいつもと少し違っていた。
練習の前に大向部長がみんなに言った。
「皆んな知っているかもしれんが一昨日(おととい)イスマイルがとんでもないことをした。アマチュアの全日本選手権大会で大鈴井先輩と組んでスタンダードの一位になった。日本一だ。もちろんダン研からも出場したが予選は通らなかった。例年通りだがな。1000組以上のカップルが出場した大きな大会だった。そういうわけで1年目はよくイスマイルのダンスを見ろ。日本一の動きを見ることができる者は多くはいない。イスマイル、何か言え。」
「おかげさまで優勝できました。ダン研で基礎をしっかり身につければ短期間でダンスが上手になると思います。それから、どうしたら美しく見えるのか、どうしたら大きな動きになるのかを常に考えながら練習することが重要だと思います。以上です。」
「うむ、いい訓示だ。ようし、練習を始めるぞ。」
この頃にはイスマイルの周りから諜報員の姿は消えていた。
イスマイルが研究をほったらかしてダンスに没頭しているように見えたのかもしれなかった。
数日後、イスマイルは昼休みの練習が終わると駐車場に車を置いてから大鈴井乙女と一緒に理学部の方に向かった。
多倍体細胞生物講座の大鈴井乙女の部屋に行ったのだ。
乙女のいる部屋には固体物性講座と同じように数人の大学院生がそれぞれの城を築いていた。
1年で消える4年生は別の部屋に机を並べているらしい。
大鈴井乙女の席はドアに近い場所で、個体物性のイスマイルの机の位置と同じだった。
「へー、大鈴井さんの机の位置はうちの講座の僕の机の位置と同じだよ。」
大鈴井乙女はダンス用品が入ったスポーツバックを椅子の横に置いて言った。
「そうなの、偶然ね。ここはみんなの邪魔になるからミーティングルームで話しましょう。」
「了解。」
そう言ってイスマイルが扉の方を向くと、大鈴井の隣の席の女性が顔を出して言った。
「大鈴井さん、この方を紹介してくれない。」
「ふふふ、いい男でしょう。いいわ。・・・イスマイルさん、こちらの美女はDC1年の明智明美さん。明智さん、この男性はイスマイル・イルマズさん。名前がイスマイルよ。裏の研究所の固体物性講座の留学生。トルコ人で私のダンスのリーダーさん。」
「明智明美です。よろしく。」
「イスマイル・イルマズです。よろしくお願いします。」
「日本語がお上手ですね。」
「ありがとうございます。来日のために少し勉強しました。」
「もし学食でお見かけしたら声をかけさせてくださいね。」
「いつでもどうぞ。」
「明智先輩、イスマイルさんに手を出したらだめですよ。」
「恋は水ものよ。」
イスマイルが乙女とミーティングルームで話していると初老の女性が入って来た。
部屋の隅にいた事務員に用事があったらしかった。
「おや、大鈴井さんのお友達。」
「はい、先生。私のダンスのリーダーです。」
「そうなの。この講座の欧陽菲菲(オーヤンフィーフィー)です。お名前は。」
「イスマイル・イルマズと申します、欧陽先生。トルコ人です。」
「でも純粋なトルコ人のお顔ではないようですね。」
「はい、欧陽先生。日本人との混血です。」
「イルマズさんのお仕事は。」
「仕事はしておりません。化学科の固体物性講座の留学生です。」
「そうなの。固体物性講座ならあのお酒のみの飯島澄孝先生ね。」
「はい、お酒好きの飯島先生です。」
「ふふっ。酒飲み講座でイルマズさんはどんな研究をなさっているの。」
「リチウム包摂カーボンナノチューブの単結晶を作ることでしたが単結晶は出来上がり、論文も出しましたから今の研究課題はありません。」
「そしたらもう帰国されるの。」
「いいえ、私は本学のダンス研究会に入っております。ダン研の4年間を全うしようと思っております。」
「でもそれなら宙ぶらりんね。どう、うちに来ない。歓迎するわ。固体物性とは畑違いだけど生物学も面白いわよ。一から教えてあげる。」
「先生、イスマイルさんは既に多倍体細胞生物学を学んでおります。」
大鈴井乙女は話に割って入った。
「どういうことですか、大鈴井さん。」
「イスマイルさんの年齢は109歳です。この講座を開かれた丁寧先生の時代に丁寧先生の研究に興味を持たれて研究されたそうです。」
「本当ですか、イルマズさん。」
「本当です。飯島澄孝先生も私の年齢を知っております。私の履歴書を見ましたから。」
「イルマズさんは不死者なの。」
「違うと思います。単に発育が遅いだけです。私は確実に歳をとっておりますから。」
「でも驚いた。イルマズさん自身が研究対象になるわね。」
「寿命の短い人間が寿命の長い人間を研究することは不可能だと思います。」
「その通りね。それができるのはイルマズさんだけ。でもこの講座に来ない。イルマズさんをずっと見ていたいの。奇跡の人間をね。」
「もし可能なら私はこの講座の留学生になりたいと思います。」
「絶対に可能にするわ。あの酒飲みと談判してあげる。それでイルマズさんはこの講座で何を研究したいの。」
「多倍体細胞の分化を研究したいと思います。以前の研究ではそこまで研究を広げることができませんでした。」
「了解よ。分化の研究は手が多い方がいい。政府からも多倍体細胞の脳への分化をせっつかされているの。政府は脳への分化が簡単なことだと思っているみたいね。」
「移籍ができたら多い手の一つになろうと思います。」
「了解。おもしろいことになったわね。ワクワクする。」
そう言って欧陽菲菲教授は鼻息荒く部屋を出ていった。
教授がいなくなると乙女は言った。
「予想外の展開になったわね、イスマイルさん。」
「確かに予想外だ。初めて乙女さんの講座を訪問して偶然に欧陽先生に出会って話をしたら留学先の移動の話になってしまった。しかも欧陽先生は飯島教授を知っているようだった。偶然の重なり合いだ。」
「大隅さん、欧陽先生と飯島先生とは何かあったの。」
乙女は部屋の隅に座っていた事務員の大隅聡子に言った。
「よく知りませんが若い頃に雨の中で大げんかをしたみたいですよ。大阪の御堂筋だったかしら。」
「きっと壮絶な殴り合いをしたのね。」
「殴り合いではなく物の投げ合いだったと聞いています。」
「おやおや、残念。」
イスマイルは大隅聡子に言った。
「大隅さん、ここの留学生になれたらよろしくお願いします。イスマイル・イルマズです。」
「こちらこそよろしくお願いします。大隅聡子です。欧陽先生はお強いからそうなると思います。」
「殴り合いにならないといいですね。」
「二人共もう殴り合いはできない年齢だと思います。」
「同感。」
イスマイルの個体物性講座から多倍体細胞生物講座への移籍はあっという間に決った。
飯島澄孝先生は欧陽菲菲教授に弱みを握られていたのかもしれなかった。
個体物性講座のイスマイルの机は主(ぬし)の居ないままに残された。
形式的にはイスマイルはあくまでも個体物性講座の留学生であり、多倍体細胞生物講座への一時的な出向ということになった。
正式な書類のやり取りはなかった。
多倍体細胞生物講座でのイスマイルの机はとりあえず4年生が机を並べて座っている大部屋の机の一つに指定された。
その大部屋は壁に向かって並べられた机を6人の女学生が使っていた。
イスマイルはハーレムの臨時の王様になった。
「みなさん、しばらくご厄介になります。トルコから来たイスマイル・イルマズです。よろしくお願いいたします。」
イスマイルがそう挨拶すると部屋の女性たちは少しはにかんで頭を下げた。
その中の一人の女性がイスマイルに言った。
「イルマズさんを先日テレビで拝見しました。スポーツニュースに出て来ました。大鈴井先輩とダンス選手権に出られてアマチュアの日本一になられたそうですね。『日本ダンス界に新星現る』って見出しが出ていました。圧倒的な勝利だったと解説しておりました。」
「恐れ入ります。大鈴井さんのおかげです。それと幸運もありましたね。」
「映像は3秒ほどでしたが素敵でした。」
「ありがとうございます。ダンスはもう少し続けるつもりです。」
「イルマズさんはここで何を研究なされるのですか。」
「欧陽先生しだいです。まだはっきり決まってはおりません。」
数日後、教習所に向かう車の中で乙女がイスマイルに言った。
「欧陽先生はイスマイルさんの論文を読んだようね。感心していた。」
「あの時はたった3報くらいしか出していなかったと思う。初心者だったからね。当時は6歳か7歳くらいの姿だった。座布団常時所持でね。実験は立ってやった。隠れるように細胞培養を続けたよ。」
「かわいそうにね。」
「多倍体細胞の研究には決定的に不利な点があるんだ。一人では研究が続かないことだ。多倍体細胞を作るには時間がかかる。2倍体から4倍体を作るには数ヶ月かかる。セレクションに時間がかかるからね。その間にどんどんDNA量は減少する。新しい4倍体から8倍体を作ってもまた数ヶ月かかる。そんなことをして色々な倍数体を作ってもその頃には在学期限が迫ってくる。オックスフォード大学を辞めた時には何種類もの多倍体細胞が冷凍庫に保存されていたが、やがては全て捨てられる。新しい研究者が出て来てもその人はまた何年もかけて多倍体細胞を1から作り始めなければならない。その点、多倍体細胞生物講座のように長年続いている研究室は有利だ。多倍体細胞を作ってたくさんのクローンを冷凍保存しておけばいい。新しい4年生にはそのうちの一つを解凍して実験させればいいわけだ。こんなに便利なことはない。」
「イスマイルさんは一人だから苦労したのね。私なんて8倍体細胞から始めているわ。冷凍庫には多数の細胞アンプルも保存されている。みんな過去の先輩達が作って保存しておいてくれたものよ。イスマイルさんの話を聞くと私達は幸せなんだと思えるわ。」
「それもこれも丁寧先生が講座を開いて後継者を作り上げることができるシステムを創り上げたからだと思う。立派だよ。」
「その丁寧先生に就職の世話をしたイスマイルさんのお父様も立派だったことになるわ。確か、お父様の伝記の中で、丁寧先生は私たちのような腕力はなかったけどその替わりに優れた研究能力があるって評価されていたわ。それが丁寧先生の特殊能力なのですって。」
「そうだったね。」
「これでイスマイルさんは脳への分化を大手を振って研究できるようになったわね。」
「そう言うことだ。日本の遺憾砲を新しくできるのはオーラが見える乙女さんと僕しかいない。」
「私達、重要人物ね。」
「そうなる。」
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