死者の棋譜 ~投了はまだ詰んでない~

茜あゆむ

第1話「勝ち目がないなら潔く」


 小学生の頃、年に一回、母親から千円札をもらって、地元の将棋大会に参加するのが恒例だった。まだネット将棋も普及してない頃で、大人と将棋を指せるのは滅多にないことだった。さらに言うと、大会はお昼付きで、そこで出る祇園弁当のだし巻き卵が、ぼくは好きだったのだ。

 プロ棋士の先生が来て、詰み将棋や次の一手のレクリエーションの後、ぼくらは二十分の持ち時間で将棋を指した。とんでもなく強いおじいちゃんや、へにゃへにゃな駒の持ち方の高校生。色々な人が集まったものだった。へぼな将棋もあれば、思わずため息の漏れる一手もある。

 ぼくはもちろん、後者の方。自信たっぷりな大人をぼっこぼこにするのが楽しいっていう、生意気な子どもだった。その大会で優勝すると、地元の新聞に載ることができて、ぼくはいつも、元奨励会の大学生と優勝を争った。

 あの頃は、本当に楽しかった。勝てば勝つだけ、自分が大きくなった気がした。神童なんてもてはやされて、いい気になっていた。だけど、そんな子どもは全国の田舎に掃いて捨てるほどいる。そこからプロになるのは、ほんの一握り。ぼくはそこに辿り着く間でもなく終わった。いや、自分から終わらせたのかもしれない。

 いつからか勝負が重荷になり、勝ちが遠ざかるほど、将棋への熱を失っていった。

 そうして、ぼくはもうすぐ高校生になる。



 入学式の朝、郵便ポストにはいつもの通り、葉書が入っていた。差出人は御子柴諒、裏には簡潔に、▲7四歩と書いてあり、それはつまり、矢倉二十四手組が定跡通りに進んだことを示していた。

「また、将棋の手紙?」

 母の質問に適当に返事をして、ぼくは葉書の字をまじまじと見つめた。戦型は相矢倉。ありとあらゆる駒が、がしっと組み合って戦う将棋の純文学。その異名の通り、ねちねちした指し回しになることも多々あり、定跡は難解そのもの。それだけに指しこなすのは、全ての将棋指しの憧れでもある。そして、先手と後手で、攻撃と防御の役割に分かれるのが、矢倉の一番の特徴だろう。

 それを考えると、後手の御子柴さんが急戦、つまり殴り合いを避けたのは、少し妙な気がした。

 ちなみに、御子柴諒とは、三年前に亡くなった永世名人の名で、恐らく、葉書の御子柴さんはその名にあやかっているのだろう。名前を借りているだけあって、御子柴さんは猛烈な攻め将棋が得意だった。永世名人も気性の荒い攻めが持ち味の棋士で、駒損覚悟で突っ込んでいって、相手の囲いを攻め潰し、付いたあだ名が重戦車。敬愛する棋士の名を騙るくらいなのだから、棋風としては、攻めてこなければおかしいくらいなのだけど。

「綾人、遅れるわよ」

 母の声に、はっと我に返り、鞄を取りに家に戻った。

「新入生代表挨拶、楽しみね。中学生プロの子でしょう? やっぱり、ああいうのは血筋なのかしらね」

 綾人も将棋を続けていれば、プロだったかもしれないのに、と呑気なことを言う母。

「佐竹リョウなら、まだプロじゃないよ」

 彼女は御子柴永世名人の孫で、現在奨励会三段リーグで戦っている。三段昇格は十三歳の時で、史上初の女子のプロの誕生か、と騒がれたけれど、彼女は、いまだプロになれず、鬼の住むという三段リーグで苦しんでいる。

「母さん、先に行ってるよ」

 そう言って、ぼくは家を飛び出した。



 入学式が終わると、部活見学の案内が始まった。薄い紙ぺら一枚のパンフレットが渡され、そこには、それぞれの部活と活動場所が記されていた。

「綾人くんは、やっぱり将棋部?」

 声をかけてきたのは、駒子だった。三つ編みに分厚いビン底眼鏡という、名前に違わぬ古風な格好をしている。小学校に上がる以前からの幼なじみだ。

「さあ、考えてない」

「大会で優勝とかすると、受験に有利だよ」

 駒子は、にこにこと人の良さそうな顔で、打算的なことを言う。

「私も見に行きたい部活あるから、付き合ってよ」

 と駒子が指差すのは、校舎五階、数学準備室とその隣の、多目的室。パンフレットには演劇部、と書いてあった。

 ぼくと駒子は新入生と、勧誘に忙しい上級生のごった返す階段を昇りながら、佐竹リョウのことを話した。

「彼女、史上初めての女性プロ棋士になるんでしょう? 写真で見るより、ずっと美人だったし、すっごい顔、小さかったね」

 元が将棋少年だったからか、佐竹リョウのことは飽きるほど、質問されてきた。おかげで、プロがどうとかいう話にはうんざりだ。

「まだプロじゃないんだって」

「けど、じきにプロになるでしょう。あれだけ強いんだから」

「さあね、案外、このまま勝てなくて、諦めるかもしれないし」

「そうなってほしいの?」

 駒子を見ると、彼女は目を平らにして、ぼくを見つめていた。

「まさか、第一、ぼくには関係ない話だよ」

 と言ったところで、ぼくらは数学準備室の前についた。

 ぼくは将棋部、と書かれた画用紙の前で立ち竦む。このまま帰ってしまおうか、いや、内申点で有利だと言っていたし、などと逡巡していると、後ろで声がした。

「ここが将棋部?」

 凛々しい女子の声。振り返ると、そこには佐竹リョウがいた。すっと伸びた背筋に、すらりとした手足、腰に手を当て、立っている姿もモデルのように見えた。

「入るの? 入らないの?」

 首をかしげると、後ろで一つにまとめた黒髪が揺れた。

「奨励会員が、部活に用事?」

 思わず、口に出していた。佐竹リョウはむっとしながら、

「中学の先輩に会いに来たの」

 と一応、説明してくれる。

 駒子が、ほら、とぼくの背中を押すので、ぼくは仕方なく、将棋部の扉を開いた。中は教室の半分ほどの大きさで、長机が三つ置かれていて、木製の薄い将棋盤が各机にこれまた三つずつ。ぱっと見たところ、部活の勧誘というよりはフリースペースになっている。ど素人の五人が、わーわーと叫びながら、盛り上がっているのを横目に、恐らくは正規部員である上級生たちが、だるそうに将棋を指していた。

 そのうちの一人が、顔を上げ、こちらに気付いた。

「リョウ! 来てくれたんだ」

「お久しぶりです、先輩」

 唯一の女子部員が立ち上がり、佐竹リョウにハグする。ひとしきり、互いの何やそれやを確かめ合った後、先輩はこちらを向いて、佐竹リョウに尋ねた。

「二人はリョウの友だち?」

 そこで一緒になっただけですよ、と佐竹が言う。

「私は、彼の付き添いで……」

 と駒子がぼくを指差すと、

「じゃあ、入部希望だ」

 先輩はほがらかな笑みを浮かべて、君、名前は、と言った。

「平紗、平紗綾人です」

「そっか、どう、一局指してかない?」

「あ、いや、今日は見学だけで」

 と断ろうとした時、佐竹リョウがぼくの手を掴んだ。

「私とやろう」

「は?」

 掴まれた手首が圧迫され、さらには捻られる。

「やるでしょう、平紗綾人」

「は、ハンデは?」

「あなた、平手で指せるでしょ」

「まさか、三段相手にそんな無謀――」

「こっちは目隠しでいいわ」

 もう一度、は? と疑問が口をついて出た。目隠しをして将棋なんて、まともじゃない。。無数の読み筋と、現在の盤の局面を同時に記憶するなんて、そんなこと不可能だ

 あまりのことに絶句していると、佐竹が口を開いた。

「無言は、了承と受け取ったわ」

 佐竹リョウが指すと聞きつけ、将棋部員たちが集まってきてしまった。図らずも、ぼくとしては退路を断たれた形になる。

「先手はあげる」

 制服のスカーフをするりとほどいて、彼女は目元をしっかりと塞いだ。

「どう、これで文句ない?」

 とぼくに聞くが、元々、文句しかないので答えなかった。

 先輩が手早く、差し出した将棋盤に、彼女は深々と頭を下げて、よろしくお願いします、と口にした。

「綾人くん、頑張って」

 外野の駒子が呑気にそんなことを言う。だが、仕方ない。

「よろしくお願いします」

 ぼくは手を伸ばし、第一手を指した。



「すごいよな、練習相手は元トッププロだろ」

 対局している後ろで、誰かがそう口にするのを聞いた。厳しい盤面もあって、何を呑気なことを、とつい苛立つ。恐らく、元プロ、しかも東のトラブルメーカーと呼ばれた御子柴諒が練習相手だという、その意味を多くの人は理解しないだろう。ましてや、勝負の世界に四十年も身を置いた、頑固で気難しく、癇癪持ちの棋士だ。佐竹リョウの祖父、御子柴諒が孫を可愛がり、やさしく彼女に将棋を教えたはずがない。文字通り、彼女は将棋を指すことで死ぬような思いをしたに違いない。それは彼を直接見たことがない人には、分からないことなのかもしれないが。

「そういえば、名前同じなんですね」

 彼女は少しも動じず、

「知らなかった? 私の名前はおじいちゃんからとったのよ」

 と言った。

「それとタメ口でいいから」

 将棋の局面はおよそ半分が過ぎた辺りだろうか。ぼくは佐竹リョウの頑強な受けを、嫌というほど味わっていた。攻めても、守っても、一向に良くなっている気がしない。底なし沼にじわじわと沈んでいくような気分だ。しかも、ぼくが長考した末に指した手を、彼女はノータイムで返してくる。

「こんな将棋指して、楽しいか?」

「それ、こっちの台詞だと思うんだけど」

「だから初めに言っただろう。三段に敵う訳ないって」

 佐竹の受け将棋は、重戦車と呼ばれた御子柴永世名人の攻めを、長年、受け止めて出来上がったものだ。固く頑丈で、けれど時に柔軟で掴みどころがない、剛柔あわせもった無敵の防御。それは彼女が永世名人の刃をくぐり抜け、いくつも、いくつも生傷を作っては鍛えてきたものなのだ。中途半端に将棋をやめたぼくが、彼女の受けをどうやって打ち崩せるというのか。

 一手指すごとに、彼女が駒を持つ指先から、血が一滴ずつ、こぼれおちるような気がした。落ちた血痕は、打ちおろされた駒と共に、盤面にしっかりと刻み込まれる。

 気付けば、ぼくの攻めは受け切られ、ぼくの陣地は囲いを残して、丸坊主になっていた。

「もう、ないです。負けました」

 佐竹は目隠しを外すと、苦虫を噛み潰したような顔で、将棋盤を眺めた。

「あなた、弱くなったんじゃない?」

 まるで昔のぼくを知っているような物言いに、ぼくは驚く。立ち上がった佐竹を問いただそうと、口を開いた時、将棋部員がわっとぼくの周りを取り囲んだ。

 結局、佐竹はそのまま帰ってしまい、ぼくは部員たちに質問攻めにされた。言わなくてもいいことを、駒子がぺらぺらと喋るので、ぼくはすっかり挫折した天才のような扱いにされてしまった。

 帰り際、ぼくが駒子に佐竹の言葉の意味を聞いた。

「昔、どこかの大会で対局したことがあるんじゃない?」

 返ってきた答えに、ぼくは頭をかしげた。女子と対局した覚えは、ないのだが。

 部室を出る時、佐竹は一瞬だけ振り返った。その唇は、期待してたのに、と動いた気がした。

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