第2話「勝ち筋には貪欲に」


 その日の夜、ぼくは埃の積もった将棋盤を取り出し、佐竹との対局の棋譜を並べた。負けた将棋の検討は、将棋指しの性みたいなところがある。これをやらなくては眠れないのだ。

 昔は、負けたのが悔しくて悔しくて、涙を流しながら、完勝するまで棋譜を並べたものだったが、ある時から、それを虚しく感じ始めた。次第に、感想戦が投げやりになり、検討さえしなくなると、負けても悔しさを感じなくなっていた。その時、突き付けられたのだ。自分は将棋など好きではないのだと。自分が好きだったのは、ただ勝負で勝つことだった。

 頭を振り、気持ちを切り替える。

 過去を振り切るように、どんどんと駒を動かしていくと、ふと、ある局面で違和感を覚えた。それは、この一局のターニングポイントとなった場面で、ぼくの攻めを手抜いて、佐竹がカウンターの手を指したところだ。指している時は、佐竹の頑強さに勝ち目がないと諦めていたが、今、見返すと、攻め合いでまだまだ勝負は分からなかったかもしれない、と思える。ぼくと佐竹の力量差を考えると、これは明らかに佐竹の悪手だ。そして、受けの名手のこのミスは、かなり異常だ。

 ぼくは本腰を入れて、読みを深める。

 考えれば、考えるほど佐竹の悪手ぶりが露わになった。ミスにガジガジと喰い付いていれば、万に一つもなかったぼくの勝ち筋が、わずかながら見えてくる。それだけに、その手を指した佐竹に、ぼくの関心は向かって行った。彼女は気付かないまま、指したのか。あるいは、気付いていながら、ぼくに塩を送ったのか。いや、そんなことをする理由が分からない。勝ちを貪欲に望み、それでもまだ満たされない三段リーグの餓鬼が、非公式の将棋とはいえ、わざと悪手を指すとは思えなかった。

 次の日の放課後、ぼくは佐竹を掴まえて、昨日の将棋について聞いてみた。

「どの手のこと?」

 ぼくは検討していた内容を全て、佐竹に話した。初め、半信半疑で聞いていた佐竹だったが、ぼくの話を聞くうちに、顔色が変わった。

「あれは、わざとだったんだろう?」

 ぼくはそう聞かずにはいられなかった。一言、佐竹がうんと頷けば、この話はこれで終わりだ。実際、勝負には佐竹が勝っているのだし、ぼくがケチをつける道理はない。だが、

「いいえ、わざとなんかじゃない。あれは、私のミスよ」

 彼女は絞り出すように言って、唇を噛みしめた。

 ぼくは、苦々しげな佐竹の顔を見て、そうだ、これが将棋指しだ、と思い出していた。相手のミスで拾った勝利に意味はない。それはいつか、自分を刺す刃になることを知っているからだ。わずかずつ器に盛られた毒のように、じわじわと積もり、やがてこぼれる。その時が来てから、後悔しても遅い。気付いた時には、その刃は自分の喉元へ突き付けられている。

「話はそれだけ?」

 佐竹はカバンを持ち、ふらふらと立ち上がった。瞳には青っぽい炎が渦巻き、熱病患者のように潤んでいた。ぼくは彼女の中で燃えているものが何かを知っている。義務感だ。将棋を指さなければいけない。勝負に負けて、強く揺さぶられた時にこそ、その義務感は激しくなる。

「なあ、ぼくらはどこかで会ったことがあるのか?」

 彼女は首を振り、否定した。

「会うのは昨日が初めて。でも、お互いを知ってはいるはず」

 意味深な物言いに、ぼくが首をかしげると、佐竹は後を続けた。

「私の祖父のことは知っているでしょう」

「ああ、少しでも将棋に触れていたら、知らない訳がない」

「そういう意味じゃないの。あなた、おじいちゃんと将棋を指していたでしょう。だから、私はあなたを知っているの」

 一瞬、思考が止まった。葉書の宛て名は御子柴諒。たしかに、永世名人の名前だ。だけど、それはペンネームみたいなものじゃないのか?

「けど、葉書は今も届いてるぞ」

「あれは、私。三年前からね」

 衝撃の事実に、ぼくは言葉を失う。

「あなた、将棋雑誌に詰め将棋の投稿欄で採用されたことがあったわよね。昔は大らかだったから、そこに住所が書いてあることもあって、祖父は引退した後、そういう人に葉書を出して、よく将棋を指していたわ。だいたい百人くらいいたかしら」

 葉書の相手が御子柴諒、本人ということにも驚きが隠せないけれど、百面指しに、ついにぼくの理解が追いつかなくなる。

「祖父の相手で、私と同年代だったのは、あなただけだった。だから、私、あなたのことを勝手に決めつけていたのだわ」

「決めつける? どんな?」

 佐竹は逃げていく言葉を、追いかけるように目を伏せて、少し黙った。

「きっと、私を……。いえ、私と同じなんじゃないかって」

「佐竹は、将棋が好きか?」

 彼女は薄く笑った。

「本当は、嫌いだろ」

「プロを目指すような人間に、そうじゃない人がいるの?」

 人生を、将棋という賭けの質にする覚悟。それは当然、将棋を好きだという気持ちから生まれてくるものなのかもしれない。だけど、それは引換券なのだ。タダで手に入るものなど、この世にはない。犠牲の大きさにつり合わない、わずかな成果。何もかも投げうって、それでも得られず、賭けてきた全てを失う。そのことに気付いてしまった時、ぼくは、ぼくらはもう一度、将棋など指せるのか?

「ここ二年間のスランプは、そういうことだったんだな」

「私にとって、将棋はおじいちゃんそのものなの。三年前におじいちゃんが亡くなった時、ふと思ったわ。これで解放されるんだって。でも、そうじゃなかった。私には将棋しかない。ありとあらゆる時間を将棋に捧げて、生きてきた。もう、私の人生は取り返しのつかない所まで来ていたのだと、はっきり気付いた。空っぽなの。何もない。三桁の詰め将棋が解けたって、それが何だっていうの? 世界は、将棋で回ってなどいない。だけど、私の世界は将棋しかない。将棋が私の全てだった」

 ぼくの脳裏に、ある一局がよぎる。ぼくが将棋を諦めるきっかけになった一局だ。

 とある子ども将棋の大会で、ぼくは地区代表に選ばれた。地元のトーナメントを危なげなく勝ち進んだ末、全国大会の第一回戦。完膚なきまで叩きのめされて、ぼくは控え室で一人、その対局を振り返っていた。そこにはぼくのように負けた子どもたちがいて、やはり将棋盤に向かっていた。控え室に置かれたテレビには、二回戦の中継が映っており、それもじきに終わると、負けた子どもがやってきた。ふと顔を上げると、そこにはぼくを負かした相手が立っていた。彼は、負けちゃったよ、と言って、ぼくの前に座った。それから、ぼくは彼が棋譜を並べるのを、ぼーっと眺めていた。だけど、ぼくが見ていたのは、棋譜なんかじゃない。

 ぼくには、そこに大きな壁があるのが見えた。その壁は一枚どころではなく、何重にも、ぼくの目の前に立ちふさがっている。それはとても大きく、よじ登るのだって一苦労なのに、遠ざかっていくほどに壁は高く、大きく、そして厚くなっていく。

 悟り、というのは、案外、こういう諦めのことを言うのかもしれない。その時、ぼくは世界を見た。ちっぽけな自分と、永遠にも思えるほど大きな、ぼくを取り巻く器。何をしても、無駄なんだ。ぼくに出来ることなんて一つもない。そんな思いがぼくを包み、あたたかく迎えてくれた。

「佐竹、ぼくに負けたら、将棋をやめるか?」

「……ただの将棋部員にも負けるようじゃ、プロなんて無理なのかもね」

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